2009/05/09
祀典大天后宮(一) 天上聖母の宮概説
言うまでもなく媽祖を祀る宮である。しかしここは天后宮となる以前に、重要な歴史の舞台だったわけだ。
鄭成功は明の王族を連れて台湾に渡り、王を立てて明の復興を叫んだ。その王宮がここであった。そして五妃廟の伝承で知られるように、ここにいた五人の妃は皆自害。寧靖王は妃を葬った後に自らも自害して、完全に明は滅亡する。血塗られた記憶の地である。
※再訪、再再訪時の記事もあわせてご覧くだされ。
・祀典大天后宮(二) 寧靖王府の俤(前編)
・祀典大天后宮(三) 寧靖王府の俤(後編)
・祀典大天后宮(四) いつもと違う媽祖廟にて
・祀典大天后宮(五) 三官大帝の前で
・祀典大天后宮(六) 寧靖王の観音信仰
この忌まわしき地を清は媽祖宮へと転換した。滅亡の地という記憶を、ポジティブな信仰によって薄れさせていくというのは常套手段であって、今さらどうこう言う問題でもない。
まぁしかし、台湾にとって明の王とはどのような存在だったのだろうか。そんな疑問は残る。もちろん赤崁楼を中心とする府城は、台湾内でも異質な土地だったに違いなかろうが。
中壇の中央は媽祖(周囲も媽祖)、その両側に侍女「宮娥女婢」がいる(写真では左側しか見えない。顔のでかい人だ)。
その手前にいる風神雷神みたいな二人は「順風耳」と「千里眼」。どちらも文字通りの能力をもちながら悪さをして人々を苦しめたそうな。媽祖はそんな二人を捕えて自分の配下としたという。こちらの神の由来はいつもながらブラックである。
中壇の両側に供えられてあった桃。桃の呪力で禍を祓うというのは、古代日本にすら伝わっていた儀礼だが、びっしりと名前が書かれた桃はちょっと迫力がある。
呂律の音色を奏でる……んだろうけど、別に聴いたわけではない。
龍目井は王宮時代に掘られた井戸だそうな。元は二つあったので龍の目(目は二つあるって意味)と名付けたのだと、側の説明板に書かれている。
以来300年間枯れることのなかった井戸は、民国54年(1965)に突如枯れてしまい、直後に三夜にわたり三媽祖像が震動した。その神意に従い井戸を浚ったところ、再び水は湧き出して、聖なる水として人々は争い求めた……のだとか。
神像の震動で神意を知るあたり、興味深いエピソードである。それらを喧伝したのは誰だったのか知りたいところだ。無論ここで、「単にメンテを怠ったから井戸が詰まったんだろ」なんて考えてはいけないぞ。説明文からはそんな雰囲気もするけどさ。
ここにも月下老人(月老神君)はおられる。結婚写真も貼られている。
しかしなぁ。この写真で何が説明されているかは、文字が読めなくともおよそ想像がつくであろう。携帯で神杯投げておみくじだ。ちょっとアンタ、騙されてるよそれ。
※なお、ここには日本語のパンフレットもある。それはそれで役に立つが、現地語のガイドには媽祖信仰史の一端が書かれていたりするので面白い。
日本統治期の大正四年、台南の人々が北港朝天宮(雲林県北港鎮)の三媽祖を招いたにも関わらず、実際には一番格下の一神しかやってこなかったので、暴動になったことがあったらしい。そこで北港朝天宮と縁を切って、代わりに新媽祖「鎮南媽」を奉じたのだとか。
上の中壇の写真の中央に鎮座するのが主祭神「祀典媽」。その手前に三体の小さな媽祖像が見えるが、三体の中央こそ「鎮南媽」である。
※あらためてこの宮について解説記事を書いた。メニュー「台南の名所紹介記事」から辿ってくだされ。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿