ラベル 大銃街 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大銃街 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010/01/24

立人国民小学(旧台南第二公学校・宝公学校)

立人國小
 三山国王廟の向かいに立つ、日本統治時代の学校建築。台南第二公学校から宝公学校へと改名し、国民党時代に立人国民小学と改称された。
 立人とは中華民国の孫立人の名である。日本と戦った名将という触れ込みで改名しておきながら、当の孫立人は蒋介石に罪を着せられ幽閉されたわけだ。まぁ蒋介石政権の神格化失敗例というとこか。

 それにしても、中山と中正には正直うんざりだ。
 現在の日本が台湾を「台湾」と呼ぶのは、大陸政府が唯一の政府という立場なので「中華民国」を使えない事情による。だからそれ自体は何も誇れることではないが、敵の敵は味方みたいな感じで、「台湾共和国」派に与した形になっているのは、それほど悪くないだろう。
 こと地名や施設名において言えば、「中華民国」は大陸政府より幼稚で徹底した現人神崇拝を強制している。台南市と台南県の合併で、現実に不都合も生じるのだし(同じ市のあちこちに「中正」「中山」が存在してしまう)、元に戻すなり凱達格蘭大道みたいな名にするなり変えたらいいのになぁ。いい機会じゃないか。

2010/01/22

三山国王廟(三) 天后聖母祠

三山国王廟 天后聖母祠
 三山国王廟の向かって右側が天后聖母祠。その主祭神は(一)に触れた。
 この写真では、非常に見えにくいが門印に注目してほしい。右が「合埠」左が「平安」である。門神香座も拡大すれば辛うじて見える。



三山国王廟 天后聖母祠
 で、ここだけは門神を撮影した。なんといっても女性だ。実に珍しい。
 持っているのは鼎爐である。

三山国王廟 天后聖母祠
 こちらが持っているのは牡丹の花。百花の王である牡丹の花は平安富貴の象徴である。
 この門神はもちろん天上聖母、つまり媽祖自身ではない。二人はあくまで聖母宮に仕える宮女で、おめでたい呪物を持っている。

三山国王廟 天后聖母祠
 桃の彫刻。媽祖と言えば桃でござる。

三山国王廟(二) 韓文公祠

三山国王廟
 五月に続いての訪問となった三山国王廟。前回は台湾三日目で、そろそろ台南にも慣れてはいたものの、見逃し多数であった。
 というか、今回も見逃しまくっている。特に特徴的な門神をほとんど見逃してしまったのは残念である。首相大飯店に泊まって阿憨鹹粥にサバヒー粥を食べに行けば、無名豆花の前を通ってここまで散歩コースだし、次回も何とかして訪れたい。

三山国王廟 韓文公祠
 で、前回はほとんど見なかった韓文公祠(向かって左側)を拝見する。
 印が彫られていることにお気づきだろうか。これは「門印」である。右が「財喜」、左が「登門」で、まぁここの祭神の性格を示していると言えよう。

 ついでに、左右の下の端、門の柱に焦げたような痕が見えるのは、門神香座である。門が開いているので写真には見えないが、閉じている時に門神へ香を供える場所だ。
 ここの門神は韓文公の侍者で、剣と璽を持っている。

三山国王廟 韓文公祠
 中に入ると井戸がある。台湾に渡ってきた潮州の人たちが掘った井戸で、三百年前のものだとか。覗いてみたら今も水がたまっていた。

三山国王廟 韓文公祠
 で、ここはオジサンたちが談笑する場である。
 言葉が通じないので恐る恐る足を踏み入れたわけだが、オジサンは親切にあちこち指差してくれた。中でもおすすめらしかったのがこの彫刻であった。我々は大袈裟に頷いたりシェーシェーと言いながら、さっそく眺めて見る。
 掘られているのはカニだった。

三山国王廟 韓文公祠
 カニの甲羅は「科甲及第」、要するに受験に合格するという寓意らしい。
 いかにも主祭神にふさわしい彫刻である。これも清代のものらしい。

三山国王廟 韓文公祠
 そして韓文公を拝む(ここだけは前回も拝んでいた)。
 韓文公とは韓愈のこと。潮州刺史に左遷された時に、教育文化の発展に大いに寄与したとのことで祀るらしい。地方にやって来た有名人という感じの扱いに思える。
 さしずめ我が地元なら芭蕉神社ってことだろう。

2010/01/05

縣城隍廟と聖福堂(台南市北区)

縣城隍廟
 公園路(東)・成功路(南)・西門路(西)・公園南路(北)に囲まれたエリアは、基本的に地味ではあるがポツポツと史蹟が点在する。崇安街、大銃街(自強街)などの古い路地があり、三山国王廟、土地公廟、開基天后廟、玉皇宮など廟宇も多い。興済宮や大観音亭もそうか。
 写真は縣城隍廟。一度訪れた廟で、かなり不気味だし時間も悪かったので今回は外観のみだ。城隍廟は言葉が分からないと入りづらいのである。

聖福堂
 佑民街辺りと思われる路地に現れた聖福堂。
 「天上聖母」とあるので媽祖を祀るのだろう。扉は閉まっていた。

聖福堂
 しかし、この万国旗は何だろうか。媽祖は海洋の神だからインターナショナルってことかい?

 なお、日本語を話すおばあさんに声を掛けられたのは、この廟の近くだったと思う。
 前回も烏鬼井の近くでおじいさんに話しかけられたし、やはりこのエリアは古いのだろう。

2009/11/25

烏鬼井再訪

烏鬼井
 オランダ統治時代の遺蹟、烏鬼井には前回の旅でも訪問している。今回は三山国王廟の井戸(前回は見落とした)を見る途中で寄った。

 ところで、烏鬼井についてはいろいろ資料を漁って調べてみたことがある。非常にせつない話なので、是非読んでいただきたい。前回の記事に増補する形で書いたので、詳しくはこちらの記事「烏鬼井と大銃街」で

2009/05/07

自強街(台南市北区)


 縣城隍廟や開基天后宮付近を通る小道が自強街。そこには百年以上の歴史を誇る老舗のお菓子屋、舊來發餅舖がある。残念ながら今回はここで何も買っていないので、外観だけ。


 というか、この看板犬が客を追い払っていた。おとなしい犬が多い台南で、こいつはよく吠えるのだ。

開基天后宮

開基天后宮
 1662年創建という古い宮。安平を除けば台湾最古の媽祖廟である。
 南の赤崁楼の近くに、一級古蹟の大天后宮があるので、こちら(二級古蹟)は小媽祖宮とも称される。

 どうやらここはかつての河口だったらしい。水仔尾と呼ばれ、鄭成功がプロビデンシャ城を攻略する際に上陸したのはこの辺だという伝承もある。
 三山国王廟の冊子に載っている乾隆17年(1752)の古地図を見ると、ちょうど三山国王廟とここの間に川が描かれて、橋でつながっている。今は全く面影もないけれど、航海の神を祀るにふさわしい場所だったわけである。

開基天后宮
 現在の廟はかなりコンパクトにまとめられている。たびたび改修され、アメリカ軍の空襲にも遭ったらしい。

開基天后宮
 全く読めないのでおかしいな、と思ったら横書きだった。うーむ。

※以下の写真は追加。

開基天后宮
 この龍柱がかなり古いものらしい。清朝初期の作で、台湾最古という説があるという。

開基天后宮
 奥に観世音菩薩。清代の乾隆年間に祀られるようになった。
 扁額「慈慧」は嘉慶13年(1808)のもので、林朝英の字だそうな。

開基天后宮
 観音像は蒋元枢が造らせたもの。
 妙に艶めかしい姿である。

開基天后宮
 媽祖神の主祭壇。
 この媽祖は船仔媽と呼ばれる。

開基天后宮
 千里眼将軍。

開基天后宮
 順風耳将軍。


※なお、この宮は正確に言えば大銃街ではない。北側を流れる小さな川が境界線なので、赤嵌楼などと同じエリアの北端となる。
 ただし現在は成功路(明治町)が造られたため、かつての境界を意識することは難しい。

2009/05/06

全台首邑縣城隍廟


 府城隍廟もあれば縣城隍廟もある。まぁいずれにせよ、おどろおどろしい廟である。城市の平安を守るのは、ちょっと怖い神様なのだ。


 おびただしい扁額。まぁしかし、日本の神社にも沢山の扁額が奉納されていたりするから、驚くようなことではないな。


 さぁいるぞ、謝将軍(右)と范将軍(左)が。この時点ではまだ、不気味な選挙演説の人って認識でしかなかったわけだ……。

※城隍廟については台湾府城隍廟の記事にまとめた。今後も書き足していく予定である。

三山国王廟(台南市北区)(一) 三山国王とは

三山国王廟
 これもこちらに解説がある。そもそもここを見れば、周辺のポイントはすべて説明されているから、私がごちゃごちゃ書くまでもないのである。

 で、この三山国王廟は、潮州の三山の神を祀るお廟だ。鄭成功の台湾攻撃を支えた潮州(広東省の東端で、福建省に近い)の人々が、自分たちの故郷の神を祀ったもので、建築様式も当地の形を色濃く残しているそうな。

三山国王廟
 正殿。「褒忠」の扁額は清の乾隆帝の御筆だそうな。
 三王の配置は、写真の左から二王(明山国王)、三王(独山国王)、大王(巾山国王)となっている。一応、この辺の知識は台南市三山国王廟管理委員会の編集による冊子に依拠してある。冊子は拝拝してた時に、中で管理しているおじさんにもらった。なかなか立派な冊子で、カラー写真豊富な24ページもの。

三山国王廟
 天后聖母。この写真では囚われた籠の鳥である。申し訳ない限り。
 この聖母様は、台南市の海沿いに公園もある林黙娘のこと。というか、要するに媽祖である。航海の神様なので、潮州の人々が信仰したそうな。

※改めて確認したところ、白い顔の女性はどうやら媽祖ではなく観音で、媽祖はその手前の黒い顔の方らしい。

三山国王廟
 中殿の左右にある不思議な門は、花瓶門という。ひねりのない名だ。
 花瓶の形には「平安吉祥」の寓意があるそうである。派手に飾り付けた廟が目立つ台南で、このシンプルさは特異な感じがする。むしろ雰囲気は法華寺や開元寺などに似ている。

※八月に再び訪れた。(二)(三)を御覧あれ。

大銃街元和宮



 こちらの説明によると、ここも清の時代に創建された宮で、福建省よりやってきた保生大帝を祀るそうな。
 なお、同じリンク先の説明によれば、白龍庵という別の廟の五福大帝も合祀されていて、それは白龍庵の建物が日本軍に接収されてしまったためだという。
 (今年の)旧暦四月初十日は、その五福大帝の一人、應靈公鍾の誕生を祝う日だと掲示されていた。どんな祭礼をするのだろうか。

烏鬼井と大銃街(※大幅に解説追加)

烏鬼井
 清の時代には廓があったらしい大銃街は、崇安街の西側にある。台南を守る大銃(大砲)があったからこの名がついたのだとか。
 かつての繁華街の中心には、埋められてしまった井戸が残る。その名は烏鬼井。オランダ統治時代に掘られたという古い井戸で、三級古蹟に指定されている。
 この名の由来は、夜になると黒い何者かが這い出て来るという伝説があったからで、それはオランダ人が黒人奴隷を酷使して掘らせた祟りではないか、ということらしい。景色はまるっきり中国……というより昔の日本なのに、さすが台南の伝説は国際的である。

大銃街
 烏鬼井の周辺は、雰囲気のある路地だ。
 しかも我々はここで、流暢な日本語を話す老人と会ってしまった。いったいここは何時のどこの国だろう? そんな感覚。

大銃街
 探せば日本家屋もある。
 地図なしには判りにくいけれど、あちこちに道標はあるので心配はないぞ。

※8月15日に再訪。もちろん、眠りについた井戸には何の変化もない。というか、改めて撮影した写真を見比べても、何も変わっていない。さすが熱帯だ。
 さて、烏鬼井についてはその後、吉田東伍『大日本地名辞書』(増補版)などを読む機会があったので多少補足しておく。

 「烏鬼」とは中国人が黒人を呼ぶ時の一般的呼称であったらしい。もちろん、絶対に黒人を見ていないはずの杜甫の詩にこの表現があるので、本来は闇に蠢く鬼の意味だろう。紛うことなき差別語である。
 それはともかく、台湾において「烏鬼」地名はここ以外にいくつかあるそうな。ここから近いのは永康市の烏鬼橋。永康市のホームページにも書かれているので、少なくとも存在しているか、遺跡の場所は分かるだろう。
 『大日本地名辞書』には烏鬼埔山、烏鬼洞も記される。烏鬼埔山は高雄県(かつての鳳山県)に、烏鬼洞は高雄市の沖合にある小琉球(大琉球、つまり沖縄に対する小琉球で、南部では有名な観光地)にあるそうだ。ただしその性格はかなり違うらしい。つまり、烏鬼井と烏鬼橋という名は、黒人奴隷が労働に従事した事情を示すのに対して、後の二ヶ所は烏鬼の居住地であるという。

 とはいえ、現在の台湾に黒人の子孫と称される人はいない。もちろん多少の混血はあった可能性があるけれど、居住したにしては痕跡が全くないのが不自然である。
 吉田東伍はそれを次のように推測する。高雄近辺の「居住」地は、居住地と呼べるようなものではなく、オランダ軍の撤退で行き場を失った黒人奴隷が、身を隠した場所であった。そして鄭氏政権は彼らを保護せず、殺戮したのであろう、と。
 実際、烏鬼洞とは黒人奴隷が隠れていた洞穴で、そこに火を放たれて皆殺しにあったという伝承がある。小琉球に黒人がいたというまともな記録はないのだから、黒人奴隷が哀れな末路を辿ったことは間違いなかろう。

 ただし、黒人奴隷を最終的に殺戮したのは誰なのか、という点は残る。今回ネットでも調べてみたら、小琉球の烏鬼洞についてこのような文章を見つけた。「小琉球原住民的消失一重拾失落台灣歷史之一頁」という論文の一部である。
 そこには、小琉球にイギリス船が停泊した時に、烏鬼人が略奪を働いたのでイギリス人が彼らを捕らえようとし、彼らの逃げ込んだ洞穴に火を放って皆殺しにしたという説が紹介される。この場合、殺戮者はイギリス人である。
 しかし吉田東伍は「泉州人」が放火して殺したという。泉州人とは福佬人もしくは客家人のことだろうから、台湾の人によって殺されたことになる。吉田説は『鳳山県採訪冊』に依拠しているので、かつて台湾でそういう説が伝えられていたのは確かだろう(『鳳山県採訪冊』は上のリンクでも紹介されており、泉州人が殺したとするのはただ一例らしい)。
 現在の台湾にとって、まして観光地の小琉球にとって、自分たちが殺したという伝承は都合の悪いものである。まぁ元から曖昧な伝承に過ぎないので、いろいろな説が流通していたのかも知れないが、やや作為的なものも感じなくはない。
 上で紹介した論文でも、泉州人が開拓の際に……という説を穏当としているようだ。ただし、外国船がどうこうという伝説は、台湾だけでなく東南アジア各地にあるようなことも書かれているので(斜め読みで読解が怪しいので、各自で確認してくれ)、もっと広範囲で調べる必要がありそうだ。

 そういう目で見直せば、烏鬼井はまだ平和な遺蹟である。もちろん、夜になると黒い何者かが這い出て来るなんて伝承は、黒人に対する差別意識を証明しているが。
 鄭成功を英雄視するなかでは、オランダ人は一方的に非難される。しかしその奴隷だった黒人たちが、あるじの敗退で酷い目にあうというのは、どうにもやるせない話である。

烏鬼井付近
 井戸の近くの路地。これは八月の写真である。

名称不明の廟→開基龍君殿


 単に確認を忘れただけである。写真にも固有名詞が見えない。
 阿憨鹹粥から大銃街に向かう先にあった。

 その後、インターネッツを駆使して確認した。写真に小さく住所が載っていたので、どうにか廟の名は判明。どんな廟なのかは判らんなぁ。