2012/03/31
小西門(移築)
台湾(台南)府城の小西門。勝利路沿いの成功大学キャンパス内に建っている。
もちろんここは府城の東側であり、西の門などあるはずのない場所。現在は小西門円環として残る、本来の地から、西門路の道路拡張に伴って移築された。
鄭道聰『小西門:台南前世今生』を読んで以来、一度は眺めてみようと思っていた門である。
正面(道路側)には靖波門の額。乾隆53年(1788)に造られた。
当時の台湾府は(19世紀後半に台北府ができるまで、台南が「台湾」という都市だった)ぐるりと城壁で囲まれ、四方に門が配置されていた。現存するのは大南門、大東門(今回訪問したので後日掲載)と小西門、そして拡大部分の兌悦門程度。抗日運動に利用される上に都市計画の邪魔なので、日本の植民地政府が破壊している。
どうでもいいが、夜市の名前にある「小北」も、小北門のことだ。
キャンパス側は府城内部ということになる。
移築ではあるが、一応表と裏は合っている。もちろんそれは意識して建てたのだろうが、写真でも分かるように、左右に城壁らしきものが見えるのも大きい。
これは城壁らしきものではなく、府城の城壁そのもの。勝利路は府城の東端の城壁に沿った道で、ここだけ取り壊されずに残った。そしてすぐ南は、小東門の址なのだ。
その辺の遺跡関係は、長くなるので別記事で紹介する。
裏側はシンプルに小西門とだけある。
アーチ状の門内部はガラス扉があり、鍵がかかっている。歩行者は、扉の横のすき間を通り抜けることも可能だが、ベビーカーは無理。
まぁそれはともかく、内部のアーチ部分に埋め込まれた碑。道光帝による欽示で、農民や商人が通る際に、兵士はゆすりたかりを行わないよう求めている。
ちなみに、道光帝は乾隆帝の次の皇帝で、1820~50年在位。
そばには銅製の大砲が並ぶ。台南の城跡にはよく置かれているので、これもレプリカかと思ったが、『台南歴史深度旅遊』の書き方だと本物らしい。やはり道光帝の頃のものだとか。
道光帝といえば、アヘン戦争の時の皇帝。対外的な緊張関係があった時期だが、国内の治安も安定しておらず、1833年には台南でも反乱が発生している。
巽方砲台(今回訪問したので後日掲載)の建設が1836年。この大砲も、その辺の状況と絡むものなのかなぁ、と推測する。
2012/03/30
成功大学(二) 榕園で休憩
留学ではなく観光の日本人が成功大学を訪れる場合、たいていその中心となる榕園。現在は成功大学光復校区と呼ばれるエリアである。
光復とは、国民党軍が台湾を日本の植民地から解放したことを意味しており、台湾各地で使われまくっている熟語(台南では、鴨母寮市場も「光復市場」だ)。ここの場合は、日本陸軍の拠点を奪い取ったニュアンスが含まれているかも知れない。まぁ、奪い取ったという表現が適切かどうかはさておき。
もう一つ、光復された存在があるとすれば、写真中央の榕樹(ガジュマル)であろう。
この榕樹は、後の昭和天皇が植樹したという伝承をもっている。ただし、植樹からまだ百年にも満たないのに、こんな姿になるものだろうかという疑問もある。
少なくとも十数年前にはこんな姿だったようだから、70年で成長したことになる。
1923年(大正12)に台南を訪問した皇太子の日程については、本ブログ「台南豆知識」に載せてある。台湾滞在10日目の午前に、皇太子は台湾歩兵第二聯隊、つまりこの場所を訪れた。
ただし『台湾行啓記録』の目次では、閲兵と、防暑被服、防蚊装置という怪しげなものを見たことしか書かれていない。この部分の本文はないから、具体的なことは不明。
まぁ記念植樹というのはごく普通の行為だし、ガジュマルは成長が非常に早いらしいから、本当なのかもね。
そのいわくつきのガジュマル(右の木)の奥に見えるのは、大成館。元は歩兵第二聯隊の司令部であった。
1912年に造られた、台湾でも初期の鉄筋コンクリート建築だ。国定古蹟。
太い円柱が威圧的だ。
当時はまだ抗日活動が盛んな時期で、ここはそうした勢力を鎮圧する拠点であった。
まぁしかし、写真でも分かると思うが、あまり保存状態が良くない。元々が大味なデザインだけに、見ていて退屈だ。
そんなことよりも、tomopeeを休ませねばならない。
ガジュマルの下は涼しい。本当は、例の木の下で休もうと思ったけれど、既に先客がいっぱいである。無理すれば休むスペースぐらいあるが、落ち着かないので手前のやや小さなガジュマルの木に向かう。
たまにベビーカーから降りないとストレスがたまるだろう。ということで降ろす。
奥に見えるのが例の木。太極拳か何かのレッスンが行われていたりする。
キャンパスの中でも、榕園は一般人が普通に入って休憩している。それも子ども連れが多く、老人は少ない。一応はキャンパスなので音楽は鳴らせないしタバコも麻雀もダメだろうから、そういう人たちは台南公園に集まるのかも知れない。
赤子連れでここをわざわざ訪れる観光客がいるとは思えないが、もしもいたら休憩場所にするが吉。
ちなみに、この広場は言うまでもなく元の練兵場だ。
榕園の東側には、成功湖という苑池がある。
まぁ別に、観光に行くような場所ではない。
こちらは旧文学院(歴史系館)。大成館と並んで建ち、よく似た建物だ。第二聯隊の事務全般を担った場所である。
大成館よりも、さらに状態が悪い。
これも文学院。とても長い建物だ。
文学院の横面。花が飾られていて、実はけっこう洒落た建物だったりする。
猛暑の台南。両親すらへばっていただけに、tomopeeをどうするか、かなり迷った。ここで午前中の日程を打ち切ろうかと本気で悩んだほどである。
結局、休ませて水分も摂取したから、tomopeeはまずまず元気になった。成功大学キャンパスの見学は最小限にするかわり、もう少し先まで行くことにした。
従って、予定していた成功校区は見ずじまい。それどころか、大成館の奥にある礼賢楼すら見ることができなかった。成功大学は「ただ行っただけ」で終わった。
小西門や城壁は、文学院のそばなので見学している。その辺の記事を次に書くぞ。
台湾でベビー用品を買った
今回の台湾旅行では、ベビー用品に関しては、基本的に現地調達はしない方針で臨んだ。
まず衣服は、一日3着を想定して、ほぼ日数分を持ち込んだ。その上で、首相大飯店のコインランドリーで一回洗濯したから、問題なく足りた。むしろ余った。
紙おむつは、6日で36枚を持参。実質は5日分で足りるので、こちらも問題なし。往復の機内で2枚ずつもらったおむつは使用せず、一部は知人のお土産となった(ジョークみたいなものだ)。
ちなみに、これはスーパーなどで現地調達可能。
食事は離乳食なので、和光堂、キューピー、明治、グリコと4社のレトルトを持ち込んだ。なぜ4社にまたがったかと言えば、親類などからもらったヤツを総動員したからだ。食事回数分より多く持ち込んでいる。
台南では、スーパーの全聯に入って食品関係を物色したが、レトルトは見かけなかった。ネット通販で扱っているのは日本のものばかりで、値段も高い。無理してでも持ち込むべき。
なお、粉ミルクは台南のスーパーでも普通に手に入る。ブランド指定されると難しいが。
忘れてはならないのが、ベビー飲料。水分補給用に、500mlのイオン飲料を2本。紙パックのジュースも持参した。イオン飲料は途中で切れて、仕方なく普通のミネラルウォーターで代用。台南最終日は猛暑が和らいだので助かったが、もう1本あっても良かった。
ちなみに、マグマグはリッチェルのヤツを使っているゾ。別に宣伝する義理はないけど、漏れないので安心だ。
そんなわけで、もしもの時のためにベビー用品店の場所は確認したが、消耗品や食品は一切買わずに終わった。
しかし、せっかくなので二種類ほど、小さな買い物をしたぜ。
これは武聖夜市で買ったスタイ(よだれかけ)。10枚で650元(現在の相場だと1800円ぐらい)だから、1枚180円だ。
どうせ消耗品だから……と適当に買って、帰国後にタグを見たらカーターズとあったゾ。本物かどうかは不明。高級ブランドではないのだし、本物でも不思議ではない。
こちらは乳児用ズボン。大菜市そばの麗嬰房で購入した。麗嬰房オリジナルブランドLes Enphantsで、790元。素材もいいし、値段もいい。
後ろはこんな感じだ。
なお麗嬰房は主に子ども服とベビー服を扱っており、消耗品や食品はない。ブランド物中心なので、日本より安く買えるとは思わない方が良い。
オシュコシュ(Oshkosh)とか、日本であまり扱わないブランドもあるので、そういう興味のある人はいいかも。オシュコシュはベビー服じゃないけどさ。
店舗は中正路と國華街の交差点付近(大菜市のそば)。新光三越(中山店、西門店の両方)内にもある。
我々はたまたま大菜市でメシを食ったので、そのついでに麗嬰房を覗いている。貴重な時間を割いてわざわざ出掛ける必要はないと思うが、まぁ興味があれば。
まず衣服は、一日3着を想定して、ほぼ日数分を持ち込んだ。その上で、首相大飯店のコインランドリーで一回洗濯したから、問題なく足りた。むしろ余った。
紙おむつは、6日で36枚を持参。実質は5日分で足りるので、こちらも問題なし。往復の機内で2枚ずつもらったおむつは使用せず、一部は知人のお土産となった(ジョークみたいなものだ)。
ちなみに、これはスーパーなどで現地調達可能。
食事は離乳食なので、和光堂、キューピー、明治、グリコと4社のレトルトを持ち込んだ。なぜ4社にまたがったかと言えば、親類などからもらったヤツを総動員したからだ。食事回数分より多く持ち込んでいる。
台南では、スーパーの全聯に入って食品関係を物色したが、レトルトは見かけなかった。ネット通販で扱っているのは日本のものばかりで、値段も高い。無理してでも持ち込むべき。
なお、粉ミルクは台南のスーパーでも普通に手に入る。ブランド指定されると難しいが。
忘れてはならないのが、ベビー飲料。水分補給用に、500mlのイオン飲料を2本。紙パックのジュースも持参した。イオン飲料は途中で切れて、仕方なく普通のミネラルウォーターで代用。台南最終日は猛暑が和らいだので助かったが、もう1本あっても良かった。
ちなみに、マグマグはリッチェルのヤツを使っているゾ。別に宣伝する義理はないけど、漏れないので安心だ。
そんなわけで、もしもの時のためにベビー用品店の場所は確認したが、消耗品や食品は一切買わずに終わった。
しかし、せっかくなので二種類ほど、小さな買い物をしたぜ。
これは武聖夜市で買ったスタイ(よだれかけ)。10枚で650元(現在の相場だと1800円ぐらい)だから、1枚180円だ。
どうせ消耗品だから……と適当に買って、帰国後にタグを見たらカーターズとあったゾ。本物かどうかは不明。高級ブランドではないのだし、本物でも不思議ではない。
こちらは乳児用ズボン。大菜市そばの麗嬰房で購入した。麗嬰房オリジナルブランドLes Enphantsで、790元。素材もいいし、値段もいい。
後ろはこんな感じだ。
なお麗嬰房は主に子ども服とベビー服を扱っており、消耗品や食品はない。ブランド物中心なので、日本より安く買えるとは思わない方が良い。
オシュコシュ(Oshkosh)とか、日本であまり扱わないブランドもあるので、そういう興味のある人はいいかも。オシュコシュはベビー服じゃないけどさ。
店舗は中正路と國華街の交差点付近(大菜市のそば)。新光三越(中山店、西門店の両方)内にもある。
我々はたまたま大菜市でメシを食ったので、そのついでに麗嬰房を覗いている。貴重な時間を割いてわざわざ出掛ける必要はないと思うが、まぁ興味があれば。
2012/03/29
成功大学(一) 黄檗寺跡の旧台南衛戍病院など
台南公園をあとにした我々は、小東路で線路をくぐり、東区方面に向かう。四度目の台南で、初めて歩くエリアである。
そのまま小東路を進めば、成功大学キャンパスに突入。南側は光復校区、北側は力行校区と呼ばれている。ちなみに、カ行じゃないぜ(ブラウザでは識別が難しいよね)。
この力行校区には、日本時代の建物が残っている。それが写真の旧台南衛戍病院だ。
台南衛戍病院とは、日本軍の医療施設である。当初は赤嵌楼の建物を使っていたらしいが、1917年(台南公園と同じ年)に、ここに移転した。
すぐ南の光復校区は、日本陸軍の歩兵第二聯隊であり、その軍医がここで務めていた。
ちなみに、国民党政権下でも、ここは民国軍の病院として利用された。その後、成功大学のキャンパスに組み込まれたが、今もここは医学部系のキャンパスである。
ところで、王浩一編著『在廟口説書』(2010.9修訂版、心霊工坊)によれば、台鐵線路付近からこの辺は、かつて存在した黄檗寺の跡地らしい。
黄檗寺は、天壇(三)の武聖殿の記事で取り上げた廃絶寺院。『在廟口説書』は現存する寺廟の由来を読み物にしたものだが、なぜか黄檗寺の項が設けられており、「天地会的秘密基地」と面白おかしく書かれてある。
天地会といえば、金庸『鹿鼎記』でも知られる反清復明の秘密結社だ。『鹿鼎記』の話を真に受けられても困るが。
まぁそれはともかく、鄭氏政権の滅亡後、天地会はそれまで以上に地下に潜った。そんな残党の根拠地の一つが黄檗寺で、大量の軍資金が隠されていたという。
やがて1786年(乾隆51年)に林爽文らが反乱を起こすと、当然この寺も呼応を求められた。しかし住職の不慧大師は、清朝側の知府(府知事)蔣元樞と親交があったため、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出し、自身は捕えられた。
不慧大師は結局、北京に送られて死罪。黄檗寺は荒れ果て、最終的には日本陸軍の軍用地として完全に破壊された。関帝像のみが天壇に移され、武聖殿として現存する。
正直言って、そんな歴史の舞台としてここを眺めるのは難しい。往時の面影のかけらもないし、足元は学生のバイクだらけで風情もないし。
力行校区と勝利路を挟んで東側に広がるエリアは、成杏校区。成功大学の附設医院が、両校区にまたがって建てられている。
当たり前のように学生だらけのキャンパスにおいて、ここだけは老人比率が高かった。まぁ日本の大学附属病院と何ら変わらないので、あまり説明する必要もないだろう。
附設医院前のオブジェ。
成功大学は古めかしい建物だけのキャンパスじゃないよ、ということで。
残念ながら、成功大学は予定の半分もまわれなかった。炎天下をtomopeeと一緒に巡る場合、移動距離の長い場所は難しい。教訓にもならないけど。
まぁともかく、行けた範囲の紹介はしておく。その(二)は光復キャンパス編。
2012/03/28
台南公園(三) 熱帯の苑池
その(一)と(二)は、内部の古蹟紹介で終わったので、ここでは公園そのものについて記していく。
上の写真は、言うまでもなく社交ダンスだ。しかもズンドコ節だ。アキラでもドリフでもキヨシでも零心会でもなく、中国語の歌だったぜ。
公園の雰囲気は、かつてNHKで放送された「世界ふれあい街歩き」を見た人なら、まぁ想像つくだろう。基本的にはただの公園。平日の年齢層はやや高めなのだろうが、我々が歩いたのは土曜日なので、子ども連れも多かった。
公園の中心をなす池で、燕潭と呼ばれる。「燕潭秋月」は、台南を代表する景色とされた(どうでもいいが台湾wikipediaは間違って「暁」とあるゾ)。
池上の楼台は、国民党時代になってから造られた。従って、恐らく「燕潭秋月」の景色にはなかったはず。
台南公園は1912年から建設が始まり、1917年に開園した。つまり日本統治時代に造られた庭園である。
元々ここは、台南府城の大北門のあった場所。文元溪という小さな川が流れており、燕潭はその名残りであるらしい。
また、燕潭の北側は刑場だった。あんまり楽しくない場所ですネ。
日本の植民地政府は、府城の城壁をすべて破壊した。その上で、台南を西洋風都市に改造する一環として、巨大な都市公園の建造に取りかかったわけだ。
池の南方の景色。ダイオウヤシやナンヨウスギなども見える。いずれも日本時代に台湾に導入された植物だ。
台南公園という名で開園したここは、熱帯植物の実験林も兼ねていた。従って、世界各地からさまざまな樹種が導入され、ここで生育が試みられた。その頃の樹木は、今では百歳を越える老樹となって生存している。
ベビーカー泣かせの曲橋。バリアフリーなどという思想はない。
国民党が移った後、この公園は孫文の名前に変更され、中山公園となった。まぁ台南で一番メジャーな公園だから、彼らの命名論理に基づく限り中山か中正しかないだろう。
それはさておき、単に改名しただけではなく、こういった楼台を造り、サルやクジャクを飼うなど、レジャー施設化が進んだ。日本時代から噴水池はあったし、別にレジャーを志向していなかったわけではないが、はっきり舵を切った形である(ちなみに噴水池は最近取り壊された)。
もっとも、こうした変化は日本と国民党の違いではないだろう。
巨大な緑の都市公園は、近代ヨーロッパの都市計画が生み出したもの。以前読んだ本では(タイトルが思い出せない)、都市の衛生観念を体現した施設と書かれていた。要するに、産業革命以降の汚れた都市を浄化するためには、巨大な公園が適しているという思想である。
しかし、公害を公園で解消できるはずがないのは、今さら言うまでもない。そして、巨大な公園は地域のコミュニティを分断するため、使い勝手が非常に悪い。
結局、大型公園はレジャー施設にでもするしかなかったのではないか。
ともかく、tomopeeを連れて燕潭の楼台にやってきた。
ハルク・ホーガンみたいなポーズを決めているが、この時点で彼は相当にバテている。
それもそのはず。午前10時の気温が31度だ。まだ3月だぜ!?
我々はちゃんと台湾の週間天気予報をチェックしていた。その予報ではせいぜい27度ぐらいだったが、前日18時に台南入りした時点で、予想以上に暑いことに気付いた。ただ暑いだけではなく、まるで日本の夏のように蒸し暑いのだ。
いかんなぁ…と思った翌日がこれだ。tomopeeは水分補給で何とか立ち直ったけどね。
奥に文元溪が流れている。その(一)の石坊の前に橋が写っているのも、同じ川である。石坊の前の橋は、日本時代のものかも知れない。
カラフルに塗られた謎の人工物。
実はこれ、防空壕である。古蹟の扱いはされていないし、たぶん民国になってからのものだろうが、いずれにせよ現役の模様。
こちらも老木に隠れるように、入口がある。
(二)の旧公園管理所が奥に見える。
この公園は、緑は多いが案外日陰が少ない。というか、日陰は既に先客がいたりするので、暑い日の休憩場所には向いていないと思う。
アテが外れた我々は、急いで次の目的地に向かう。そっちの方がたぶん、乳児連れには良い場所だと思われる。
2012/03/27
台南公園(二) 旧台南公園管理所
台南公園の北寄りには、図書館がある。その手前に建つ洋風建築。
この洒落た建物は日本統治時代のもので、現在は警察の派出所である。中央に鳩と国民党のマークが見えるよネ。
もちろん、日本時代は警察ではなかった。警察がこんな可愛らしい建物だったら、ハイキングに出掛ける気分で独立運動ができちゃうよネ(特に意味はないが毒づいてみた)。
元々、ここは公園の管理所だった。
台南公園は、近代日本が西洋の模倣として造ったもの。その辺は(三)で触れるが、ともかくこの公園は実験植物園としての機能をもつなど、多目的な空間であり、その管理事務所を要したのである。
国民党統治後、孫文の名前に変わった公園では、猿や孔雀が飼育され、そうしたものの管理もしていたらしい。我々が訪れた公園は、局所的にうるさい以外は静かな空間だったけれど、世代によって大きくイメージが異なる場所なのだろう。
なお、左端にtomopeeがいる。ウ○ーリーより見つけやすいぜ。
ふてぶてしく見えるのは、暑さでバテかけているせいだ。
写真では伝わらないが、この日の台南はとんでもなく暑かったのだ。その辺の話も(三)にて。
台南公園(一) 重道崇文坊
四度目の台南で初めて訪問した台南公園。ホテルから徒歩数分の距離だが、あまり興味が湧かず素通りしていた。
しかし今回はtomopeeがいる。公園を散歩させるのも良いだろう、と思ったわけだ。
ズンドコ節で社交ダンスを踊る一団がいたり、いろいろ生活臭の漂う公園については、その(三)で触れる予定。
ここで紹介するのは、もちろん正面奥のインベーダーだ。
近くに寄ってみた……のだが、あまり違いが分からない写真になってしまった。
建っているのは公園のほぼ中央。広い公園だが、普通に歩けば見つかるはず。
重道崇文の文字が刻んである。
これは台南の書家、林朝英を讃えたものである。もちろん題字も林朝英による。
19世紀のはじめ、林朝英は私財を投じて台南の孔子廟などを修復したという。その功績を清朝より讃えられ、この石坊が建てられた。1815年のことだ。
ただし、元々ここにあったわけではない。
石柱の向こうにtomopeeとhashiが写り込んでいるぜ。
この石坊は、主に孔子廟に関する顕彰碑なので、当然その近くに建てられた。南門路の、警察局の前の辺りらしい(彼の家は、湯徳章紀念公園の付近)。
しかし、日本統治時代に南門路(南門町)を拡幅することになり、公園に移築されたのである。関心のない日本人にとっては、公園の飾りが一つ増えたぐらいの感覚だったのかもね。
反対側から。こちらが正面のような気もする。
清代の石坊は、台南に四つ現存する。そのうち三つを訪問したことになるが、どうにも見方が難しい。神社の鳥居みたいに見えちゃうのが一因かも知れない。
2012/03/26
台南陸軍偕行社の廃墟(台南市北区)
台南二日目の朝、首相大飯店を出た三人は、台南公園に向かう。しかし、その前にちょっと寄りたい所があったので、西華堂の方面へ。で、前を通ったから一応拝拝しておこうと西華堂に入ったら、いろいろあって長居になった(詳細は別記事で)。
ともかく西華堂から北上し、台南公園の突き当たりから公園南路を東へ歩く。
そして富北街を越えてすぐの右手に、どうにもいかがわしい建築物。
実はここが「ちょっと寄りたい所」。今はまるっきりの廃墟だが、かつては旧陸軍偕行社の建物だったという。
従って一応、これも日本統治時代のものである。最早原型を留めているとは言いがたいけど。
余談になるが、hashiの実家は香川県善通寺市の隣町。善通寺市は陸軍の軍都であり、そこにも偕行社の建物がある。なので、全く予備知識のなかったhashiでも、ここが陸軍関係であることはすぐに分かったらしい。
さらに余談だが、tomopeeは善通寺市の病院で生まれているゾ。本当にどうでもいいゾ。
エリート軍人の社交の場だっただけに、偕行社の建物は日本各地にあって、どれも金のかかってそうな見た目である。
規模が小さいとはいえ、この台南の建物も、二階だけ木造だったりして、それなりにデザインされていたようだ。
正直、間近で見ると、そんなことは全く考えられないけどさ。何しろ、あまりにストレートな廃墟だからねぇ。
真横から見上げた図。道が狭いので、全体を撮影することは不可能。
とても雰囲気のいい路地なので、朝の散歩に良さそうだ。朝の散歩に廃墟というのは微妙だが。
背後から。手前のブロック壁は余所の家で、その奥に二階部分が見える。
ここは日本撤退後、台湾の陸軍が使っていた。まだ廃墟になって10年に満たないらしいことは、ほのかに残る生活臭で感じることができる。
まぁそれだけにリアルな廃墟だ。
修復して何かに使うつもりがあるのかどうか。それとも、台南水交社のように再開発で消え去るのか。
この惨状では取り壊しじゃないかなぁ、と思う。以前に取り壊そうとした時は、反対運動が起きたらしいけどね。
※以下は2013.1追加
善通寺市に残る偕行社の建物を見物してきたので、参考として掲載しておく。
残念ながら休館日のため、内部は見学できていない。善通寺にはまた行く機会もあるので、いずれ内部も紹介するつもり。
善通寺市は陸軍の軍都で、現在も陸上自衛隊がいる。駐屯地の景色は、台南でいえば成功大学に似ている。
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