前記事の続き。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
2012/12/25
2012/12/09
台南歴史年表(その1)
台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
2012/12/05
特別編を書くべきか
ご無沙汰でござる。
他の所用にかかりっきりだった上に、話題がないので更新が止まってしまった。
月に一度は書かなきゃ、と思うが、話題がないのは相変わらず。
祭礼絡みの記事は、それはそれでエネルギーがいるので、思い立って書けるものではない。たまに初心者向け記事でも書こうかな。人物紹介も寧靖王だけ書いて止まってるし。
次に書くとすると、誰になるのかねぇ。
なお、タイトルの「特別編」とは、台湾以外の国のことである。具体的にいえば韓国だ。
実は今年の2月にderorenは韓国に出掛けている。ただしそれは純粋な観光旅行ではなく、いろいろ公開に制限のかかるものだったので、旅行記を書く予定もなかった。
が、その辺の制限は、12月時点でほぼ解けている。さすがに具体的な目的まで書くとなれば、まだダメなんだが、行った先の紹介ぐらいなら大丈夫そう。
……というか、同行者のなかには、既に雑誌に書いちゃった人もいるし。
ただ、台南旅行を薦めるサイトとしては、韓国の記事が延々続くのもアレだろう。例によって、書き始めたら相当に長くなる上に、台南篇に輪をかけてマニアックだ。
そんなわけで、今この記事を書きながら決めた。別のブログに書くことにしよう。うむ。
その別ブログは、ここを使う予定。
http://deroren21.pixnet.net/profile
tomopeeの写真も、こちらのアルバムに載せていくつもり。パスワードつきなので、御覧になりたい方はその旨お知らせくだされ。
他の所用にかかりっきりだった上に、話題がないので更新が止まってしまった。
月に一度は書かなきゃ、と思うが、話題がないのは相変わらず。
祭礼絡みの記事は、それはそれでエネルギーがいるので、思い立って書けるものではない。たまに初心者向け記事でも書こうかな。人物紹介も寧靖王だけ書いて止まってるし。
次に書くとすると、誰になるのかねぇ。
なお、タイトルの「特別編」とは、台湾以外の国のことである。具体的にいえば韓国だ。
実は今年の2月にderorenは韓国に出掛けている。ただしそれは純粋な観光旅行ではなく、いろいろ公開に制限のかかるものだったので、旅行記を書く予定もなかった。
が、その辺の制限は、12月時点でほぼ解けている。さすがに具体的な目的まで書くとなれば、まだダメなんだが、行った先の紹介ぐらいなら大丈夫そう。
……というか、同行者のなかには、既に雑誌に書いちゃった人もいるし。
ただ、台南旅行を薦めるサイトとしては、韓国の記事が延々続くのもアレだろう。例によって、書き始めたら相当に長くなる上に、台南篇に輪をかけてマニアックだ。
そんなわけで、今この記事を書きながら決めた。別のブログに書くことにしよう。うむ。
その別ブログは、ここを使う予定。
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tomopeeの写真も、こちらのアルバムに載せていくつもり。パスワードつきなので、御覧になりたい方はその旨お知らせくだされ。
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