その3を書いた時点で、その4もほぼ現状まで書き終えていた。が、どこで区切るべきか考えているうちに多忙となり中断。その後、多忙じゃなくなっても、一度中断した作業を再開できずに現在に至る。
とりあえず、書いたものは公開しようと思う。たった4年分だけど。
1871年(清・同治10年 日本・明治4年)
牡丹社事件が起きる。
この年、琉球国の船が台風に遭い、台湾の屏東付近に漂着した。総勢60名ほどいた彼らは、当地の集落「牡丹社」に向かい、54名が殺害されてしまう。
殺害に至った経緯は、日本側と台湾側の主張が異なるので、はっきりしないと記しておく。明確なのは、日本政府が事件の責任を原住民のみに被せた点である。
生き残った琉球人は、福建省に送られた上で琉球国へと還された。
ここまでの表現でも分かるように、清側はこの件を、あくまで清と琉球国の問題として処理した。
当時の琉球国は、清と日本の双方に従属する王国であり、日本領土ではない。ただし、生存者が帰還した1872年には「琉球藩」が布告され、日本の領土化がすすめられていた。
日本政府は、この事件を「日本と台湾の事件」と主張することで、琉球国の併合を認めさせようとしたわけだ。もちろん、政府の思惑は他にもあったわけだが。
1873年(清・同治12年 日本・明治6年)
日本軍、台湾の侵略を図る。
先の牡丹社事件に対する報復として、日本軍が台湾を襲撃、原住民を殺害した。
既に述べたように、この出兵の第一の意図は、琉球国の日本領有を清に認めさせることである。
ただし実際には、兵士の中には開拓民とおぼしき層が混じっていた。つまり、そのまま台湾を日本領土にする意図も有していたのだ。
そもそもこの出兵には、明治政府下の政情不安が絡んでいた。幕府の廃止に伴い、失業した武士たちが不満をつのらせ、やがて佐賀の乱や西南戦争などを引き起こしたことはご存じだろうが、そうした層に職を与えるための手段の一つが海外出兵なのである。
侵略先の第一候補は朝鮮。しかし征韓論はそう簡単には通らない。そんな時に牡丹社事件が起きたので、これを好機と戦争に乗りだした。というか、台湾襲撃もやめるよう押し留められたのだが、強引に攻め込んだのである。
そうして行われた台湾襲撃は、植民地化という意味では失敗する。日本軍にとっての最大の敵は、短期的にいえば台湾原住民ではなく病気だった。マラリアやデング熱など、熱帯特有の病気に対して、日本軍の軍医は適切な処置ができず、多くの死者を出した。
そこで清政府との交渉が行われ、原住民の行為に非を認めた清が、日本に賠償金を払うことで決着。日本軍は半年ほどで撤退した。
この賠償金は、派兵費用には全く見合わない額だったが、琉球が日本、台湾が清にそれぞれ属することの証明となった。少なくとも、琉球国の位置づけに関しては、日本側の意図が実現したことになる。
また、日本軍はこの派兵の際に、気象観測を行うなど、台湾の把握につとめた。後の台湾併合に、多少なりとも役には立ったものと思われる。
1875年(清・光緒元年)
台南の開山王廟、延平郡王祠に改められる。当時は閩南式の廟宇であった。
鄭成功を祀り、日本の観光ツアー客にはおなじみの延平郡王祠。しかし、鄭成功は清政府の大敵であり、表立って祀ることなど許されるはずもなかった。そこで「開山王」としてひっそりと祀られていたという。
ところが1875年、台湾統治を委ねられた沈葆楨は、「鄭成功は反逆者ではなく忠義の臣である」と清政府に訴えた。
これまでの主張をひっくり返した上で、大々的な廟の整備を行ったのである。
ちなみに、 台湾の「開山」がすべて鄭成功というわけではない。台南市の開基開山宮は保生大帝を祀る。開元寺の開山堂には、鄭成功も祀られている(開元寺は鄭成功の子、鄭経の別邸址)。また、同じく台南市にある大人廟の「大人」を鄭成功とする説も。
これらは、秘密結社「天地会」との絡みで、さまざまに物語られる鄭成功である。
沈葆楨は、牡丹社事件と日本軍の台湾侵略という事態の中で、台湾を護るために送られた人物である。
具体的には、日本の軍に備えて西洋式の億載金城を造り(1876)、移民の禁令を完全に撤廃して、中国人による植民をすすめた。また、台南中心であった行政を、より日本に近い台北に移す方向性も定めた。
鄭成功の再評価も、もちろん対日本という目的である。つまり、台湾で人気のあった鄭成功を政府公認とすることで、住民の反清感情を抑えようとしたのだ。
なお、台湾初心者向けにその後について簡単に記しておこう。
1895年に台湾の日本領有が確定すると、鄭成功は日本の血を引く者であり、日本軍の先駆者とされた。そこで閩南式の廟は日本神社建築に改められ、開山神社となった。
台湾の神社は、基本的に日本の神を持ち込んだものだが、ほぼ唯一の在地神が鄭成功だった。
ただし『台湾事情』などによれば、現地の子どもを台南神社(北白川宮を祀る)に連れて行く一方で、開山神社が重んじられていた様子はあまり読み取れない。公学校向けの教科書でも、台南で触れられるのは台南神社のみ。
所詮は余所者という意識があったのではないか、とも思う。
国民党政権下では、再び延平郡王祠となる。ただし建物は北京風。
台湾に脱出した国民党にとって、大陸反攻を夢見た鄭成功は、党の先駆者という扱いになった。そこで現在のような社殿が建てられた。
北京風なのは、中国の正統王朝の様式にならったもの。台北の旧城門のいくつかも、閩南風から北京風に改築された。故宮博物院など新規の建物も同様である。
まぁ要するに鄭成功という人物は、時々の為政者に都合よく利用されて、現在に至っている。
ポジティブに捉えれば、いろんな意味で境界線上の存在なのである。
延平郡王祠
開基開山宮
開元寺開山堂
大人廟と鄭成功伝承
鄭成功を書くと長くなったので、ここで一区切り。
初心者向けを意図しているので、当ブログの読者には分かりきったことも書いた。
2014/08/07
「台北 國立故宮博物院 -神品至宝-」を見物

現在、東京で故宮展を開催中だ。これまで、国交の関係で開催できなかった(台湾からの出品が北京に「返却」される可能性があった)展示がようやく実現したわけだ。「国立」を落として開催直前までもめたわけだが、一応内部はすべて「国立」が復活していた。
derorenが訪問したのは、既に白菜展示終了後。近くにいた人の立ち話によれば、白菜展示中の混雑はすごかったらしいが、終了後の平日午前中の館内は空いていた。特別展示がこんな人数で大丈夫なのかと思うレベル。
まぁしかし、derorenの本音も「わざわざこのために東京に行く必要はないな」だった。
展示の中心は、北宋末以降の書画及び陶磁器。しかし、derorenは書にあまり関心がなく、山水画についても同様。磁器はいいけど、明清の磁器は日本国内にもけっこう所蔵されているから、思ったほど有り難みを感じない。
そうなると、残るは玉しかない。玉の細工品は(白菜なしでも)見応えがある。機会があれば見に行ったらいいのでは(derorenは東京で午後に所用があった)。
derorenの興味は古い方にあるので、殷周あたりの物が少なかったのが残念。文字の彫られたものがもっと多ければ、いろいろ宣伝できるのになぁ、と思うが、どうも故宮側が誇示したいのはそういう古さではないようだ。
というか、知り合いに図録を見せても反応が悪くて、どうにもテンションが下がってしまった。おかげで、この記事もなんだかネガティブ。そもそも、上野駅からの往復だけで頭痛がするほど暑かったから、余計ネガティブになる。皆さんも熱中症対策をして見物してくだされ。
2013/06/02
毒澱粉問題について、台南市が特設ページを開設
伝聞記事だけで終わらすと、ただのデマ拡大になりかねないので、台南市政府のサイトを紹介。
6月2日現在、サイトのトップ画面からリンクが張られている。
・順丁烯二酸酐化製澱粉專區
特設ページトップ。ちなみに「順丁烯二酸酐」が「無水マレイン酸」のこと。
・本局相關新聞稿
台南市政府が新聞に出稿した記事一覧。ワードのファイルで配布されている(台湾のサイトでは、ワードやエクセルのファイルをそのまま配布する例が多い)。
・順丁烯二酸酐化製澱粉之Q&A
無水マレイン酸についてQ&A集。粘度を増す(QQにする)目的で混ぜられたらしいこと、一般人の推定摂取量では健康被害のおそれはないことなどが記されている。
・本市澱粉工廠稽查資訊
台南市内のデンプン工場の調査結果。
・行政院衛生署食品藥物管理局「順丁烯二酸酐化製澱粉」專區
台湾政府の特設ページ。気になる人はあわせて読んでほしい。
これらの資料をざっと見る限り、食品そのものの毒性は、あまり深刻に考えなくとも良いように思われる。該当する食品ばかりを毎食食べ続けた場合は分からないが、カロリー過多や栄養の偏りの影響が先にあらわれそうだ。
ただ問題はこの「毒澱粉」が、あらゆるジャンルの料理に拡大していた点にある。この粉は、近年の台湾人が求める食感を生み出すために利用された。「QQ」だ。
台湾で飯を食ったことがあれば、「QQ」や「香Q」といった文字を知っているだろう。日本でいうならば、「グミ」のようにほどよい弾力のある食感だ。
日本でも、さぬきうどんブームの中で、やたらに麺の弾力が喧伝されたりした。そもそも、お菓子としての「グミ」自体、そう古い歴史はない(本来のグミが果実であることを知らない人が増えたよね)。ああいう食感を求める層が、近年激増している点では、日本も台湾も本質的には大差がないと思う。
もっとも、テレビ番組の「食尚玩家」で必ず「QQ」と叫ばれるように、台湾のQQ信仰は日本の比ではない。QQであらずは食べ物にあらず、みたいな空気が根底にあるのなら、事件を機にうまく冷却できればいいなぁ。
似通った食感ばかりじゃつまらないでしょ。
6月2日現在、サイトのトップ画面からリンクが張られている。
・順丁烯二酸酐化製澱粉專區
特設ページトップ。ちなみに「順丁烯二酸酐」が「無水マレイン酸」のこと。
・本局相關新聞稿
台南市政府が新聞に出稿した記事一覧。ワードのファイルで配布されている(台湾のサイトでは、ワードやエクセルのファイルをそのまま配布する例が多い)。
・順丁烯二酸酐化製澱粉之Q&A
無水マレイン酸についてQ&A集。粘度を増す(QQにする)目的で混ぜられたらしいこと、一般人の推定摂取量では健康被害のおそれはないことなどが記されている。
・本市澱粉工廠稽查資訊
台南市内のデンプン工場の調査結果。
・行政院衛生署食品藥物管理局「順丁烯二酸酐化製澱粉」專區
台湾政府の特設ページ。気になる人はあわせて読んでほしい。
これらの資料をざっと見る限り、食品そのものの毒性は、あまり深刻に考えなくとも良いように思われる。該当する食品ばかりを毎食食べ続けた場合は分からないが、カロリー過多や栄養の偏りの影響が先にあらわれそうだ。
ただ問題はこの「毒澱粉」が、あらゆるジャンルの料理に拡大していた点にある。この粉は、近年の台湾人が求める食感を生み出すために利用された。「QQ」だ。
台湾で飯を食ったことがあれば、「QQ」や「香Q」といった文字を知っているだろう。日本でいうならば、「グミ」のようにほどよい弾力のある食感だ。
日本でも、さぬきうどんブームの中で、やたらに麺の弾力が喧伝されたりした。そもそも、お菓子としての「グミ」自体、そう古い歴史はない(本来のグミが果実であることを知らない人が増えたよね)。ああいう食感を求める層が、近年激増している点では、日本も台湾も本質的には大差がないと思う。
もっとも、テレビ番組の「食尚玩家」で必ず「QQ」と叫ばれるように、台湾のQQ信仰は日本の比ではない。QQであらずは食べ物にあらず、みたいな空気が根底にあるのなら、事件を機にうまく冷却できればいいなぁ。
似通った食感ばかりじゃつまらないでしょ。
2013/05/30
いわゆる毒澱粉問題を追う
現在、「毒澱粉」が台湾で大問題となっている。
具体的にいえば、食品の原料となるデンプンの中に、工業用で毒性のある無水マレイン酸(馬來酸)が使われていたという。台湾で好まれる「QQ」な食感を出すのに効果があったらしい。
数年前にはメラミンで揺れた台湾だが、今回はある意味、それ以上に深刻かもしれない。
健康被害のレベルは、メラミンが圧倒的に上。乳児が腎不全を起こしたメラミンミルクに対して、無水マレイン酸使用食品自体は毒性が低く、自然排出させればいいとの説もある(台湾保健食品学会の江さん談)。
しかし、無水マレイン酸使用食品は、台湾観光の目玉といえる小吃のあらゆるジャンルに広がっている。つまり、台湾の食べ物の信頼性が、総体として揺らぐ事態が起きたことになる。
新聞報道によれば、下記の食品で無水マレイン酸が含まれたものが発見されたという。
あくまで一部の企業の製品に含まれているのであって、下記食品がすべて汚染されているわけではない。が、屋台の小吃など、原料を確認できない食品が多いことも事実である。
粉圓(芋圓・地瓜圓)…台湾スイーツの定番。QQな食感で人気。
豆花…これも定番。豆腐に似ているが、デンプンを混ぜてぷるぷるの食感を出す。
肉圓…バーワン。台湾小吃の定番。これもQQ。
黑輪…おでんのこと。具体的には、QQが求められる練り物だろう。
板條…きしめん風の麺。
個別の食品の生産過程で混じったのではなく、使用した米粉や地瓜粉、番薯粉が汚染されていた。従って、該当する企業の粉を使わなければ問題ないし、使っていれば他の食品にも混じることになる。
台南市の調査では、市内の製粉業者15件のうち、7件の製品に無水マレイン酸が含まれていたという(5/30時点の話)。
コンビニの商品などは検査が進んでいるので、今から食べる分には大丈夫ではないかと思われる。屋台は……、現段階では微妙。
台南に関しては調査が進められているし、気になる人はその辺を確認しておきたい(台南市のホームページはこちら)。
なお、豚の皮や鶏の足を食えば解毒できるという噂が広がっているそうな。食べ過ぎるとかえって健康を害する可能性が高いが。
derorenが食べた食品にも、きっと無水マレイン酸は含まれていたのだろうな、と思う。我が家において、毒澱粉被害らしき現象は報告されていないけどね。
無水マレイン酸拡散の大元はある程度判明しているようだし(現時点で確定的な話ではないので企業名は載せない)、混入開始の時期をはっきりさせてほしい。
※この記事は現在進行中の内容をまとめているので、後日読んだ場合は信頼性に欠ける可能性があります。
次の記事でリンク集を紹介したので、そちらを御覧ください。
具体的にいえば、食品の原料となるデンプンの中に、工業用で毒性のある無水マレイン酸(馬來酸)が使われていたという。台湾で好まれる「QQ」な食感を出すのに効果があったらしい。
数年前にはメラミンで揺れた台湾だが、今回はある意味、それ以上に深刻かもしれない。
健康被害のレベルは、メラミンが圧倒的に上。乳児が腎不全を起こしたメラミンミルクに対して、無水マレイン酸使用食品自体は毒性が低く、自然排出させればいいとの説もある(台湾保健食品学会の江さん談)。
しかし、無水マレイン酸使用食品は、台湾観光の目玉といえる小吃のあらゆるジャンルに広がっている。つまり、台湾の食べ物の信頼性が、総体として揺らぐ事態が起きたことになる。
新聞報道によれば、下記の食品で無水マレイン酸が含まれたものが発見されたという。
あくまで一部の企業の製品に含まれているのであって、下記食品がすべて汚染されているわけではない。が、屋台の小吃など、原料を確認できない食品が多いことも事実である。
粉圓(芋圓・地瓜圓)…台湾スイーツの定番。QQな食感で人気。
豆花…これも定番。豆腐に似ているが、デンプンを混ぜてぷるぷるの食感を出す。
肉圓…バーワン。台湾小吃の定番。これもQQ。
黑輪…おでんのこと。具体的には、QQが求められる練り物だろう。
板條…きしめん風の麺。
個別の食品の生産過程で混じったのではなく、使用した米粉や地瓜粉、番薯粉が汚染されていた。従って、該当する企業の粉を使わなければ問題ないし、使っていれば他の食品にも混じることになる。
台南市の調査では、市内の製粉業者15件のうち、7件の製品に無水マレイン酸が含まれていたという(5/30時点の話)。
コンビニの商品などは検査が進んでいるので、今から食べる分には大丈夫ではないかと思われる。屋台は……、現段階では微妙。
台南に関しては調査が進められているし、気になる人はその辺を確認しておきたい(台南市のホームページはこちら)。
なお、豚の皮や鶏の足を食えば解毒できるという噂が広がっているそうな。食べ過ぎるとかえって健康を害する可能性が高いが。
derorenが食べた食品にも、きっと無水マレイン酸は含まれていたのだろうな、と思う。我が家において、毒澱粉被害らしき現象は報告されていないけどね。
無水マレイン酸拡散の大元はある程度判明しているようだし(現時点で確定的な話ではないので企業名は載せない)、混入開始の時期をはっきりさせてほしい。
※この記事は現在進行中の内容をまとめているので、後日読んだ場合は信頼性に欠ける可能性があります。
次の記事でリンク集を紹介したので、そちらを御覧ください。
2012/12/28
台南歴史年表(その2)
前記事の続き。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
2012/12/09
台南歴史年表(その1)
台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
2012/10/23
帰国日の話
放置気味だった旅行記は、一応この記事で終わりとなる。
ただし、速報の必要がないために、開基玉皇宮や西華堂などの記事はまだ書いていない。これらは相応に準備した上で載せる。
いやまぁ、相応の準備ができるほどの時は流れたけどね。wasted timeはEagles。
さて、最終日の3月21日、ホテルを6時55分に出て、空港には朝7時着。この数分のタクシーに200元かかったことは、ホテルの紹介記事にも書いたけど、何ともすっきりしない。
来年にはMRTが開通するし、並みの機動力があれば電車やバスを選択するのがベターかも。
ともかくエバー航空のカウンターに着いて、チェックインの手続きをとる。
赤子連れはオンラインでのチェックインが出来ないため、空港ですべて済ませるしかない。その際には予約番号を求められたので注記しておく。
まぁ旅行の初心者が予約番号のメモをしないとは思えないので、注記する必要はないのかも知れない。ただ、パスポートさえ見せれば予約番号を知らせる必要がない場合の方が多いし、現にここでも両親の予約番号は不要だった。babyは何かとイレギュラーである。
チェックイン自体はすんなり終わる。重量オーバーさえ気をつければ何の問題もないよね(そういえばソウルの某ホテルで、軒並み重量オーバーという日本人団体に遭遇したけど、どう処理したのかな)。
空いてる椅子に座った我々は、いよいよ最後の台南食にとりかかる。
桃園なのに台南食。泣く子も黙る、松村燻之味の手羽燻製だ(肉製品は日本への持ち込み不可)。
せっかくなのでtomopeeをバックに撮影。残念ながらtomopeeはまだ食えない。この記事を書いている時点では、前歯は揃っているけど、燻製は硬いので未だ難しそうだ。
ともかく、derorenとhashiは無心に食す。これがまたうまい。屋台の鴨みたいに唐辛子は使われておらず、燻製の香りが素晴らしい。あっという間に全部食べてしまった。
ちなみにこの燻製は、台南でお世話になったCさんにいただいたもの。ブログでの紹介が半年後になってしまい申し訳ない次第である。
とにかく、わざわざホテルまで届けに来ていただいたお土産は、美味しくいただきました。感謝!
謝謝給我們的伴手禮。感謝。
その後は第2ターミナルを散策しつつ乗り場へ。
故宮博物院の売店があったので、何冊か本を買った。残っていたお金もきれいになくなり、日本円への両替なしという結果になったぞ(というか、足らなくなって一部はカード払いに)。
エバー航空便の車窓から。宮崎市付近である。
いつも乗っているキャセイ便は夜なので、こういう景色を見るのは初めてだった。
今となっては、googleマップがあるので有り難みはないけど、何か資料として使えないかと思って撮影している。
足摺岬だが、どうしても岬の突端は撮れず。窓枠込みで、いかにも飛行機から撮った感じですねぇ。誰も興味ないだろうが。
そんなわけで無事に帰国。
楽しい思い出をいただいた、台南の友人の皆さんには、最後にあらためて深く御礼申し上げます。感謝多謝。

あの時はまだ歩けなかったtomopeeも、今はこんな姿に。
次に皆さんに会える時は、いろいろお話できるといいなぁ。再見。
※tomopeeの近況写真は、今後は別の場所で紹介します。
友人の皆さんには、パスワードをお知らせする予定です。
2012/10/22
華膳空廚美食館(高鐵桃園駅)
さて、既に速報性もなくなった半年前の話。いちおう、あまり情報がないので載せるだけ載せておく。
台湾高鐵(台湾新幹線)は、半ば意図的に「何もない」場所に駅を造っている。従って、普通の都会の駅でなら当たり前のように出来ることが出来なかったりする。
その辺はまぁ、日本の新幹線の駅でも起こらないわけではない(岐阜羽島とか安中榛名とか)。ただ、信号場に毛が生えたような安中榛名駅と違って、桃園も台南も主要駅という点が違う。嘉義は……、主要駅と呼ぶにはちょっと苦しいか。
とにかく、上に挙げた三駅は、駅前にあるのは駐車場だけ。それ以外は見事に何もない。駅構内で済まない用は即お手上げだ。
駅構内には、とりあえずコンビニはある。台南駅なら、食事もできる。桃園駅も今なら大丈夫だろう。
実は2012年3月の桃園駅は、改装工事中で構内の店舗がほぼ閉まっていた。従って駅のコンビニは改札内のみ営業、食堂などはなしという状況だった。まさかそんな状況とは知らずに改札を通った我々は、途方に暮れたわけである。
とはいえ、桃園駅クラスで本当に何もないわけがなかろう、と一縷の望みにかけて探してみると、駅舎の外に食堂を発見した。 中華航空の系列で、華膳空廚美食館という(ホームページはこちら)。まぁ店内はこんな感じで、郊外のファミレスみたいな雰囲気だ。
我々は、この後はホテル直行だし、生後12ヶ月のtomopeeの食事時間でもあったので、とにかくここで食べることにした。
ファミレスみたいな、と表現してみたが、ここはカウンターに注文に行く形式である。むしろ、伊丹空港内にある食堂に近いのだが、あのマイナーな食堂で例えても、ピンと来る読者は少ないだろう。
注文自体は別に難しくはない。写真付きの美麗なメニューが座席に置かれているので、それで選んだものをカウンターで頼む。値段はまぁ、台湾的にどうかと言われれば微妙かも知れないけど、日本の(駅の食堂の)水準で言えば良心的だと思う。
写真は華膳雙醬麵120元。いわゆるジャジャ麺ですな。スープ付き。
既に台南に別れを告げた我々なので、ここでは非台南なメニューを頼んだ。味はまずまず。
非台南といえば川味牛肉麺120元。台南でも探せばいくらでも食えるけど、基本的には北部のメシなので、今回の旅では最初で最後である。
これもまぁ、四川風紅焼の典型的な味。牛肉麺としては高くもない。
街中で食べる小吃とは雰囲気が違うけど、手軽に台湾っぽさを味わう意味では、この店も悪くないのかもと思った我々である。
ただしドリンク類はダメだ。ジャジャ麺のスープと同じ器に入っている珍珠奶茶50元。これをストローで飲むらしいぜ。
というか、この器はドリンクどころかパフェ類にまで使われるという万能食器だ。その辺は、美麗なメニューを見た時点で分かることなので、頼んでから文句をつけてもしょうがない。
どちらかといえばダメなのは、珍珠が少ない点だ。ドリンクスタンドで飲みまくったderorenは、にわか珍珠奶茶評論家なのである(嫌な客だ)。
ここで食べる用のある(日本の)旅行者は、桃園のホテルに泊まって明朝の便で帰国する、我々のような存在ではないかと思う。桃園から高鐵に乗車する客なら、この駅で長居する必要もないだろうし。
とりあえず、城市商旅航空館に泊まる人には良い選択肢のはず。
桃園駅5番出口を出てすぐ、営業時間は7時~23時らしい(メニューによる。公式サイトに営業時間の記載はない)。
2012/07/16
城市商旅航空館

あと一日分の台南記事を残しているのだが、まだしばらくブログに時間を割けないので、とりあえずホテルの話。
自分で言うのも何だけど、無償のブログに費やす労力はけっこうなものである。もちろん、台南は楽しい街だから、今後も続ける予定だ。ご心配なく。
さて、城市商旅というホテルグループの一つである城市商旅航空館は、桃園国際空港のすぐ近くに立地する。従って利用客は、何らかの形で空港に用のある人となろう。
今や東京方面からは羽田松山便があるけど、関西の我々が降り立つ先は、相変わらず桃園だ。まぁ台南や高雄に用があるなら、却って便利といえなくもない。それに、飛行機恐怖症のderorenにとって、街中の空港はできるだけ避けたいのも事実。伊丹空港なんて、もう二度と利用したくない(来月利用するのだが……)。
話がそれた。
我々がこのホテルを利用した理由は、帰国便が朝8時半という早朝便だったからだ。台北観光ならば、朝早く出発すればどうにかなるし、実際に5時台のバスで空港に向かうようなツアーも組まれている。しかし台南からはどうしようもないので、前泊した。
ちなみに、キャセイパシフィック便ならば前泊せずに済む。しかし宿泊費を入れてもエバー航空便の方が遙かに安いのだ。すまんのぉ(全国的にもうけない間寛平風に)。
で、このホテルは、空港近隣ホテルの中でも群を抜いて安い。レートによるが、ツインルーム一室6千円台(2012.7現在)。初心者向けに断わっておくが、一人6千円ではなく、我々ならば大人2人と赤子、しかも朝食付きでこの値段だ。
もちろん、台南で泊まっている首相大飯店はもっと安いし、台湾のホテルの相場は概ね安い。しかし空港利用客向けという特殊なホテルで、この値段は魅力である。
なお、derorenは日通ペリカントラベルネット経由で予約した。旅旅台北など、各種サイトで扱っているので、値段と空き状況で適当に選べばいいのではないかと思う。私が日通を選んだのは、以前も別のホテルを予約したからというだけである。
ホテルは高鐵台南駅と空港の中間にある。同業他社のホテルも近隣にあり、いずれMRTの駅もできる予定だが、現状ではかなり不便な場所だ。我々は赤子連れなので、最初からタクシーを使った。バスで行くことも出来なくはないが、初心者向けではない。
近くにはコンビニが一軒ある。ただ、それぐらいしかないので、高鐵桃園から向かう人は、駅で買い物をしておくべし。
高鐵桃園駅は、我々が訪問した時期は改装中で、コンビニが改札内でしか営業しておらず、非常に不自由だった。しかし、改装工事は終わっていると思うので、今は問題なかろう。
駅舎に隣接して、食事のできる建物もある。我々はそこで夕食をとって、ホテルに着いたらすぐに明日の用意だけして寝てしまった。
ホテルは狭いロビーで、フロントは日本語不可(しゃべれる人もいる可能性はある)、英語も怪しい感じだった。まぁ名前が書ければどうにかなると思うが、不安な人は予約内容を印刷して行くのがいいかも(ちなみに、derorenは一切持ち歩かない)。
部屋は上のような感じ。我々はダブルを頼んだはずだったが、なぜかツインになっている。もしかしたらホテルのサービスなのかも知れないけど、ダブルにしたのはtomopee対策なので、正直言って余計なお世話である。
左奥に妙なものが写っているのは、ベビーベッドである。
ここのベビーベッドは、事前に頼んでおけば無料。ただし、一人で眠ることなどあり得ないtomopeeなので、ここでも物置となった。

タクシーから高鐵、またタクシーで、ようやく動かない地面に辿り着いたので、tomopeeははしゃいでいる。
しかし、シングルベッドは狭くて危険である。入口側のベッドを壁に押しつけて、どうにか一晩を過ごした。
なお、ベッドは普通の安いビジネスホテルのベッド。首相大飯店のシモンズの後に泊まると、なかなか落差が激しい。

風呂はこんな感じ。バスタブはあるのでご心配なく。

洗面台は非常に使いづらい。見た目はともかく、これでは周囲に水が飛び散ってしまう。そんなに使わないからいいけどさ。

この辺は見ての通り。特に過不足はなし。

トイレ。ウオッシュレットではない。
一昔前だったら、ちゃんと水が流れるだけで評価されたのだろうが、やはりこれからのホテルには温水洗浄が欲しいなぁ。首相大飯店も頑張れ。多少の値上げも許容するぜ。

一晩経ったtomopee。
両親にとっては早起きでも、tomopeeはいつも6時前に目が覚めるので問題なし。もぞもぞとベッドの上で遊んでいる。
我々は8時半の便で帰国するので、遅くとも7時には空港カウンターに着く必要がある。それでもギリギリまで寝ていたいから、朝6時までに起床。6:20過ぎに軽く朝食をとり、部屋に戻って荷物をまとめ、6:55にタクシーという段取りだ。
なお、タクシーはフロントで頼むしかないが、これが高い。200元だ。

そうして朝食会場へ向かう(もちろんバイキング=自助餐)。するとまぁ、凄まじい混雑に驚かされることに。
それまで宿泊していた首相大飯店は、こじんまりとしたものだった。しかし、ここは収容人数が違うし、宿泊客の性格上、同時刻に集中せざるを得ない(搭乗前の客か、これからツアーに出る客が大半)。はっきり言うが、修羅場である。
日本人客はかなり多く、我々が相席したテーブルも、これから台湾ツアーという三人組だった。tomopeeは可愛がってもらったので有りがたいけど、「知らない食べ物は怖いから避ける」というスタンスはどうかと思った。余計なお世話だけどさ。
なお会場には、明らかに大陸系と思しき集団もいる。
今や大陸客なしに台湾の観光産業は成り立たないのだし、別にそれ自体はどうでもいいけれど、自助餐に不慣れなのか、とにかく盛る。盛りまくる。還暦は過ぎてそうな爺さんが、和洋中関係なく山盛りに積んでいく様子には、ちょっとした戦慄をおぼえた。
そうして皆さんがせっせと積み上げるから、どんどん食べ物がなくなって、殺伐とした空気が漂い始めるのだ。
まぁとにかく、このホテルで優雅に食事しようなんて思わないことだ。
総じていえば、このホテルのサービスに対する我々の評価は低い。ただし航空便の都合で仕方なく泊まる宿なので、実際には選択の余地はない。間違いなく安いし。
ただし、今後はどうだろうか。
空港アクセスの鉄道(MRT)は、順調にいけば来年には開通する。台北駅には直通しないので(三重駅暫定開業)、台北市内からは新荘線乗り換えか、高鐵桃園乗り換えのどちらかになろうが、とりあえず利用価値はある。鉄道は時間が計算できるからね。
いっぽう、台南からMRTを利用するとすれば、高鐵乗り換えのみ。しかし残念ながら、高鐵桃園に朝7時までに着くような列車はないので、今後もどこかで一泊するしかないだろう。
ただし連絡鉄道沿線ならば大差ないから、このホテルでなくとも良い可能性はある。誰か好立地のホテルを開拓して欲しいものだ。
ちなみに、このホテルは機場旅館駅が最寄りになる。ただし、6:55にホテルを出て7:00に空港に着くような芸当は、200元でタクシーに乗らない限り無理である。
格安ツアーの客は、朝5時に台北のホテルを出るわけだから、それにくらべりゃ屁でもないかも知れない。しかし、我々はそんなツアーには参加しないので、屁どころか実も出たり……などと長文記事をあえて下品に〆てみる。ご愛読感謝(何を今さら)。
2012/05/29
大人廟と鄭成功伝承

台鐵の線路を地下通路でくぐり、東門円環に向かう。
どうということのない高架下の道だが、暑い。deroren独りだから、まぁどうにでもなるが。

ルリマツリ(藍雪花)が咲いていた。日本名はマツリカ、要するにジャスミンに似ているという意味だが、分類上は全く関係ないので、台湾名の方が良い感じだ。
ちなみにこの花は熱帯植物というほどではなく、日本でも普通に栽培されている。ただし、日本の露地で3月に咲かせるのは難しい。

そうして東門円環の外れに出ると、小さな廟があった。正確にいえば、閉鎖されているので廟「だった」建物を発見したというべきか。
大人廟という、ちょっと珍しい名である。
大人廟 在臺灣縣保大里,其神聰明正直,亦是代天巡狩之神。(蔣毓英編『台湾府誌』)
大人廟在臺灣縣保大里。廟宇最為弘敞。(高拱乾編『台湾府志』)
17世紀の資料には、既に「大人廟」が載っている。「代天巡狩」とあるので、いわゆる王爺系の神とみられるが、とりあえず場所が全く異なるので、ここのことではない(保大里は帰仁区の地名との説がある)。
現在の祭神は朱府千歳ら三神なので、間違いなく王爺廟だが、台南市の案内板では、1716年の創建とされる。やはり、上の大人廟とは別という認識のようだ。
しかし清代の末期、市街の自衛組織を廟単位で作り上げた際には、この大人廟が、八協境の主廟となっている。あの東嶽殿をおさえてである。19世紀のここは相当な大廟だったらしい。
その後、東門円環を造る際に敷地が削られ、お金がなく廟宇の修復もままならない状況が続いたらしいことは、大人廟を取り上げたブログ記事で追うことができる。雨漏りがひどいと貼り紙がされている写真もある。
従って、このように閉鎖状態になったのも、神像を安置できる状況にないからだろうという想像がつく。
……と、ここまでは無難な話題。
ここからはやや眉唾な話題。
この「大人」が何を意味するか諸説あるが、実は鄭成功を指すという伝承がある。王浩一編『在廟口説書』は、その説に乗って面白おかしく廟の由来を語っている。
まぁ日本でいうところの「隠れキリシタン」みたいな話だ。「隠れキリシタン」は本当にあったから、比較するのもどうかと思うが。
※隠れキリシタン:17世紀,在日本基督教的信仰被禁止了。在那裡為佛教寺院的身姿偽裝教會,他們隱約地隱藏保持了信仰。「隱藏切支丹」,是那樣的基督教徒的名稱。
同書の言い分はこうだ。
鄭成功の軍は、普羅民遮城(プロヴィンシャ城、後の赤嵌楼のこと)のオランダ軍を降伏させたわけだが、両軍が交渉した場所は、崙子頂という地域であった。
なので人々は鄭成功を讃えて、崙子頂に彼を祀った。しかし清代になって、鄭成功を祀ることがはばかられるようになったため、王爺廟にカモフラージュした。それが、この大人廟なのである、と。
具体的に、朱府千歳は鄭成功(国性爺だから「朱」姓)、李府千歳は鄭経(「李」は「二」と音が近いから、二代目)、池府千歳は鄭克臧/土(鄭経の子。正しくは臧の下に土)だとも記してある。
鄭克臧/土は、弟の鄭克塽との跡目争いに敗れて殺された者。鄭克臧/土は有能な若者だったが殺され、無能な鄭克塽が政権を滅ぼしたという物語が、台湾ではよく語られている。日本でいうところの判官びいきである(延平郡王祠にも祀られている)。
なお、彼が池府千歳なのは、殺害後に彼の首が海に捨てられ、やがて水中から引き揚げられたから。つまり池=水+也だそうな。こじつけにも程があるゾ。
※判官びいき:12世紀末,比勝者源賴朝,同情集聚了在敗者源義經(判官)。「對弱者(判官)表示同情」,是從那裡產生的諺語。

ともかく、台南市政府は最近になって、東門円環に石碑を建てた。それはまさに、ここで鄭成功がオランダ軍を説得して降伏させたという碑である。
derorenはそこまで知らなかったし、あの円環の中心に行く気もなかったので確認していない。が、上の写真を見ると、右側に石柱が建っている。大きさから考えても、たぶんあれだろう。
日本には源義経の古蹟がたくさん存在する。義経が訪問していない地域にも点在している。ここは、そんな感じで生まれた「伝承の地」なのかなぁと思うderorenである。
どうせなら、鄭成功の霊が誰かに寄り憑いて語ったという話でもあればいいのに。
※日本,也有這樣的口傳。
源義經,在與源賴朝(哥哥)作戰的末了,渡行了蒙古。並且改變了名字。那個名,是「成吉思汗」。
台灣的諸位,是不是能相信這個話?
2012/05/25
台南東門巴克禮紀念教会

大東門から東門円環へ向かう。要するに台南中心部へと向かうわけだが、やがて東門路の車道部分は高架となり、窮屈な側道側の歩道を進むことになる。
しかし、その側道にはいくつかの見所がある。
最初に現れるのが、この教会。現在は台南東門巴克禮紀念教会という名になっている。2003年まではただの東門教会だったので、ガイドブックによっては今もそのままである。少なくとも上旗文化『in hand台南』は東門教会のままだ。
まぁ地元でも、東門教会と言わないと通じないのでは、と思う。しかしそのことと、巴克禮の知名度はまた別だ。
巴克禮(カタカナ表記ならバークレー)とは、長老教会(カルヴァン派)のイギリス人宣教師。清朝末期から日本統治時期の台南で、長老教会の勢力を拡大させた立役者である。
長老教会は台南神学校、大平境教会などの宗教施設だけでなく、長栄中学、長栄女中など私立学校も設立しており、それらの大半は大東門周辺に点在する。
まぁその辺のことは、この後で台南神学院の記事を書くので、そちらで触れる予定。
なお、巴克禮は台南の近代史における最重要人物の一人で、特に日本軍との交渉にあたったことで知られている。
下関会議において台湾の日本帰属が決まった後、台湾では激しい抵抗が起きた。そこで日本軍は、いくつもの師団を追加してその弾圧にあたりつつ南下、やがて台南が戦火にさらされることとなった。
台湾独立国を掲げた抵抗軍は、結局指導者が大陸に逃げてしまい瓦解。台南の支配階層は、日本軍との交渉を行うことを決め、そこで選ばれたのが巴克禮だった。
そして巴克禮の交渉のおかげもあって、台南は無血開城。日本統治時代が幕を開けることとなった……との話。
前にも書いたけど、交渉においてはできるだけ対等に近い立場を演出する必要がある。なので台南土着の士紳ではなく、日本の同盟国イギリスの人間を立てたのだろう。
いずれにせよこの一件が、台南における長老派の地位を決定づけたことも、また間違いない。
derorenは残念ながらキリスト関係にあまり詳しくないので、教会などの記事は表面的にならざるを得ないことをお断りしておく。
2012/05/24
大東門

台湾府(後の台南府)の東にあった最大の門が、大東門である。
現在もこの門は、東門路を通れば嫌でも目にすることができる。あえて訪れたのは初めてだが、我々もタクシーで何度か通過していた。
上の写真は東側、つまり城の外側を向いている。

こちらは内側。城門の周辺だけが切り取られて、道路に囲まれている様子が分かるだろう。
門前は清代には非常に栄えていたらしいが、日本時代に城壁が壊された時点で、ここはその役割を終えた。そして今や、まさしく道路交通のじゃま者扱いだ。
同じような立場にあった小西門が、あえなく破壊されたことを思えば、まだこれでもマシかも知れない。が、通行できない門ほど空しいものはない。
なお、この門は旧三級古蹟(現在の市定古蹟)で、歴史的重要度の割には評価が低い。その理由は、近年に大規模な改修が行われ、ほぼ新築といっていい状況になったためではないかと思われる。
日本統治時期、大南門、小西門とともに残されたこの門は、やがて朽ちていき、1954年の台風で大きなダメージを負ったという。
そこで1975年に、かつての姿を再現したのが、我々の見た大東門なのである。
ま、どっちにしろ、あんまり面白い門ではないよね。

内側にある「迎春門」の額。大東門の別称である。
この名前は、台湾府における立春の儀礼が、この門で挙行されたことに由来する。
清代の台南(台湾府)では、立春になると、この門の郊外に春牛亭という建物を造り、そこに春牛と芒神を祀ったと、『台南歴史深度旅遊』には書かれている。
春牛と芒神(牧童、要するに牛飼い)は、耕作の象徴として中国各地で今も祀られるもの。門神画のように、神に描いて貼るようなこともあるようだが、本来の春牛は張りぼてである。
ともかく、そうして春牛亭で官僚たちによる祭祀が行われた後は、張りぼての牛が城内を練り歩いたそうな。
なお、春牛亭があったのは、現在の長栄中学付近らしい。

アーチ部分に埋め込まれた石版。これは小西門と全く同じものだ。

tomopeeは休憩中。ここは道路を渡って訪れるしかないのだが、道路も門の周辺も、日陰が全くない。唯一あるとすればここである。

門の外側は、こんな感じで小さな公園になっている。しかし、これも見れば分かるように、日陰なし。台南の陽射しの元では、とても憩える場所ではない。
結局のところ、我々が残した感想は、ただ「暑いなぁ」だけであった。
2012/05/14
巽方砲台(台南市東区)

さて、謎だらけの修禅院を我々が訪問した理由は、ここにトンデモな古蹟が存在するからだ。
見よ、この要塞を!
とにかく、いろいろツッコミ所が多いので、写真たっぷりで紹介する。なんと総数14枚だ。

修禅院の入口から見えるのは、こんな感じ。
石壁にくっきりと屋根の痕がついている。もちろん石造物の来歴から考えて、こんな屋根だったはずはない。手前にこんな屋根の建物があって、取り壊された痕跡だろう。

正面。上部の目立たない額には「巽方靖鎮」とある。一方、その下の目立つ方は「修禅院」だ。砲台に無理矢理寺院の額を嵌めたわけだ。
ここは一般に巽方砲台と呼ばれる。文字通り、台南府城の巽の方角にある砲台だ。完全な内陸の砲台は、非常に珍しいという。
元々、ここは府城の外部である。しかし大東門周辺が商業地域として発展すると、城門の外側にも人家が建ち並ぶようになる。これを大東門外街と呼んだ。
やがて19世紀になり、台南では反乱が相次ぎ、特に1813年に張丙が起こした乱は、外街の住人に恐怖を与えた。そこで住人たちの請願もあり、1816年に外街を囲む城壁が造られた。
ただし新造の城壁は、三和土で固めた本格的なものではなかった。そこで不安を解消するため、二箇所に砲台を築いたのだ。
一箇所は現在の長栄中学付近だが、これは現存しない。そしてもう一つの砲台が、こうしてなぜか寺院の一部となっている。

砲台は、老古石(サンゴ)と切り出した石を組み合わせ、カキ殻セメントで固めてある。安平に来たような雰囲気だ。
それにしても、「古蹟」ってはめ込む意味は何だろう、と思う。まぁ反対側の「銃楼」も、寺院に全く似つかわしくない言葉だが。

これは反対側から。要するに、敵が攻めてくる方向である。
ただの壁に見えるかも知れないが、もちろん近づけば命はないぞ。

外側にはセメントで化粧がされているようだ。これは本来の姿なのかは分からない。
『台南歴史深度旅遊』によれば、荒れ放題だった砲台を修禅院が買い取って、かなりの改造を施したとある。
とにかく、寺院の堂宇として整備したのだから、中には何か祀られているのだろう、と入ってみた。すると……。

どぉぉぉーーん。
な、なんだこれは。
内部はがらんどうだ。西城秀樹はギャランドゥだ。

円みを帯びた屋根。
そりゃまぁ砲台に装飾は不要だけど、それにしてもねぇ。あまりの雰囲気に、hashiはそそくさと逃げ出してしまったゾ。

さっきの「古蹟」窓を内側から見ると、こんな感じである。
独房ごっこができそうだ。そんな「ごっこ」いらねぇや。

問題は反対側だ。
そう、さっき紹介した敵に面した方向にも、こんな空間がある。窓はないが、よーく見ると……。

なんと銃口があいている。ものすごく生々しい古蹟である。
地元の小学生が見学に行きそうな場所だけど、見せたらトラウマになりそう。

さて、最初の写真で確認できるように、砲台の右側には階段がついている。これが当時のものかは分からないが、ともかく昇れるようなので昇ってみた。

なんとそこには、砲台には全く似つかわしくない休憩場所が設けられていた。どうやら修禅院はここを展望台に仕立てたらしい。
ただし、目の前には修禅院の高層ビルが建っているし、もともと大した高さでもないから、展望するほどの景色はない。だいたい、あんな砲台の上で楽しくかたらいながら休憩するヤツもいないだろう。

hashiとtomopeeも昇ってはみたが、椅子に座ることもなく早々に退散した。
ちなみに『台南歴史深度旅遊』の写真では、この位置に屋根が架かっている。かつては屋根付きの東屋だったようだ。現在の姿は、恐らくはこれでもだいぶマシなのだろう。
まぁ正直、ここは観光地としては薦められない。写真を見て、それでも興味があるというならば、止めはしないけど。
現在の台湾では、金門島とかの軍事要塞を観光客に見せているわけで、そういうものと比べたら大したことはない。ただ、derorenは要塞見学などしたいとも思わないので、ここの評価も微妙である。
2012/04/30
井仔脚瓦盤塩田(台南市北門区)

突然目の前に開けた光景。
銀閣寺の向月台とか、上賀茂神社の立砂みたいなものが、水面に顔を覗かせている。

近づいて見れば、塩の山。
そう、ここは塩田なのである。
北門区の井仔脚という地区にあるこの塩田は、台湾では最古に属する歴史がある。瓦盤塩田という方式を採用している。
この方式は、鄭氏政権の頃に遡るという伝承がある。当時、既に台湾では塩が生産されていたが、とても非効率なものだった。そこで陳永華が新たな方式を導入させたのが、これなのだとか。台湾の諸葛孔明らしいエピソードである。
ちなみに、井仔脚(永華村)での製塩は1818年に始まったらしい。代天府移転の翌年なのは、何か関係があるのだろうか。

現在は商業ベースの生産は終了しているが、製塩は可能。台湾には多くの塩田跡があるけど、今でも造れるというのは、かなり貴重である。

というのも、瓦盤塩田は恐ろしくシンプルな方式だから。
田んぼのような区画を造り、そこに瓦などを平らに敷き詰めれば、設備は完成。あとは海水を流し込み、天日で乾燥させるだけだ。
写真のように中央に掻き集めれば、一日でできてしまう。

作業の体験もできるらしいが、写真に見えるのは、本職の人。
造られた塩は、お土産で持ち帰ることもできる。我々ももちろん持ち帰った。積み上がってる塩を、自分で袋に入れる形なので、きれいな塩なのかという疑念は若干あったけど、主に塩ゆでに利用している。
岩塩を砕いたような大粒で、味はかなりいい。何よりも、製造工程がすべて把握できて、その想像の通りの姿をしているのがいい。

一部の瓦盤は、誰でも入れる体験スペースになっている。
体験といっても、天秤を担いだり、塩に触ったりする程度。まぁ無料施設だし、何と言ってもリアルな塩田に立てるのだから、十分に楽しい。

塩のオブジェもあった。
台南で塩田といえば、七股の塩山が有名だけど、他にもいくつか観光地として公開されている。
ここは商売っ気が乏しく、とても地味。交通の便も悪い。どうしてもバスで行くとなれば、最寄りのバス停から2kmほど歩くことになろうが、炎天下の台南でそれはやめた方が無難。新営駅からタクシーに乗るのが良さそうだ(タクシーなら、恐らく新営駅から20分もかからないはず)。
まぁそんな場所だけど、リアルな塩田を感じられる場所はそうそうないので、興味があったら思い切って行ってみるべし。

なお、この時間の塩田には、三脚つきのカメラが沢山並んでいた。その理由は、一番最初の写真でも分かるように、夕陽が間もなく塩田に映る時間だったから。
せっかくなので、シャッターチャンスを待つ人々の写真も何枚か撮ったけど、モザイク入れるのが面倒臭いから掲載は見合わせておく。
ともかく、ここは台南の友人に案内してもらわなければ、決して行く機会のなかった場所だ。とても素晴らしい体験だった。改めて御礼申し上げる。
登録:
投稿 (Atom)








