2009/05/05

安平古堡

安平古堡
 17世紀の台南は、遠浅の潟湖を砂洲の島が囲む地形だった(現在は潟湖が消滅して陸地と化している)。その砂洲の一端と潟湖の内陸側に、オランダ軍はそれぞれ城を造り、台湾経営の拠点とした。内陸側に造られたプロビンシャ城が現在の赤嵌楼、そして砂洲に突き出したゼーランジャ城こそが、この安平古堡である。
 街の中心に置かれたプロビンシャ城に対して、このゼーランジャ城は海に囲まれた要害の城である。鄭成功は北にある砂洲の切れ目(鹿耳門)から船で侵入し、先にプロビンシャ城を陥落させたが、それから半年ほど、この城は持ちこたえたという。
 ともあれオランダ人によって台湾初の都市が造られたのが安平である。台湾の語源も、この地の古称「大員」に拠るとの説がある。

安平古堡
 台南を、というより台湾を代表する古蹟は、4月の末にもう夏の陽気だった。
 上の石碑は、日本人が建てて後に書き替えられたもの。こんな所に日本人名の石碑を建てるという嫌らしい支配者意識には呆れる。まぁ向かい合って立つ「民族英雄」鄭成功像も、台湾原住民から見れば同じなわけだが。
 城は権力の象徴である以上、そういうものが建つ。鄭成功も清も日本も国民党も、利用出来る場所を利用したってことだろう。

安平古堡
安平古堡
安平古堡
 後から作られた展望台(日本時代に建った安平燈塔、つまり灯台兼物見櫓)に対して、オランダ時代の名残りの城壁。福建省の団体客も、この壁をバックに記念写真にいそしんでいた。「一級古蹟」指定地がどこなのか、ガイドがきちんと教えているのだろう。
 しかしこの景色、台湾というよりやはり西洋ですな。絡み付くガジュマルの根が南国の証になってはいるけれど。

安平古堡
 オランダ総督の揆一さん。日本人はどうしても一揆と読みたくなるだろう(イッキ!、イッキ!と手拍子したくなる?)。隣の鄭成功像はどこでも見れるので、敗者の側を載せておく。
 しかしなぁ。鄭成功だって台湾にとっての余所者にかわりはないだろうになぁ。同じことばかり書いてすまん。

安平古堡
 プルメリアは満開だ。廟の皿の上で見るより、咲いている姿の方が美しい。まぁ比べる対象ではないけどさ。

安平古堡
 オランダから城を奪った鄭成功は、ゼーランジャ城を安平城と改名した。その際に、故郷を忘れないため、南側の壁に穴を開けて小さな門とした……というような説明板があった。
 自分たちを散々苦しめた城壁に穴を開ける、その象徴的な意味は判りすぎるほどに判る。なんつーか、倒した王の墓を暴くのに似ている。弘計王が憎っくき親の敵であるワカタケル(雄略)の墓を暴こうとして、兄の億計王が止めた故事を思い出す。
 城壁の穴にとどめた鄭成功は、億計王と同様に礼節を知る人間ではあったのだろう。自分が攻められた時に困るんじゃないかって? この狭さでは怖くて突撃出来ないでしょ。

※2011.2加筆。

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