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2012/04/04

開元寺にtomopeeは立つ

開元寺
 3月なのに真夏の台南をtomopeeは駆け抜けた。そして幾多の困難の末に、ついに彼は開元寺というパラダイスへ辿り着いたのだ。
 見よ。象と獅子に護られて、誇らしげに彼は笑っている!

 いろいろ嘘がまじったな。ほとんど嘘か。
 象さんのそばで、わざわざ記念撮影したのに、彼はそっぽを向いている。まぁそれは象が嫌いなのではなく、やや離れた物体に興味を示すという、彼の習性である。
 余談だが、tomopeeは京都市動物園で象を見たことがあるゾウ。きっと忘れているゾウ。

※台湾の読者向け注記:この記事は、機械翻訳しても理解できません。たぶん。

開元寺
 開元寺の大樹の下は、それほど広くはないが静かで良い休憩場所だ。ベンチもあるので、乳児に弁当を食べさせることもできる。トイレもあるよ。中でおむつを替えられるような多目的トイレではないけど。

 陽射しがなければ、意外に過ごしやすい。
 いつもより湿っぽいと言っても、京都の夏とは比較にならない。

開元寺
 彌勒殿に入る。土足厳禁。
 中では金色のハート様……ではなく彌勒様と、いかつい四天王が目を光らせている。広目天が顔を真っ赤にしているぜ。便秘ですかー!?(猪木風にどうぞ)

開元寺
 どぅぁれがハート様じゃあ~。
 彌勒様がお怒りだぜ。思い入れがないderorenが適当に撮影したから、線香にピントが合ってるのは内緒だぜ。ひでぶ。

開元寺
 そんなやり取りなどおかまいなしに、tomopeeはたそがれる。揺れる甲板から、波止場を見つめるマドロスのように絵になる姿だ。親バカは、照れが出たらオシマイだ。

 土足厳禁のお堂は、つかまり立ち段階のtomopeeが歩ける貴重な場所である。
 ベビーカーのストレスを発散してもらったゾ。
 まぁこの後はホテル帰還だけどね。

開元寺
 わ、私も立ってみたいわぁ…と、広目天に踏まれた女は叫ぶ。しかしその声は、旅立つtomopeeの背中には届くこともなく、台南の熱い夜は更けていくのだった。


 あれ?
 まだ午後1時じゃん。

2010/02/18

開元寺(十三) 踏まれる者たち

南方増長天
 台南で衝撃を受けたものの一つが、この「踏まれる者」であった。
 煩悩にまみれている点では彼らに引けを取らないderorenであるが、彼らのようなビジュアルに老けていくことだけは避けたい、と思うわけである(踏まれないように努力するのは難しいのであきらめている)。
 「風」の増長天に踏まれるこいつは、まだマシなビジュアルだ。

東方持国天
 「調」の持国天。あまりにその辺のオッサンなので虐待しているように見えなくもない。やんなっちゃうなー、ボリボリ。

北方多聞天
 「雨」の多聞天。禿げてないよ!

西方広目天
 「順」の広目天はオバサンを踏んでいる。なんとなく男女平等だ(三対一だが)。
 そんなわけで風調雨順。
 寅年なのでトラに踏まれてめでたしめでたし。

※開元寺は台南きっての(つまりは台湾きっての)古寺。とても居心地の良い場所なので是非一度は訪ねてみよう。
 過去の記事はこちらでござるよ。
(一)大門 (二)三川門その一 (三)三川門その二(門神画)
(四)彌勒殿 ※彼らを踏むのはここの四天王である。
(五)浄業堂と重修海会寺図碑 (六)大雄宝殿 (七)左右の護龍と大士殿
(八)開山堂 (九)銅鐘 (十)北園別館の残景
(十一)2009年8月某日のお昼前 (十二)圓光寶塔

2009/09/01

開元寺(十二) 圓光寶塔

圓光寶塔
 まだまだ続くよ開元寺。『台南歴史深度旅遊』にすら触れられないもっとも奥まったエリアに、何やら不思議な塔が建っている。
 開元寺が発行するパンフレットでは、なんとこの塔が表紙。1931年(昭和六年)に、証峰法師こと林秋悟(駒澤大学に留学した名僧だ)が設計したとのこと。
 塔の詳細は資料がないが、どうも文字を見る限りでは、悟りの階梯を示すもののようだ。左の塔の最上階が「真解脱」、中央の最上階は「佛日増輝」。

燈籠
 手前には見慣れた感じの燈籠もあった。
 この燈籠には(写真では見えないが)「台南市 漱竹居献敬」とある(その下に「洪」と「松」が並ぶが、恐らくその下にも文字が続いていただろう)。

※『台南歴史深度旅遊』で無視されるのは、日本統治時代の産物だからかも知れない。

2009/08/24

開元寺(十一) 2009年8月某日のお昼前

開元寺
 私が台南に出掛けるきっかけになった開元寺だから、十一回にもわたって連載しているわけではない。開元寺は、写真で見ては分からない場所だ。とても居心地のいい場所だ。
 予定を切り上げて昼寝したい場所だ。

開元寺
 見るからにオガタマノキの仲間なのだが、日本ではあまり見かけない木。ギンコウボクなどと呼ばれるらしい。
 ちなみにこの景色、5月はじめと8月中旬でほとんど変化がない。台南を旅して「熱帯」を意識することはあまりないのだが、こういう部分は日本と大きく異なる点である。

開元寺
 青空とヤシと白い建物とくれば、1969年以来スピリットを置いてないホテルだ。遠目にならそれっぽく見えるのは、普段こういう環境に住んでいないからだろう。
 なお、手前は農園である。あの面積だけでは自給自足ともいくまいが、僧侶たちがここで暮らしているという生活臭を感じられる場所だった。

開元寺
 無造作に薪がおかれていた。上の写真の手前の景色。

開元寺
 目つきの悪い猫もいた。この寺の尼僧にはきっとなついているに違いない。

 お勤めが終わり食事も済んだらしいこの時間、僧房(アパート)のベランダには、くつろぐ僧侶の姿が見えた。そういう時の流れを羨ましく感じるけれど、たぶん自分がそうだったら逃げ出すんだろうなぁ、と思う。
 このブログを読んだ皆さんも、きっと同意するでしょ? この貧乏根性が滲み出たブログを読めば!

2009/08/22

開元寺(十) 北園別館の残景

開元寺
 開元寺は鄭成功の子の鄭経が、母親のために建てた北園別館がその前身である。
 境内にはその頃の遺跡とされる場所がいくつかあるが、功徳堂の隅にある井戸はもっとも著名なものである(なぜか羽鳥又男の銅像がそばにある)。

 この井戸はその名も鄭経井で、かつて井戸を掘った際に大海螺の化石が出土し、それを寺宝としたなんて伝承もあるらしい。

開元寺
 一方、こちらの竹は七絃竹。鄭成功夫人が植えたとされる。
 竹は竹でも、これは地下茎をのばさない、いわゆるバンブー系。南方の植物だ。

開元寺
 柵で囲わなくてもいいのになぁ、とは思うが、実はここにも穏やかではない歴史があったらしい。

開元寺
 七絃竹のそばに建つ「詩魂」碑は日本統治時代のもの。台湾の民族思想を弾圧した日本に対する抗議の碑であるという。
 台湾の文人たちが、自分たちの詩を書いた書物をこの竹の根元に埋め、「詩魂」と刻んだ。もちろんそれは、文人たちにとって竹が聖なる植物である故だが、同時に鄭成功ゆかりの地を台湾民族の聖地とする運動でもあっただろう。

2009/08/21

開元寺(九) 銅鐘

開元寺
 2度目の訪問となった開元寺では、見落とした(見れなかった)箇所などをだらだらと巡った。そんな一つがこの鐘である。前回はお勤め中だったので入るに入れなかった大雄寶殿に下がっている(たぶん現在は鳴らしていない)。
 この鐘は康煕34年(1695)に造られたもので、びっしりと般若心経が刻まれている。清の統治となった台湾が仏国土となるように、というものだったらしい。

開元寺
 第二次世界大戦中の日本軍は、そんな鐘を溶かして武器に転用しようとくわだてた。そうした危機から鐘を救ったのが、最後の日本人市長だった羽鳥又男だったわけである。功徳堂の井戸のそばに、彼の銅像がこっそり置かれている。日本語の説明文もあった。

 羽鳥氏が行った政策は、要するに台南市を観光都市として整備するものだ。そしてそれは、台南の古いものを価値として見いだすものだったといえる。
 対して日本軍(というか総督府)は、自分たちが適当にあつらえた模倣的西洋世界を一方的に与え続けている。各地の廟宇を学校にしたり倉庫にしたり壊したり、台南人のアイデンティティを滅茶苦茶にすることこそ、軍部にとっての価値だったのではないか。

 結局は国籍や生地の問題ではなく、「市」という一地域の長としての感覚と、国家理念にしか隷属しない軍の間には、こういう事件が起こるべくして起こる、ということなのかなと思う。まぁもちろん羽鳥氏はその意味で、有能な市長だったには違いない。

2009/05/31

開元寺(八) 開山堂

 ながらく続いてきた開元寺シリーズも最終回。トリにふさわしく開山堂である。
 ………全然ふさわしくないだろうって?
 我々の旅の目的からすれば、ここが原点なのだ。

開元寺開山堂
 外観は既に彌勒殿の記事で載せたので省略。小さなお堂の中には小さな祭壇がある。
 しかしこの祭壇がなかなかあなどれない。中央の背後に星座のように並ぶ位牌は、歴代の住持たちのものであって、特に不思議というわけではないが、中央の大きなのには、こう書いてある。 「延平郡王神位」だ。
 開元寺は鄭経の別邸であったのだから、この王は鄭経か?、とも思う。しかしこの堂の名は開山堂だ。それはいわゆる寺院の開山堂と似ているようで、実は鄭成功(開山王)の堂という意味なのではないか。
 どうですか皆さん、あなどれないでしょう? しかしもっと意外な存在に、もう気づいている人もいるだろう。

開元寺開山堂
 弘法大師だ。この寺院は基本的に禅宗だったと聞いているが、日本中に井戸を掘った聖人は宗派を超えた信仰を集めていたに違いない(思いつきで書いています)。
 なお、左の金色像は悟慈禅師、右は志中禅師である。どちらも「台南・ダイアリー」の記事に登場する住持だ。ただし志中は「開元寺」初代、悟慈はわりと最近の住持だ。なぜこの二人を選ぶのかは謎である(悟慈の代に寄贈されたのかな?)。

開元寺開山堂
 なお、悟慈和尚はこの写真の右から二人目である。なかなか怖そうな顔だ。まぁこういう所に笑顔っていうのもアレだろうけど。

開元寺開山堂
 祭壇の下にも写っている猫。背中をケガしていたらしく、動きは緩慢だった。

開元寺開山堂
 長い長い開元寺の最後は、やはりこの二人。
 日本統治時代に訪れた寺院の危機を救ったという住持、玄精と伝芳である。

 二人の足跡については「台南・ダイアリー」に譲るが、ここにも伝記が記されている。どちらも簡略なものである……が、玄精上人の説明に気になる箇所があった。
 説明文によると、事件に巻き込まれて心ならずも開元寺を去った玄精は、日本に向かう途中で遁術を使い、泉州の海印寺に飛んでいったとある。そして後に旱魃に見舞われた時に、玄精は炎の中で座禅をして雨乞いを行い、光緒辛酉年二月一一日に亡くなった。その示寂と同時に雨が降り注いだ……そうな。

 実は、光緒に辛酉年は存在しないという問題もある。辛酉は1921年で、これは中華民国10年にあたるわけである。
 1921年はまだ紫禁城に溥儀がいて、一部で清の年号が使われ続けていたという話もあるが、それなら光緒ではなく宣統となる。ただし溥儀は廃帝でしかも国民党の敵でもあるので、宣統を使わなかった可能性もある。単なるミスの可能性もあるけれど、ともかく謎は謎のまま残る。

 なんとなくすっきりしないけれど、まぁ年号なんて今回の旅では些末な問題である。憧れの開元寺に約一時間滞在した我々は、もう少しいたいのをぐっとこらえて次の目的地へ向かったわけである。
 もう少し滞在していたら、もしかしたら素食のほどこしがあったかも知れないなぁ、なんて不純な動機は……、なかったとは言い切れない我々であった。

2009/05/29

開元寺(七) 左右の護龍と大士殿


 釈迦三尊から見て左側なので、我々の進路からは右にある左護龍。1932年建築である。


 父母堂はいわゆる祖霊を祀る所らしい。


 床は禅宗の雰囲気だけど、お堂全体はどうにも違和感がある。境内でもひときわ異彩を放つ空間である。



 対して右護龍はありがちな作り。一番奥の一角は禅堂とある。ここは祖師堂であり、禅宗の祖である達磨大師を祀っているという。
 つまり、写真の中央で金色に輝く存在が達磨である。確かに左右に描かれた絵は達磨そのものなのだが……(台湾の達磨像は全般に恐ろしそうなものが多いようだ)。


 境内のもっとも奥に建つ大士殿。左に南山堂、右に功徳堂となっている。功徳堂には鄭経が掘らせた井戸があるようだが、中には入らなかった。
 この時間はどこもお祈りタイムで、あまり観光客がうろうろする雰囲気ではなかった。

2009/05/28

開元寺(六) 大雄宝殿

開元寺
 彌勒殿の奥にまた小さな庭があり、いよいよ本殿である。
 写真でも分かるように、境内には緑が多い。いかにも南国という木々が珍しい。


開元寺
 本尊は釈迦三尊。花々で荘厳されている。

開元寺
 写真撮影時、内部ではお勤めの最中だった。時々五体倒地のポーズがあった。どうやら懺悔を行っていたらしい。
 相方はしっかり参加していたが、撮影していた私がここに辿り着いた時には、既に加われそうなスペースもなかった。仕方なくしばらく眺めて、虚しいので他に移動した。

2009/05/27

開元寺(五) 浄業堂と重修海会寺図碑


 彌勒殿の左側の小さなスペースが浄業堂。浄行堂の間違いかと思ったが、どの資料にもこう書かれている。
 左側の背の低い建物は右護龍。これはそれほど古い建築物ではないらしい。
 さらに奥の屋根は禅房である。そのさらに向こうには病院がある。


 内部。お堂としてどうなのか(ダジャレ)は資料もなく判らない。ここでお参りしている人も見かけなかった。


 しかしこの堂には、必見の石碑がある。「重修海会寺図」の碑は、開元寺の前身である海会寺の伽藍配置図が彫られたもの。乾隆四二年(1777)の建立で、現在とは異なる点が多く見られるという。
 この写真(クリックすると大きくなるよ)でも辛うじて判るのは、一番下の旗竿。そして大門(現在の三川門)の内部両側に鐘鼓楼もある。
 個人的に興味深いのは、旗竿の下に菩提樹が二本描かれていることだ。樹木も立派な伽藍の一部なのだなぁ、と感心した。





 なお、三川門の右手に石碑を集めた場所(碑亭)があって、そこに同じ乾隆四二年の碑がある。そこに刻まれた「重修海会寺碑記」は、上の伽藍図と対応するそうな。
 ついでに下は「重修海靖寺碑記」である。非常に紛らわしいが、海会寺→海靖寺→開元寺という変遷を示す資料らしい。間違えて写真をUPしてしまったので、一緒に紹介しておこう。

開元寺(四) 彌勒殿

開元寺彌勒殿
 三川門を抜け、いよいよ伽藍の内部へ。別に広くはないけれど、開放感のある中埕(庭)があり、彌勒殿となる。
 この写真に見える範囲が彌勒殿。この建物は左側に浄業堂、右に開山堂を配する。

開元寺彌勒殿
 建物の右側。見えているのはほぼ開山堂の部分である。この開山堂については別に記事を書く。
 右手奥に、ちょっとログハウスっぽい建物が見える。客堂・父母堂などがある左護龍で、日本時代の建築物だ(これも別記事の予定)。

開元寺彌勒殿
 彌勒堂である。どうでもいいが、帰国後の我が家では腹が出てると「彌勒のようだ」と形容出来るようになった。日本の彌勒では通じないので、ほとんど隠語みたいなものかも知れない。

開元寺彌勒殿
開元寺彌勒殿
 彌勒殿の別称は天王殿らしい。法華寺同様に、両脇に仕える四天王は風調雨順。踏みつけられるどっかのオッサンも健在である。

2009/05/24

開元寺(三) 三川門その二(門神画)

開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
 韋駄神(韋駄天)と伽藍神。どちらも日本で見る姿とは大きく隔たるが、台湾ではこういうもののようだ。

開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
開元寺三川門門神画(蔡草如)
 四大天王。例によって風調雨順である。
 これらは現代台湾を代表する画家、蔡草如(1919~2007)の代表作である。やがて摩滅する門扉にこれほどの絵を描かれたら、日本ならすぐに外してレプリカを飾るのではないか(それ以前に、室内の障壁画にしてもらうだろう)。
 蔡草如は若き日に日本で絵画を学び、「台湾絵画運動」を推し進めたという。台湾を象徴する古寺の門に自ら描くことの意味は、「文化財」云々以前の問題であったに違いない。

開元寺三川門門神画(蔡草如)