その3を書いた時点で、その4もほぼ現状まで書き終えていた。が、どこで区切るべきか考えているうちに多忙となり中断。その後、多忙じゃなくなっても、一度中断した作業を再開できずに現在に至る。
とりあえず、書いたものは公開しようと思う。たった4年分だけど。
1871年(清・同治10年 日本・明治4年)
牡丹社事件が起きる。
この年、琉球国の船が台風に遭い、台湾の屏東付近に漂着した。総勢60名ほどいた彼らは、当地の集落「牡丹社」に向かい、54名が殺害されてしまう。
殺害に至った経緯は、日本側と台湾側の主張が異なるので、はっきりしないと記しておく。明確なのは、日本政府が事件の責任を原住民のみに被せた点である。
生き残った琉球人は、福建省に送られた上で琉球国へと還された。
ここまでの表現でも分かるように、清側はこの件を、あくまで清と琉球国の問題として処理した。
当時の琉球国は、清と日本の双方に従属する王国であり、日本領土ではない。ただし、生存者が帰還した1872年には「琉球藩」が布告され、日本の領土化がすすめられていた。
日本政府は、この事件を「日本と台湾の事件」と主張することで、琉球国の併合を認めさせようとしたわけだ。もちろん、政府の思惑は他にもあったわけだが。
1873年(清・同治12年 日本・明治6年)
日本軍、台湾の侵略を図る。
先の牡丹社事件に対する報復として、日本軍が台湾を襲撃、原住民を殺害した。
既に述べたように、この出兵の第一の意図は、琉球国の日本領有を清に認めさせることである。
ただし実際には、兵士の中には開拓民とおぼしき層が混じっていた。つまり、そのまま台湾を日本領土にする意図も有していたのだ。
そもそもこの出兵には、明治政府下の政情不安が絡んでいた。幕府の廃止に伴い、失業した武士たちが不満をつのらせ、やがて佐賀の乱や西南戦争などを引き起こしたことはご存じだろうが、そうした層に職を与えるための手段の一つが海外出兵なのである。
侵略先の第一候補は朝鮮。しかし征韓論はそう簡単には通らない。そんな時に牡丹社事件が起きたので、これを好機と戦争に乗りだした。というか、台湾襲撃もやめるよう押し留められたのだが、強引に攻め込んだのである。
そうして行われた台湾襲撃は、植民地化という意味では失敗する。日本軍にとっての最大の敵は、短期的にいえば台湾原住民ではなく病気だった。マラリアやデング熱など、熱帯特有の病気に対して、日本軍の軍医は適切な処置ができず、多くの死者を出した。
そこで清政府との交渉が行われ、原住民の行為に非を認めた清が、日本に賠償金を払うことで決着。日本軍は半年ほどで撤退した。
この賠償金は、派兵費用には全く見合わない額だったが、琉球が日本、台湾が清にそれぞれ属することの証明となった。少なくとも、琉球国の位置づけに関しては、日本側の意図が実現したことになる。
また、日本軍はこの派兵の際に、気象観測を行うなど、台湾の把握につとめた。後の台湾併合に、多少なりとも役には立ったものと思われる。
1875年(清・光緒元年)
台南の開山王廟、延平郡王祠に改められる。当時は閩南式の廟宇であった。
鄭成功を祀り、日本の観光ツアー客にはおなじみの延平郡王祠。しかし、鄭成功は清政府の大敵であり、表立って祀ることなど許されるはずもなかった。そこで「開山王」としてひっそりと祀られていたという。
ところが1875年、台湾統治を委ねられた沈葆楨は、「鄭成功は反逆者ではなく忠義の臣である」と清政府に訴えた。
これまでの主張をひっくり返した上で、大々的な廟の整備を行ったのである。
ちなみに、 台湾の「開山」がすべて鄭成功というわけではない。台南市の開基開山宮は保生大帝を祀る。開元寺の開山堂には、鄭成功も祀られている(開元寺は鄭成功の子、鄭経の別邸址)。また、同じく台南市にある大人廟の「大人」を鄭成功とする説も。
これらは、秘密結社「天地会」との絡みで、さまざまに物語られる鄭成功である。
沈葆楨は、牡丹社事件と日本軍の台湾侵略という事態の中で、台湾を護るために送られた人物である。
具体的には、日本の軍に備えて西洋式の億載金城を造り(1876)、移民の禁令を完全に撤廃して、中国人による植民をすすめた。また、台南中心であった行政を、より日本に近い台北に移す方向性も定めた。
鄭成功の再評価も、もちろん対日本という目的である。つまり、台湾で人気のあった鄭成功を政府公認とすることで、住民の反清感情を抑えようとしたのだ。
なお、台湾初心者向けにその後について簡単に記しておこう。
1895年に台湾の日本領有が確定すると、鄭成功は日本の血を引く者であり、日本軍の先駆者とされた。そこで閩南式の廟は日本神社建築に改められ、開山神社となった。
台湾の神社は、基本的に日本の神を持ち込んだものだが、ほぼ唯一の在地神が鄭成功だった。
ただし『台湾事情』などによれば、現地の子どもを台南神社(北白川宮を祀る)に連れて行く一方で、開山神社が重んじられていた様子はあまり読み取れない。公学校向けの教科書でも、台南で触れられるのは台南神社のみ。
所詮は余所者という意識があったのではないか、とも思う。
国民党政権下では、再び延平郡王祠となる。ただし建物は北京風。
台湾に脱出した国民党にとって、大陸反攻を夢見た鄭成功は、党の先駆者という扱いになった。そこで現在のような社殿が建てられた。
北京風なのは、中国の正統王朝の様式にならったもの。台北の旧城門のいくつかも、閩南風から北京風に改築された。故宮博物院など新規の建物も同様である。
まぁ要するに鄭成功という人物は、時々の為政者に都合よく利用されて、現在に至っている。
ポジティブに捉えれば、いろんな意味で境界線上の存在なのである。
延平郡王祠
開基開山宮
開元寺開山堂
大人廟と鄭成功伝承
鄭成功を書くと長くなったので、ここで一区切り。
初心者向けを意図しているので、当ブログの読者には分かりきったことも書いた。
2014/09/28
『台湾鉄道旅行案内』より台南市の地図

1934年9月刊『台湾鉄道旅行案内』は、台湾総督府鉄道の公式ガイドブック。当時の日本人向け台湾の歴史、そして基隆から順に各地方の案内となっている。
まぁ特筆するほどの内容ではない。総督府の息がかかっているので、当然『台湾事情』の内容とも重なる。
ちなみに、単独項が立てられているのは以下。ただし台南駅のみであり、前後の駅それぞれにも項がある。
・孔子廟(楽器について解説あり)
・開山神社(現:延平郡王祠。鄭成功の解説あり)
・五妃廟
・台南神社(もちろん廃絶)
・安平港
・台湾精糖会社(精糖法の解説あり)
・ゼーランヂヤ城趾(現:安平古堡)
・媽祖廟(現:祀典大天后宮)
・関帝廟(現:祀典武廟)
・赤崁楼
・台南公園(中山公園を経て現在はこの名)
・開元寺
・鹹水養殖試験所
・水仙宮
・法華寺
・竹渓寺
・西市場(大菜市)
・府署趾(鄭成功の邸宅址。たぶん鄭氏家廟)
・億載金城
ついでに、飲食店、劇場、土産品店(伴手禮)は以下の通り。台南銀座(現:中正路)のカピタンと林デパート(林百貨)、あとは宮古座ぐらいしかピンとこないが、当時の職業別地図に載ってるような店だろうと思われる。要するに日本人向け。
飲食店:鶯遷閣、小梅園、一筆、鶯、魚源、台湾楼、滋養軒、ホーライ、サロン銀座、カピタン、天国、明星、招仙閣、新宝美楼、酔仙閣
劇場:宮古座、大舞台、世界館、戎館
土産品店:国姓爺、金義興、錦昌、金足成、山本、林デパート
2014/05/20
乾隆續修台湾縣志の地図
2013/06/02
毒澱粉問題について、台南市が特設ページを開設
伝聞記事だけで終わらすと、ただのデマ拡大になりかねないので、台南市政府のサイトを紹介。
6月2日現在、サイトのトップ画面からリンクが張られている。
・順丁烯二酸酐化製澱粉專區
特設ページトップ。ちなみに「順丁烯二酸酐」が「無水マレイン酸」のこと。
・本局相關新聞稿
台南市政府が新聞に出稿した記事一覧。ワードのファイルで配布されている(台湾のサイトでは、ワードやエクセルのファイルをそのまま配布する例が多い)。
・順丁烯二酸酐化製澱粉之Q&A
無水マレイン酸についてQ&A集。粘度を増す(QQにする)目的で混ぜられたらしいこと、一般人の推定摂取量では健康被害のおそれはないことなどが記されている。
・本市澱粉工廠稽查資訊
台南市内のデンプン工場の調査結果。
・行政院衛生署食品藥物管理局「順丁烯二酸酐化製澱粉」專區
台湾政府の特設ページ。気になる人はあわせて読んでほしい。
これらの資料をざっと見る限り、食品そのものの毒性は、あまり深刻に考えなくとも良いように思われる。該当する食品ばかりを毎食食べ続けた場合は分からないが、カロリー過多や栄養の偏りの影響が先にあらわれそうだ。
ただ問題はこの「毒澱粉」が、あらゆるジャンルの料理に拡大していた点にある。この粉は、近年の台湾人が求める食感を生み出すために利用された。「QQ」だ。
台湾で飯を食ったことがあれば、「QQ」や「香Q」といった文字を知っているだろう。日本でいうならば、「グミ」のようにほどよい弾力のある食感だ。
日本でも、さぬきうどんブームの中で、やたらに麺の弾力が喧伝されたりした。そもそも、お菓子としての「グミ」自体、そう古い歴史はない(本来のグミが果実であることを知らない人が増えたよね)。ああいう食感を求める層が、近年激増している点では、日本も台湾も本質的には大差がないと思う。
もっとも、テレビ番組の「食尚玩家」で必ず「QQ」と叫ばれるように、台湾のQQ信仰は日本の比ではない。QQであらずは食べ物にあらず、みたいな空気が根底にあるのなら、事件を機にうまく冷却できればいいなぁ。
似通った食感ばかりじゃつまらないでしょ。
6月2日現在、サイトのトップ画面からリンクが張られている。
・順丁烯二酸酐化製澱粉專區
特設ページトップ。ちなみに「順丁烯二酸酐」が「無水マレイン酸」のこと。
・本局相關新聞稿
台南市政府が新聞に出稿した記事一覧。ワードのファイルで配布されている(台湾のサイトでは、ワードやエクセルのファイルをそのまま配布する例が多い)。
・順丁烯二酸酐化製澱粉之Q&A
無水マレイン酸についてQ&A集。粘度を増す(QQにする)目的で混ぜられたらしいこと、一般人の推定摂取量では健康被害のおそれはないことなどが記されている。
・本市澱粉工廠稽查資訊
台南市内のデンプン工場の調査結果。
・行政院衛生署食品藥物管理局「順丁烯二酸酐化製澱粉」專區
台湾政府の特設ページ。気になる人はあわせて読んでほしい。
これらの資料をざっと見る限り、食品そのものの毒性は、あまり深刻に考えなくとも良いように思われる。該当する食品ばかりを毎食食べ続けた場合は分からないが、カロリー過多や栄養の偏りの影響が先にあらわれそうだ。
ただ問題はこの「毒澱粉」が、あらゆるジャンルの料理に拡大していた点にある。この粉は、近年の台湾人が求める食感を生み出すために利用された。「QQ」だ。
台湾で飯を食ったことがあれば、「QQ」や「香Q」といった文字を知っているだろう。日本でいうならば、「グミ」のようにほどよい弾力のある食感だ。
日本でも、さぬきうどんブームの中で、やたらに麺の弾力が喧伝されたりした。そもそも、お菓子としての「グミ」自体、そう古い歴史はない(本来のグミが果実であることを知らない人が増えたよね)。ああいう食感を求める層が、近年激増している点では、日本も台湾も本質的には大差がないと思う。
もっとも、テレビ番組の「食尚玩家」で必ず「QQ」と叫ばれるように、台湾のQQ信仰は日本の比ではない。QQであらずは食べ物にあらず、みたいな空気が根底にあるのなら、事件を機にうまく冷却できればいいなぁ。
似通った食感ばかりじゃつまらないでしょ。
2013/04/26
台南歴史年表(その3)
需要があるのか不明のシリーズ。19世紀は面倒くさい。現代が近づくにつれて、事象が増えていくのだから仕方がないのだが。
もちろん「歴史年表」は、所詮は書き手の意図に基づく物語に過ぎない。derorenが拾い上げた特定の事象の接続を、読者がそのまま尊重する必要はない。教科書の年表が恣意的であるように、ここに書いた内容も恣意的なものだ。
というか、歴史なんて常に恣意的なもの。作り上げる当事者の現在を、過去に投影させた上で、そんな都合のいい物語が壊されないように「正しい」とか言い訳を並べるものでしょ?、と無意味に毒を吐いてスタート。
1800年(清・嘉慶5年)
蔡牽の乱、台湾に波及(~1806)。
蔡牽は福建省の人で、いわゆる同安(厦門近辺)人。同安人は台湾に多数移住しており、有名な所では台北の大稲埕(現在の迪化街周辺)が挙げられるが、彼は移民ではなく、あくまで同安に本拠を置きつつ活動した。
蔡牽の活動そのものは、要するに「海賊王におれはなる!」であって、たまたまその対象の一部が台湾だったに過ぎない。従って、過去の人びとのように台湾独立に動くとか、同士が各地に現れるといったこともなく、ただ台湾(台南や高雄)が災難にあっただけ。
もちろん中国的な海賊王は、結局は皇帝を志向するはずなので、福建と台湾の独立が実現された可能性は高い(実際、彼は鎮海王を名乗った)。たちまち瓦解すると傍目には分かりそうなものだが、それなりの地位に就くと、途端に権力志向を剥き出しにする人間は今も少なくないのではあるまいか(自分の周囲には何人もいるゾ)。
こういっては何だけど、蔡牽の活動は鄭成功と大差ないのよね。鄭成功の軍隊も、元々は海賊なのだし、台湾側に要請されて攻め込んだわけでもないし。
唯一違うのは、名目のみの存在とはいえ、鄭成功は明の皇帝及び王族を奉じた点。蔡牽には奉じるべき者がいない。一番近所の琉球王を引っ張ってくるという奇策は、さすがになかったようだ(それ以前に、琉球王は皇帝じゃないから、名目にならない)。
蔡牽の軍はかなり手強く、鎮圧に派遣された清の提督を敗死に追い込んでいる。鹿耳門から台南に侵入し、台南の府城を包囲したこともあった。
が、やがて台湾からは手を引き、1809年に清軍に敗れて自害。なんと、船ごと爆破して死んだと伝えられている。
日本でいうところの松永久秀みたいな奴だが、こちらは部下200名以上を巻き込んだという話。勝手に殉死させられた者は浮かばれないよね。
1823年(清・道光3年)
台南の北側を流れる曾文渓が大氾濫を起こす。
地味な話に思えるだろうが、現在の台南を語る上では重要な事案だ。鹿耳門から船で台南に入ることが出来なくなっただけでなく、台江内海が干拓されるきっかけでもあった。
曾文渓は2009年の88水災でも氾濫した河川。それなりに堤防があり、上流に巨大ダムがあったにも関わらず、周囲が広範囲にわたって水没したことは記憶に新しい(我々は水がひいた直後に訪れている)。
1823年の水災は、鹿耳門にあった港を砂で埋めてしまった。また、流れが変わったことで、安平の港などにも砂が溜まりやすくなった。台南そのものの地位が低下するきっかけであった。
なお曾文渓の氾濫はこの後も起きており、1871年の氾濫では、鹿耳門近くにあった天后宮が土砂に埋もれている。
・土城正統鹿耳門聖母廟(1871年に埋没した天后宮の後身を名乗る)
・鹿耳門天后宮(同じく、後身を名乗る)

1835~40年(清・道光15~20年)
兌悦門や巽方砲台(外城)、安平小砲台、四草砲台などが建設される。一緒くたにしたが、実は少し目的が異なるようだ。
「外城」とは、日本でいうところの内堀・外堀みたいな響きだが、実際は全く異なる。そもそも、日本の城は城主や兵が籠る場所だが、中国の城は生活空間全体、つまり街そのものを城壁で囲む。従って、城壁で囲まれた城の外部に、新たに出来た街を、さらに囲んで城内とした部分が外城である。
都市が発展すると、郊外に街が広がるのは万国共通だが、そうしてはみ出した部分も、中国の場合は再び城の一部に取り込む。なので城がどんどん拡大することになる。こうした発想の究極形が万里の長城だろう。
現存する兌悦門は、西北にはみ出した部分に設けられた外城の城門。対して南東の大東門の外側にも外城が作られた。巽方砲台はそのなごり。
これらは、台湾内部の反乱や、蔡牽のような海賊対策であった。
安平小砲台と、鹽水渓を挟んで対峙する四草砲台の両者は、1840年に造られた。これも海賊除けに効果があるが、直接の要因ではない。1840年という年号は、世界史を習っていれば分かるはずだ。そう、アヘン戦争の起きた年である。
アヘン戦争の直接の舞台は、もちろん台湾ではない。しかし香港と台南は、近接した主要港であり、対岸の火事のはずもない。慌てて造りあげて備えたわけだ。
ちなみに、イギリス軍が台南に攻め込んだという話はないようだが、基隆などの占領を企てている。また、後に安平にはイギリスの商社が軒を連ねるようになった(後述)。
・兌悦門
・巽方砲台
・安平小砲台
1864~67年(清・同治2~5年)
1864年、安平港が欧米諸国に開港される。
アヘン戦争に続いて、1856年に始まったアロー戦争(アロー号事件)の結果、清はイギリスやフランスとの間に不平等条約を結ばされた。天津条約と北京条約である。
その条約のうちに、主要な港の開港が含まれていた。まぁ日本における(日米)修好通商条約と同じだが、台湾では淡水、基隆、打狗(高雄)、そして安平が対象となった。
それから3年後の1867年、徳記洋行(と和記洋行)が安平に支店を開設した。徳記洋行は、今では安平きっての観光地となった安平樹屋の主であった。その後も安平には次々と欧米の商社が支店を作り、植民地化が進められていく。
なお、これらの商社は、日本統治時代にほぼ撤退した。貿易を独占したい日本側が圧力をかけた結果である。
さて、この間の1865年に、イギリスの長老派教会の宣教師が台湾に渡り、布教を開始している。現在も台南に多くの教会や学校をもつ一派である。
長老派が台南に勢力を拡大したのは、抗日戦争時に日本軍との交渉にあたったバークレーの力によるところも大きい。もちろん、元々台南でそれなりの地位を得ていたからこそ、交渉役を委ねられたわけだが。
この時期に布教が始まった理由は、イギリスなどとの条約に「キリスト教の布教を妨げるな」という一項があったことによる。
キリスト教の布教は、もちろん植民地化の一環である。本国の宗教を布教することで、同様の価値観を与え、本国に対する主従関係を植え付けていく。これは日本による神道や日本仏教の強制も含め、あらゆる植民地で普遍的に行われた行為だ。
・徳記洋行と安平樹屋(ガジュマルに覆われ廃墟化した倉庫を、現在は安平樹屋と呼んでいる)
・安平樹屋再訪(2012年の記録。樹屋の様子はこちらのほうが詳しい)
・東興洋行(ドイツの商社。現在は喫茶スペースとして活用される)
・台南神学院(1876年創立。現役の宣教師養成施設)
・台南東門巴克禮紀念教会(近年改称された。巴克禮=バークレー)

とりあえず以上。どうにも書き辛くて放置してしまった。約2ヶ月かけて、力尽きた感じで公開する。
まぁ、何か思いついたら追加すればいいや。
もちろん「歴史年表」は、所詮は書き手の意図に基づく物語に過ぎない。derorenが拾い上げた特定の事象の接続を、読者がそのまま尊重する必要はない。教科書の年表が恣意的であるように、ここに書いた内容も恣意的なものだ。
というか、歴史なんて常に恣意的なもの。作り上げる当事者の現在を、過去に投影させた上で、そんな都合のいい物語が壊されないように「正しい」とか言い訳を並べるものでしょ?、と無意味に毒を吐いてスタート。
1800年(清・嘉慶5年)
蔡牽の乱、台湾に波及(~1806)。
蔡牽は福建省の人で、いわゆる同安(厦門近辺)人。同安人は台湾に多数移住しており、有名な所では台北の大稲埕(現在の迪化街周辺)が挙げられるが、彼は移民ではなく、あくまで同安に本拠を置きつつ活動した。
蔡牽の活動そのものは、要するに「海賊王におれはなる!」であって、たまたまその対象の一部が台湾だったに過ぎない。従って、過去の人びとのように台湾独立に動くとか、同士が各地に現れるといったこともなく、ただ台湾(台南や高雄)が災難にあっただけ。
もちろん中国的な海賊王は、結局は皇帝を志向するはずなので、福建と台湾の独立が実現された可能性は高い(実際、彼は鎮海王を名乗った)。たちまち瓦解すると傍目には分かりそうなものだが、それなりの地位に就くと、途端に権力志向を剥き出しにする人間は今も少なくないのではあるまいか(自分の周囲には何人もいるゾ)。
こういっては何だけど、蔡牽の活動は鄭成功と大差ないのよね。鄭成功の軍隊も、元々は海賊なのだし、台湾側に要請されて攻め込んだわけでもないし。
唯一違うのは、名目のみの存在とはいえ、鄭成功は明の皇帝及び王族を奉じた点。蔡牽には奉じるべき者がいない。一番近所の琉球王を引っ張ってくるという奇策は、さすがになかったようだ(それ以前に、琉球王は皇帝じゃないから、名目にならない)。
蔡牽の軍はかなり手強く、鎮圧に派遣された清の提督を敗死に追い込んでいる。鹿耳門から台南に侵入し、台南の府城を包囲したこともあった。
が、やがて台湾からは手を引き、1809年に清軍に敗れて自害。なんと、船ごと爆破して死んだと伝えられている。
日本でいうところの松永久秀みたいな奴だが、こちらは部下200名以上を巻き込んだという話。勝手に殉死させられた者は浮かばれないよね。
1823年(清・道光3年)
台南の北側を流れる曾文渓が大氾濫を起こす。
地味な話に思えるだろうが、現在の台南を語る上では重要な事案だ。鹿耳門から船で台南に入ることが出来なくなっただけでなく、台江内海が干拓されるきっかけでもあった。
曾文渓は2009年の88水災でも氾濫した河川。それなりに堤防があり、上流に巨大ダムがあったにも関わらず、周囲が広範囲にわたって水没したことは記憶に新しい(我々は水がひいた直後に訪れている)。
1823年の水災は、鹿耳門にあった港を砂で埋めてしまった。また、流れが変わったことで、安平の港などにも砂が溜まりやすくなった。台南そのものの地位が低下するきっかけであった。
なお曾文渓の氾濫はこの後も起きており、1871年の氾濫では、鹿耳門近くにあった天后宮が土砂に埋もれている。
・土城正統鹿耳門聖母廟(1871年に埋没した天后宮の後身を名乗る)
・鹿耳門天后宮(同じく、後身を名乗る)

1835~40年(清・道光15~20年)
兌悦門や巽方砲台(外城)、安平小砲台、四草砲台などが建設される。一緒くたにしたが、実は少し目的が異なるようだ。
「外城」とは、日本でいうところの内堀・外堀みたいな響きだが、実際は全く異なる。そもそも、日本の城は城主や兵が籠る場所だが、中国の城は生活空間全体、つまり街そのものを城壁で囲む。従って、城壁で囲まれた城の外部に、新たに出来た街を、さらに囲んで城内とした部分が外城である。
都市が発展すると、郊外に街が広がるのは万国共通だが、そうしてはみ出した部分も、中国の場合は再び城の一部に取り込む。なので城がどんどん拡大することになる。こうした発想の究極形が万里の長城だろう。
現存する兌悦門は、西北にはみ出した部分に設けられた外城の城門。対して南東の大東門の外側にも外城が作られた。巽方砲台はそのなごり。
これらは、台湾内部の反乱や、蔡牽のような海賊対策であった。
安平小砲台と、鹽水渓を挟んで対峙する四草砲台の両者は、1840年に造られた。これも海賊除けに効果があるが、直接の要因ではない。1840年という年号は、世界史を習っていれば分かるはずだ。そう、アヘン戦争の起きた年である。
アヘン戦争の直接の舞台は、もちろん台湾ではない。しかし香港と台南は、近接した主要港であり、対岸の火事のはずもない。慌てて造りあげて備えたわけだ。
ちなみに、イギリス軍が台南に攻め込んだという話はないようだが、基隆などの占領を企てている。また、後に安平にはイギリスの商社が軒を連ねるようになった(後述)。
・兌悦門
・巽方砲台
・安平小砲台
1864~67年(清・同治2~5年)
1864年、安平港が欧米諸国に開港される。
アヘン戦争に続いて、1856年に始まったアロー戦争(アロー号事件)の結果、清はイギリスやフランスとの間に不平等条約を結ばされた。天津条約と北京条約である。
その条約のうちに、主要な港の開港が含まれていた。まぁ日本における(日米)修好通商条約と同じだが、台湾では淡水、基隆、打狗(高雄)、そして安平が対象となった。
それから3年後の1867年、徳記洋行(と和記洋行)が安平に支店を開設した。徳記洋行は、今では安平きっての観光地となった安平樹屋の主であった。その後も安平には次々と欧米の商社が支店を作り、植民地化が進められていく。
なお、これらの商社は、日本統治時代にほぼ撤退した。貿易を独占したい日本側が圧力をかけた結果である。
さて、この間の1865年に、イギリスの長老派教会の宣教師が台湾に渡り、布教を開始している。現在も台南に多くの教会や学校をもつ一派である。
長老派が台南に勢力を拡大したのは、抗日戦争時に日本軍との交渉にあたったバークレーの力によるところも大きい。もちろん、元々台南でそれなりの地位を得ていたからこそ、交渉役を委ねられたわけだが。
この時期に布教が始まった理由は、イギリスなどとの条約に「キリスト教の布教を妨げるな」という一項があったことによる。
キリスト教の布教は、もちろん植民地化の一環である。本国の宗教を布教することで、同様の価値観を与え、本国に対する主従関係を植え付けていく。これは日本による神道や日本仏教の強制も含め、あらゆる植民地で普遍的に行われた行為だ。
・徳記洋行と安平樹屋(ガジュマルに覆われ廃墟化した倉庫を、現在は安平樹屋と呼んでいる)
・安平樹屋再訪(2012年の記録。樹屋の様子はこちらのほうが詳しい)
・東興洋行(ドイツの商社。現在は喫茶スペースとして活用される)
・台南神学院(1876年創立。現役の宣教師養成施設)
・台南東門巴克禮紀念教会(近年改称された。巴克禮=バークレー)

とりあえず以上。どうにも書き辛くて放置してしまった。約2ヶ月かけて、力尽きた感じで公開する。
まぁ、何か思いついたら追加すればいいや。
2012/12/28
台南歴史年表(その2)
前記事の続き。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
2012/12/09
台南歴史年表(その1)
台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
2012/11/02
安平いろいろ
derorenとhashiは、かつて島倉千代子ライヴに参戦した経歴を誇っているので、定期的にこういうタイトルがあらわれる。もちろん本記事に島倉色はない。あったら怖いな。
さて、四度目の旅の記録も一応ラストに到達したので、当面このブログは開店休業となる。五度目を望んではいるけれど、いかんせん子連れはいろいろ難しい。現時点で予定はないとだけ記しておく。
まぁしかし、完全に更新を止めるのも寂しいので、ポツポツと何かしら記事は載せていくつもり。
『台湾史研究叢書』シリーズを紹介しようかと思ったりするけど、原住民関係は手に余るし、なかなか微妙。台南に関連する内容は、台湾読者向けも兼ねてどうにか載せたい。
で、上の写真は安平の民家。この猫が可愛いのだ。
例によって路地をさまよったので、この家の前を二度通ったのだが、二度ともこの姿だった。
tomopeeも今なら大騒ぎだったろうなぁ(この時も反応していたけど)。
犬もいる。
台湾は野犬なのか放し飼いなのか、とにかく道端に犬をよく見かける。正直、それは赤子連れ旅行にとって余り良い状況ではないけど、安平では滅多に遭わないので大丈夫。
台北はちょっとアレだよね。そもそもderorenは犬嫌いである。
ガジュマルの木が祀られている。樹王公と呼ぶらしい。らしいというか、まぁ一般的な呼び名だけどね。
写真で反射している部分に案内板がある。あちこち文字が剥がれていて読み辛いのだが、おおよそ次のような説明のようだ。
この木は樹齢300年を超えるもので、伝えるところによれば鄭成功が台湾にやって来た頃には既にあった。ここは元は[石老][石古]石礁(フォントなし)で、鳥雀が余所から飛んできてどうのこうのという記述があるけど、 文字が剥離して不明。たぶん、この木にちなんだ地名がついたという話。
で、いろいろ霊験があって、戦勝祈願とか災難除けなどの願い事に対して奇瑞を起こしたので、樹王公として祀られた。ここに参拝するには、近所で売ってる碗粿を供えろと締めくくられている。
ちなみに隣は跳房子という建物。何かと思ったら、民宿らしい。
今流行りの、古民家改築民宿のようだが、たぶん非合法なので紹介はしない。
茉莉巷は、そこそこ有名なわりには人がいない。
もっとも、我々の訪問はすべて平日なので、土日は違うのかも知れない。
tomopeeのこうしたベビーカー姿も、今となっては懐かしい。
2012年11月時点でも、ベビーカーを卒業したわけではないけど、ここだったら歩かせているに違いない。
……ただ、こういう路地でも猛スピードのスクーターがやって来る危険性があるのが、台湾という環境なのも事実。交通マナーだけはどうにかしてほしい。毎回同じことを書いているゾ。
※なお、pixnetにて作業中。
2012/09/28
劔獅とおむつ交換の巻
前半と後半の話題が全く違うが、無理矢理一つの記事にしてみる。
まぁ正直、これ以上の細分化は必要なかろうし。
上の写真は妙寿宮の近くの交差点。陳家の交差点から妙寿宮に向かって歩き、そのまま通過すればすぐ分かる。
この劔獅は、安平でもかなり著名なものだ。
壁の上にあって、邪神の侵入を防ぐ劔獅は、安平でも滅多に見られない。ここと、以前に紹介した家が双璧であろう。
妙寿宮よりうんと手前の路地に、台窩湾民居があったけど、中は見物できず。
なお、一応宿泊も可能らしく、某ガイドブックの推薦プランでは、ここに宿泊して台南旅行なんてものがあった。
ただし、宿泊と言っても、ただの民家に雑魚寝するだけ。民宿扱いする向きもあるけど、イメージ的にはバンガローみたいなものだ。しかも一日一組なわけで。
ついでに断わっておくが、宿泊施設として観光局に登録されているものではない。日租房のように悪質な物件ではないにせよ、何か起きた時の保証はない。
ここは安平旅遊資訊中心。
陳家と安平天后宮の間、コンビニのすぐ近くだ。
観光客向けの休憩スペース、パンフレット配布、それからレンタサイクルもあるらしい。我々はその辺の用件で訪れたわけではないので、詳しいことは分からないけど。
月曜休館で、他は10時から18時まで開いている。
我々はここで、tomopeeのおむつ交換をしようと思ったのである。
安平古堡には、もしかしたらそういう設備があったかも知れないが、ちょうど入館時に交換するとは限らないので、できれば無料施設にそういう場所が欲しい。
そこでふと発見した公共施設に頼ろうと考えた。現代の日本の感覚ならば、そうずれてはいないはずだ。
しかし現実は恐ろしいものだった。
まさかのテーブル上交換となったtomopee。彼の人権に配慮して、渦巻きで隠した上に写真サイズも小さくしたゾ。
我々は職員に対して、身振り手振りを交えながら、おむつ交換をしたい旨を伝えた。
当然それは「トイレはどこですか」に等しい質問だったはずだが、職員に指示されたのは、何と観光客の休憩スペース。この長テーブルの反対側では、普通に一般人がお茶を飲んでいる。hashiの後ろにも座っている。
さすがに冗談だろうと思ったが、職員は本気だった。近くに座っている阿桑も、気にするなという感じ。結局、そのまま作業に取りかかると、オバチャンはゲラゲラ笑いながらその様子を見ていた。
親切にしてもらったので感謝しているけど、どうにかならないものかねぇ。
この写真を見て、おむつ交換に訪れる勇者はなかなかいないだろうし。
ちなみに、安平のトイレ事情は、通常の大小便ならそれほど深刻ではない。
有料施設の安平古堡、安平樹屋にはもちろんあるし、無料のトイレはここや、蚵灰窯文化館にある。それらに間に合わない場合は、廟のトイレという手もあるだろう。陳家や周氏のような非屋台の店にもある。
けど、多目的トイレはなかなかない。赤子連れにとっては制約の多い旅である。
2012/09/22
安平郷土文化館
観音街にひっそりと建つ安平郷土文化館。安平に行くたびにここは通っているし、それどころか一度の旅で何度も通過していたりする。
ここの街歩きは、ほぼ道に迷うことと同義だ。どうせ迷っても、少し歩けば現在位置は分かる。
![]() |
もちろん、中の展示は知れているし、限られた時間をここで費やす必要はない。そう思って、これまでは通過し続けていた。
しかし今回は、とある事情により中を見学することになったのだ。
内部の様子。安平の特産品として壺が展示されている。それ以外にも安平の歴史のパネル展示がある。管理者が常駐しており、観光パンフなども入手可能。
まぁしかし、ここの価値は下の写真で分かる。
そう。きっとここならtomopeeが遊べるに違いないと思って、我々は連れてきたのだ。
日式だから土足厳禁の床がある。そして、こんな展示だから観光客も少ないだろう。どちらの勘もばっちり当たった(後者は当たっていいのか微妙だが、我々の貸切だ)。
この記事を書いている半年後の時点では、方々を走り回り、食事もすべて自力で済まそうとするtomopeeである。不可抗力とは言え、ベビーカーに乗るしかない状況ではストレスがたまっていたはずだ。
その意味で、ここは赤子連れ旅行に欠かせない場所であった。
もう一つ、ここにはtomopeeの刺激になるものがあった。
猫である。
この写真の床は、文化館の裏庭。そこに猫が何匹もあらわれて、tomopeeに挨拶をしていった。
tomopeeが喜んだのは言うまでもないが、実はこの時、見知らぬ一人の男性が、こちらにカメラを向けていた。どうやら、赤子と猫という景色を、良い被写体だと思ったらしい。
一人で自転車で街を巡っていた若い男性が、その後どうしたのかは不明。その写真が既にどこかで公開されている可能性は高いのではないかと思われる。 見つけたら教えてねっ(というか、当人が教えろと言いたいぞ)。
こうしてストレスを発散したtomopeeとともに、残り時間を安平で過ごしたわけである。
その辺のぶらぶらした記事を載せて、とうとう台南に別れを告げることになる。
いや、半年もかかって今さら「とうとう」もないのだが。
※blogger投稿画面改変に伴い、いろいろ苦戦中。使いづらいなぁ。
2012/09/21
海山館(三) 中途半端な観光施設

だらだら続く海山館の紹介は、これで最後。
こちらは二棟続きの左側の景色である。

メニューが書いてあることで分かるように、喫茶スペースとなっている。それと売店だ。
正直、ここで茶を飲む意味があるのかは微妙だ。狭くて落ち着かないし。

まぁこちら側を歩く理由があるとすれば、右側の建物の側面が見れる、というぐらいだろう。

この劔獅も有名なもの。他にも屋根にいろいろ乗っていたりする。京都の民家の屋根に鐘馗がいたりするような感じだ。

正直、こういう展示は文化財の無駄使いじゃないかと思う。
無駄使いというか、持て余しているのか。
元々が展示に向かない構造の建物なんだし、無理に何かを置かなくともいいのでは。

井戸もある。津田式の流れをくむ正昌牌だから、そんなに古いものではない。
我々にしても、海山館に大きな期待をして訪問したわけではない。従って、右半分の復元内容には不満はないし、見に来て良かったと思う。
が、モニターにデフォルメキャラという路線は、徹底されているわけでもないし中途半端で評価できない。着ぐるみ常駐ぐらいしなければ無意味。というか、この狭い施設に多くを求める必要はないはずだ。
半年前の訪問なので、現在は改善されていればいいですな。
余談だが、bloggerの投稿画面が変わって、非常に使いづらくなったゾ。
2012/09/05
海山館(二) 三合院と劔獅

いよいよ海山館の内部へ。典型的な三合院建築だ。
否応なしに目にとまる劔獅は、改修前の写真にもうつっているもの。もちろん描き直しただろうが。

もうちょい近くに寄ってみる。
その(一)でも触れたが、劔獅は屋敷内に異物が侵入するのを防ぐ存在なので、武装している。口にくわえた劔だけでなく、上部にも物騒な刃物を並べてある。まさに、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈遅れを取る可んや、である(柳生一族の陰謀だ)。

裏はこうなっている。三十六天罡七十二地煞とあるのは、平たくいえば天地を守る神々のこと。とりあえずここを読むのが良さそう。
まぁしかし、上のリンクの台湾大百科全書も触れるように、結局は『水滸伝』なのよね。あれは小説じゃなくて、リアルな信仰の世界だから。

中に入ってみる。まずは正面。
ここは基本的に礼拝所みたいなスペースになるが、神様の代わりにモニターが備え付けてある。何にせよゆるキャラだ。

天井の様子。
手前左右のレフ板みたいなのは、とりあえず装飾のようだ。日月?

正面の部屋の背後のスペースには、こんな椅子があった。
目の前でカップルが座って記念写真を撮っていたが、何となくピンとこなかったので、我々は座っただけ。

そこから裏口に抜けることができる。こちらは行き止まりだが、反対側には扉がついている。まぁ観光客的にはあまり意味のない情報だ。
とりあえず、窓の上の装飾が面白い。

さて、三合院の左右それぞれの部屋は、やはり展示スペースとして使われている。
こういう立派な三合院を無料で見学できるのは素晴らしい。展示品にはいろいろ言いたいこともあるけど、その辺は目をつぶろうではないか。

この左右の部屋には、今で言うロフトのような設備もある。すごく狭いので、寝床にするにはどうかなぁ…とも思うけど、世の中には押し入れで寝るような酔狂な人だっているという噂だから、これはこれでアリかな。
まさか女中部屋ってわけでもないだろうし。
そんなわけで、まだ続く。たいして中身はないのだが、安平的な三合院というレアな物件だけに、細かく紹介したくなってしまった。
2012/09/04
海山館(一) 修復が終わった外観

安平に残る清朝時代の遺蹟の一つ、海山館。
以前に訪問した時は、修復工事のため外観しか覗けなかった(その時の記事はこちら)が、再公開という情報を聞いたので、出掛けてみる。

緑釉花磚窗(窓)は変化がないが、他は塗り直されて鮮やかになった。

正面に向かう。ここは道が狭いので、全体を写真に撮るのは難しい。まぁ、何だか安っぽいボードが置かれているのは分かるだろう。

安平でも著名な劔獅の一つ。
ちなみに、海山館は二つの建物が並ぶ構造で、門も二つある。劔獅はこちらにしかないが、中央の門にあたるのはもう一つの方である。

そのもう一つの門がこちら。門自体はこちらの方がカッコイイ。
劔獅は門を入った先で睨みをきかせている。要するに、門を入ってきた悪鬼の類を追い返すわけである。
門の先を塞ぐように壁が造られる例は、沖縄でもよく見る。悪鬼の類は直進しかできないとされているから、壁ではね返すのだ。平安京の方違えなんかも、そういう発想から来ていることは、読者の皆さんもご存じかも知れない。

で、ここにもいろいろ置かれてあった。
せっかく清朝の古建築を修復したのに、余計なもので隠さなくともいいのでは……とderorenは思う。まぁしかし、デフォルメキャラで売り出さないと、今どきのナウでヤングな若者にはうけないという認識なのだろう。
このノリは内部にも及んでいるので、修復部分と合わせて(二)で紹介する。
2012/08/26
陳家蚵捲 三訪

妙寿宮とその周辺を巡ったら、時刻は既に13時40分。陳家蚵捲の行列はなくなっていたので、遅い昼食となった。
なお、タイトルにある通り、我々は過去2度ここで食べている。多少の変化はあるけど、だいたい同じものを食っている。暇な人と興味のある人は、そちらの記事もどうぞ。
・初回訪問時の記事
・再訪時の記事

今回はこんな感じ。過去2回とは若干違う。
空心菜は、とにかく青い野菜が欲しいという要望から。
台南最後の名残りの肉燥飯もあるぜ。肉燥飯、あぁ肉燥飯、肉燥飯(松尾芭蕉)。
青い野菜はhashiがいつも言ってることだが、この時点では完全には母乳断ちしていなかったので、栄養素の不足がないように心掛ける必要もあった。
ちなみに、tomopeeは既に離乳食後期で、母乳は栄養源というよりも精神安定剤という状況だ(この記事を書いてる時点では卒業済)。

もちろん蚵仔煎も。毎度の注記だが、これは時間がかかるので別のトレイになっている。
注文関係は過去の記事を参照のこと。蚵仔煎の受け取り以外は大したことはないけどね。

蚵捲。やはりエビよりカキが好きだなぁ。

蚵仔酥。カキだけを揚げたもの。日本のカキフライとはまた違うけど、カキ好きなら頼むべきだ。
台湾のカキは基本的に小さいので、カキフライには向いていないと思う。逆に、日本のカキは蚵仔煎に向いていない。そういう違いもあるから、やはり台南を旅したらカキを食べて欲しい。今さらだが、おすすめだ。
※公式サイトはこちら。そこに地図も載っているけど、安平古堡や延平街に行けば、嫌でも目にとまるはず。それでも迷うかも…という人は、下の地図で確認してくだされ。
より大きな地図で derorenのホ~ムペ~ジ を表示
2012/08/23
歐姓宗祠(安平文化資産館)

伍徳宮のすぐそばの路地に、いかにも安平という感じの門を発見。
これは見ておかなければ、と近づいてみる。

劔獅のある門は開け放たれていて、中に入ることができる。
もちろんこんな機会を逃す我々ではない。さっそく内部を見学することにした。
ちなみに、この入口部分は一段高くなっているので、ベビーカーを持ち上げねばならない。狭いので、これが意外に面倒だった。赤子連れはどこで引っかかるか分からないものだ。

内部はこんな様子。壁は基本的に新しい。どういう建物なのだろう、という疑問が湧く。
ここは現在、安平文化資産館という観光施設として管理されている。安平に関するパネル展示があったりするけれど、わざわざ見に行く価値はない。この建物そのものが価値である。
本来の名は歐姓宗祠。全国の歐さんが集まる場所だ。

小さな建物で、台南によくある民家にしか見えない。民家としては立派だけど。
文化資産保護協会のブログによれば、この建物は1991年の新造らしい。台南市大厝内歐姓族親会が、あえて伝統的建築によって建てたという。
その族親会と保護協会が2007年に協定を結び、安平文化資産館の機能を移転させたのが、現在の姿ということになる。

我々は廟ばかり巡っているので、あまり感動を覚えたりはしなかったが、このレベルの建物を造るのはけっこう大変なのだろう。
信仰の場を見るという目的には合わないけれど、伝統建築をじっくり見たい人には最適だ。

屋根も柱が太くて立派だ。

無理矢理なパネル展示。エアコンもない部屋だし、同程度の内容ならネットでいくらでも読めると思う。民具の展示もあったけど、これも狭すぎて微妙。
ここは安平古堡から歩いても5分ぐらいの場所なので、ツアー客が自由時間に訪問することもできるだろう。見るべきものはこの建物だけ。興味があればどうぞ。
ちなみに大台湾旅遊網の日本語版に記事がある。残念ながら翻訳者の語学力に難があるので、おすすめしない。
登録:
投稿 (Atom)



















