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2012/09/22

安平郷土文化館


 観音街にひっそりと建つ安平郷土文化館。安平に行くたびにここは通っているし、それどころか一度の旅で何度も通過していたりする。
 ここの街歩きは、ほぼ道に迷うことと同義だ。どうせ迷っても、少し歩けば現在位置は分かる。


  日本統治時代の小学校の校長が住んでいた宿舎だという文化館は、外観は宿舎というよりも駅舎のような姿で、きれいに整備されている。
 もちろん、中の展示は知れているし、限られた時間をここで費やす必要はない。そう思って、これまでは通過し続けていた。

 しかし今回は、とある事情により中を見学することになったのだ。
 

 内部の様子。安平の特産品として壺が展示されている。それ以外にも安平の歴史のパネル展示がある。管理者が常駐しており、観光パンフなども入手可能。
 まぁしかし、ここの価値は下の写真で分かる。



 そう。きっとここならtomopeeが遊べるに違いないと思って、我々は連れてきたのだ。
 日式だから土足厳禁の床がある。そして、こんな展示だから観光客も少ないだろう。どちらの勘もばっちり当たった(後者は当たっていいのか微妙だが、我々の貸切だ)。

 この記事を書いている半年後の時点では、方々を走り回り、食事もすべて自力で済まそうとするtomopeeである。不可抗力とは言え、ベビーカーに乗るしかない状況ではストレスがたまっていたはずだ。
 その意味で、ここは赤子連れ旅行に欠かせない場所であった。
 

 もう一つ、ここにはtomopeeの刺激になるものがあった。
 猫である。


 この写真の床は、文化館の裏庭。そこに猫が何匹もあらわれて、tomopeeに挨拶をしていった。
 tomopeeが喜んだのは言うまでもないが、実はこの時、見知らぬ一人の男性が、こちらにカメラを向けていた。どうやら、赤子と猫という景色を、良い被写体だと思ったらしい。
 一人で自転車で街を巡っていた若い男性が、その後どうしたのかは不明。その写真が既にどこかで公開されている可能性は高いのではないかと思われる。 見つけたら教えてねっ(というか、当人が教えろと言いたいぞ)。


 こうしてストレスを発散したtomopeeとともに、残り時間を安平で過ごしたわけである。
 その辺のぶらぶらした記事を載せて、とうとう台南に別れを告げることになる。
 いや、半年もかかって今さら「とうとう」もないのだが。


※blogger投稿画面改変に伴い、いろいろ苦戦中。使いづらいなぁ。


2012/07/31

朱玖瑩故居

朱玖瑩故居
 徳記洋行、そして安平樹屋のすぐ隣にある建物。すぐ隣というか、ここもその一部と言った方が良さそうだ。
 最近になって整備されて、一般公開の対象となった。隣と違って、ここは無料公開。

 まぁ有料にするのは無理じゃないかという展示内容だけど、日本なら平気でお金を徴収するよね。特に京都市内とか。
 もっとも、有料にしとかないと、用のない人が集まって来る可能性があるのも事実……と、また話題がそれた。

朱玖瑩故居
 朱玖瑩は台湾では有名な書の大家だったという。
 その展示をしてますよ、というわけだが、横書きはやめて欲しいなぁ。字数も全く合ってないし。

朱玖瑩故居
 建物は日本式の瓦葺きだが、全体的に見れば洋風建築の部類だろう。
 元は台南鹽業公司(台塩)の宿舎だったという。そこになぜ朱玖瑩が住んだのか。それは他でもない朱玖瑩こそが、台塩の塩務総局局長だったからである。

 なお、台南鹽業公司は、日本統治時代の製塩工場などを国民党が接収して作った会社で、幹部は外省人で占められていた。朱玖瑩も長沙の出身だ。
 もう一つ付け加えると、徳記洋行や安平樹屋も、戦後は台塩の所有となっていた。樹屋は「所有」というより放置されていたのだろうが。

朱玖瑩故居
 台湾のサイトでは、日本的な建築だと書かれてあったりする。
 derorenにとっては、日本統治時代の雰囲気は確かに漂うけれど、日本的とは言いがたい。和洋折衷の山荘建築ってとこか(私は建築の素人である)。

朱玖瑩故居
 いわゆる民家の間取りではない。

朱玖瑩故居
 内部を見学する。これは二階。
 エアコンはないので長居は厳しいと言いたいところだが、京都の夏に比べれば、台南は過ごしやすいのよね。

 それはともかく、ログハウス風の天井が特徴。全体的に開放的で、生活感に乏しい。別荘ですな。

朱玖瑩故居
 これも二階。どこも書が飾ってある。

朱玖瑩故居
 やはり二階。まさかの般若心経である。
 なお、この般若心経は最後の「般若心経」がないバージョンのようだ。どういう系統なのだろう。

朱玖瑩故居
 こちらは一階。

朱玖瑩故居
 最後も一階の写真。あまり紹介することがない。
 私はあまり書に関心がないし、中国の現代書家に関する文献も持ち合わせていないから、書きようがないのである。

 とりあえず、書に関心がなければ、わざわざここだけを訪問する価値はない。ただ、安平樹屋の隣なので、そのついでに訪問する機会があれば、覗いてみてもいいだろう。

2012/05/27

台南神学院

台南神学院
 彌陀寺から側道を進むこと数十秒で、台南神学院に着く。案内板もあるし、通りに面した建物には、大きく「台南神學院」と書かれているから、見落とすことはないだろう。
 ただし、通りに面しているのは鉄筋コンクリートのありふれた建物で、知らなければ確実に通過するはず。というか、入っていいのかと躊躇するはずだ。

 本当に入っていいのかと聞かれれば、ここは学校なのだからどうだろうという部分もある。まぁその辺は深く考えずにズンズン歩いていくと、いきなりこんな景色が広がる。

 台南神学院は、長老教会の宣教師養成学校で、その始まりは1876年と伝えられる。関わったのは巴克禮で、独立した校舎ができたのは1870年である。当初は台南大学(府城大学?)とか名乗ったらしく、すぐに台南神学校となった。
 日本統治時期、長老教会の勢力が拡大すると、神学校の規模もあわせて拡大した。そこで1903年に建てられた校舎が、写真に見えるものだという。

 ちなみに、この写真は裏側なのだが、表側は撮影していない。tomopeeがいろいろ大変で、ガイドブックを確認する暇がなかったこともあり、肝心な箇所を多数見落としている。
 もっとも、授業中の校庭をうろうろすることに気がひけたのも、また事実である。

台南神学院
 ここは三つの建物が組み合わさり、中庭が造られている。三合院だ。
 長老教会系の学校では、他にもこんな感じで三合院的な配置の例があるようだ。まぁ中庭は日本の学校でもよくあるけど、日本では四方を囲んでしまったりするよね。あとは、三方にあるにはあるけど、うち一方は単なる渡り廊下とか。

台南神学院
 中央の建物。ここは特に古蹟扱いされていないが、中洋折衷の意匠をヤシの木が目隠ししていて、なかなかの雰囲気。

台南神学院
 三方の最後の一つは、礼拝堂。中庭側からは、特にそれとも見えないが、これは裏口なので仕方がない。
 向かい合う校舎と並んで、ここは古蹟指定されている。ただし建築は1950年代で、比較的新しい。

 ちなみに台南神学校は、第二次世界大戦が激化すると、いったん閉鎖を余儀なくされた。台湾人を戦争に狩り出すための皇民化教育の邪魔だからである。
 そして日本が負けた後、台南神学院と名を改めて再興された。

台南神学院
 礼拝堂を横から見る。ぐっと礼拝堂っぽい。本当は表側も見なきゃいけないのだが、そこは余所様の写真でも見て我慢していただきたい。

羊蹄甲
 そばで咲いていたフイリソシンカ。
 前日ほどではないが、外は暑い。

tomopee
 中庭付近にはちょっとした木陰があって、石造りのテーブルと椅子も用意されている。とりあえずそこで彼にバナナ(龍山寺でもらったもの)を食べさせたり、お茶を飲ませたりした。
 しかしまぁ、いずれにせよそろそろ限界のようで、derorenの亡き祖母のような顔で、彼は泣き続けた。
 通りがかりの人に、蚊に刺されたのではないかと心配されるほどだった(幸い、台南では蚊に刺されていない)。
 

 バナナをあげたのは、休憩してもう少し頑張ってもらうためだったが、結局はあきらめ、ここでタクシーを拾った。hashiとtomopeeはこれにてホテル帰還だ。
 ここからはderorenの単独行動。終わりそうで終わらない19日午前の日記は、もう少し続く。

2012/05/12

台南州立農事試験改良場宿舎群

台南州立農事試験改良場宿舎群
 龍山寺のすぐ裏手にまわると、見るからに日本家屋な一帯が現れる。
 ただしそれは、日本人町といった生活感を漂わせてはいない。すぐに思い出すのは、台南刑務所跡地の光景であった。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 ここは1923年に日本の植民地政府によって設立された、台南州立農事試験改良場の宿舎である。要するに、民間人が必要に応じて建てたものではなく官舎だから、似たような構造になるのは当然だ。
 で、数ある宿舎の中で、ここが一番立派なものと思われる。なぜならば、ここは場長の宿舎なのである。

 現在、この場長宿舎は、台南市環境局の回収家具典蔵館として利用されている。公式サイトによると、月曜~金曜の午前9時から11時までの2時間のみ開館で、しかも五人以上の団体で事前申込が必要らしい。我々は申し込んでもいないし、人数も足りないので、外観を覗いただけだ。
 ちなみに回収家具典蔵館というのは、ゴミを減らす運動の一環で、リサイクル家具を展示しているらしい。宿舎の利用法として妥当なのかはよく分からない。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 塀越しに中を覗くと、こんな感じ。
 巨大な樟の木立に囲まれた豪邸である。日本映画のセットみたいだ。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 屋根には鬼瓦があったり、鴟尾っぽい瓦も見える。
 宿舎が建てられた当時は、ここは郊外で人家も少なかっただろうから、もっと牧歌的な景色だったのかも知れない。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 さて、宿舎「群」として古蹟指定されるように、ここには他にも宿舎だった建物が散在する。ただしどれも柵に囲われており、見学というよりは覗きの対象だ。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 フェンスの編目が写り込んでいるのは気にしないでほしい。
 どの建物も修復工事中らしく、内部がほとんど取り払われている。ともかく、場長宿舎より簡素なので、下っ端の宿舎であろう。下っ端ったってエリートだけどね。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 こちらは、すぐ上の宿舎と向かい合っている。若干大きめの建物である。
 現状はかなりボロボロだが、うまく修復できれば日本料理の料亭ぐらいには使えそうだ。まぁ台南市が管理する以上、料亭にはならないんだろうけど。

 というか、一番料亭向きなのは場長宿舎。家具はむしろ、こういうシンプルな宿舎に展示すればいいのだ。


 こちらはやや修復が進んでいる印象。
 何に使うのかなぁ。3時間2000円ぐらいの貸しスペースにでもしたらどうかなぁ。いや、値段は日本の公共施設的なアレだけど。日本の都市部にこんな貸しスペースがあったら、きっと予約がとれない人気だぞ。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 「拆」の文字が見える。解体という意味だろう。
 どうも見る限り、元々の宿舎の前面に増築された部分のようだ。原型に復すから解体するということかな。

台南州立農事試験改良場宿舎群
 すべての修復が終わるのは相当先ではないかと思う。
 いずれにせよ、宿舎群は既に車道が入り込んでいるので、公園にはし辛そう。まさか、すべてを環境局が利用するなんてことはないよね?

2012/05/08

許嵩煙旧居(旧東門美術館)

許嵩煙舊居
 タクシーに乗り込んで、伝えた行き先は、東門路と林森路の交差点である。そうして東門路を進んだタクシーが、交差点の信号で停まるあたりで降りた。

 ここは府城の大東門を過ぎた城外。振り返ってみると、一軒の洋風建築が見える。

許嵩煙旧居(旧東門美術館)
 ここは数年前まで、東門美術館として使われていた建物。元々は許嵩煙という政治家の自宅で、日本統治時代に建てられたという。
 現在は空家状態で、余り魅力は感じられないが、2001年に歴史建築百景徴選活動の投票が行われた際には、36位にランクインしたそうな。

許嵩煙故居
 「許」字をデザインした意匠が見える。

原東門美術館
許嵩煙旧居(旧東門美術館)
 左右には、草花が描かれているが、それ以外は資料がないのではっきりしたことが言えない。中央は鷹? 両端は蟹にも見えなくはない。

 そんなわけで、4日目の午前は、大東門とその周辺を散策だ。これを書く時点で、もう一ヶ月半も過去の話。いろいろあったなぁ。

2012/03/30

成功大学(二) 榕園で休憩

成功大学
 留学ではなく観光の日本人が成功大学を訪れる場合、たいていその中心となる榕園。現在は成功大学光復校区と呼ばれるエリアである。
 光復とは、国民党軍が台湾を日本の植民地から解放したことを意味しており、台湾各地で使われまくっている熟語(台南では、鴨母寮市場も「光復市場」だ)。ここの場合は、日本陸軍の拠点を奪い取ったニュアンスが含まれているかも知れない。まぁ、奪い取ったという表現が適切かどうかはさておき。

 もう一つ、光復された存在があるとすれば、写真中央の榕樹(ガジュマル)であろう。

成功大学
 この榕樹は、後の昭和天皇が植樹したという伝承をもっている。ただし、植樹からまだ百年にも満たないのに、こんな姿になるものだろうかという疑問もある。
 少なくとも十数年前にはこんな姿だったようだから、70年で成長したことになる。

 1923年(大正12)に台南を訪問した皇太子の日程については、本ブログ「台南豆知識」に載せてある。台湾滞在10日目の午前に、皇太子は台湾歩兵第二聯隊、つまりこの場所を訪れた。
 ただし『台湾行啓記録』の目次では、閲兵と、防暑被服、防蚊装置という怪しげなものを見たことしか書かれていない。この部分の本文はないから、具体的なことは不明。

 まぁ記念植樹というのはごく普通の行為だし、ガジュマルは成長が非常に早いらしいから、本当なのかもね。

成功大学
 そのいわくつきのガジュマル(右の木)の奥に見えるのは、大成館。元は歩兵第二聯隊の司令部であった。
 1912年に造られた、台湾でも初期の鉄筋コンクリート建築だ。国定古蹟。

成功大学
 太い円柱が威圧的だ。
 当時はまだ抗日活動が盛んな時期で、ここはそうした勢力を鎮圧する拠点であった。

 まぁしかし、写真でも分かると思うが、あまり保存状態が良くない。元々が大味なデザインだけに、見ていて退屈だ。

成功大学
 そんなことよりも、tomopeeを休ませねばならない。
 ガジュマルの下は涼しい。本当は、例の木の下で休もうと思ったけれど、既に先客がいっぱいである。無理すれば休むスペースぐらいあるが、落ち着かないので手前のやや小さなガジュマルの木に向かう。
 たまにベビーカーから降りないとストレスがたまるだろう。ということで降ろす。

成功大学
 奥に見えるのが例の木。太極拳か何かのレッスンが行われていたりする。

 キャンパスの中でも、榕園は一般人が普通に入って休憩している。それも子ども連れが多く、老人は少ない。一応はキャンパスなので音楽は鳴らせないしタバコも麻雀もダメだろうから、そういう人たちは台南公園に集まるのかも知れない。
 赤子連れでここをわざわざ訪れる観光客がいるとは思えないが、もしもいたら休憩場所にするが吉。

 ちなみに、この広場は言うまでもなく元の練兵場だ。

成功大学
 榕園の東側には、成功湖という苑池がある。
 まぁ別に、観光に行くような場所ではない。

成功大学
 こちらは旧文学院(歴史系館)。大成館と並んで建ち、よく似た建物だ。第二聯隊の事務全般を担った場所である。
 大成館よりも、さらに状態が悪い。

成功大学
 これも文学院。とても長い建物だ。

成功大学
 文学院の横面。花が飾られていて、実はけっこう洒落た建物だったりする。


 猛暑の台南。両親すらへばっていただけに、tomopeeをどうするか、かなり迷った。ここで午前中の日程を打ち切ろうかと本気で悩んだほどである。
 結局、休ませて水分も摂取したから、tomopeeはまずまず元気になった。成功大学キャンパスの見学は最小限にするかわり、もう少し先まで行くことにした。
 従って、予定していた成功校区は見ずじまい。それどころか、大成館の奥にある礼賢楼すら見ることができなかった。成功大学は「ただ行っただけ」で終わった。

 小西門や城壁は、文学院のそばなので見学している。その辺の記事を次に書くぞ。

2012/03/29

成功大学(一) 黄檗寺跡の旧台南衛戍病院など

成功大学
 台南公園をあとにした我々は、小東路で線路をくぐり、東区方面に向かう。四度目の台南で、初めて歩くエリアである。
 そのまま小東路を進めば、成功大学キャンパスに突入。南側は光復校区、北側は力行校区と呼ばれている。ちなみに、カ行じゃないぜ(ブラウザでは識別が難しいよね)。

 この力行校区には、日本時代の建物が残っている。それが写真の旧台南衛戍病院だ。

成功大学
 台南衛戍病院とは、日本軍の医療施設である。当初は赤嵌楼の建物を使っていたらしいが、1917年(台南公園と同じ年)に、ここに移転した。
 すぐ南の光復校区は、日本陸軍の歩兵第二聯隊であり、その軍医がここで務めていた。
 ちなみに、国民党政権下でも、ここは民国軍の病院として利用された。その後、成功大学のキャンパスに組み込まれたが、今もここは医学部系のキャンパスである。

 ところで、王浩一編著『在廟口説書』(2010.9修訂版、心霊工坊)によれば、台鐵線路付近からこの辺は、かつて存在した黄檗寺の跡地らしい。
 黄檗寺は、天壇(三)の武聖殿の記事で取り上げた廃絶寺院。『在廟口説書』は現存する寺廟の由来を読み物にしたものだが、なぜか黄檗寺の項が設けられており、「天地会的秘密基地」と面白おかしく書かれてある。

 天地会といえば、金庸『鹿鼎記』でも知られる反清復明の秘密結社だ。『鹿鼎記』の話を真に受けられても困るが。
 まぁそれはともかく、鄭氏政権の滅亡後、天地会はそれまで以上に地下に潜った。そんな残党の根拠地の一つが黄檗寺で、大量の軍資金が隠されていたという。
 やがて1786年(乾隆51年)に林爽文らが反乱を起こすと、当然この寺も呼応を求められた。しかし住職の不慧大師は、清朝側の知府(府知事)蔣元樞と親交があったため、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出し、自身は捕えられた。
 不慧大師は結局、北京に送られて死罪。黄檗寺は荒れ果て、最終的には日本陸軍の軍用地として完全に破壊された。関帝像のみが天壇に移され、武聖殿として現存する。

 正直言って、そんな歴史の舞台としてここを眺めるのは難しい。往時の面影のかけらもないし、足元は学生のバイクだらけで風情もないし。

成功大学
 力行校区と勝利路を挟んで東側に広がるエリアは、成杏校区。成功大学の附設医院が、両校区にまたがって建てられている。
 当たり前のように学生だらけのキャンパスにおいて、ここだけは老人比率が高かった。まぁ日本の大学附属病院と何ら変わらないので、あまり説明する必要もないだろう。

成功大学
 附設医院前のオブジェ。
 成功大学は古めかしい建物だけのキャンパスじゃないよ、ということで。


 残念ながら、成功大学は予定の半分もまわれなかった。炎天下をtomopeeと一緒に巡る場合、移動距離の長い場所は難しい。教訓にもならないけど。
 まぁともかく、行けた範囲の紹介はしておく。その(二)は光復キャンパス編。