ながらく続いてきた開元寺シリーズも最終回。トリにふさわしく開山堂である。
………全然ふさわしくないだろうって?
我々の旅の目的からすれば、ここが原点なのだ。
外観は既に彌勒殿の記事で載せたので省略。小さなお堂の中には小さな祭壇がある。
しかしこの祭壇がなかなかあなどれない。中央の背後に星座のように並ぶ位牌は、歴代の住持たちのものであって、特に不思議というわけではないが、中央の大きなのには、こう書いてある。 「延平郡王神位」だ。
開元寺は鄭経の別邸であったのだから、この王は鄭経か?、とも思う。しかしこの堂の名は開山堂だ。それはいわゆる寺院の開山堂と似ているようで、実は鄭成功(開山王)の堂という意味なのではないか。
どうですか皆さん、あなどれないでしょう? しかしもっと意外な存在に、もう気づいている人もいるだろう。
弘法大師だ。この寺院は基本的に禅宗だったと聞いているが、日本中に井戸を掘った聖人は宗派を超えた信仰を集めていたに違いない(思いつきで書いています)。
なお、左の金色像は悟慈禅師、右は志中禅師である。どちらも「台南・ダイアリー」の記事に登場する住持だ。ただし志中は「開元寺」初代、悟慈はわりと最近の住持だ。なぜこの二人を選ぶのかは謎である(悟慈の代に寄贈されたのかな?)。
なお、悟慈和尚はこの写真の右から二人目である。なかなか怖そうな顔だ。まぁこういう所に笑顔っていうのもアレだろうけど。
祭壇の下にも写っている猫。背中をケガしていたらしく、動きは緩慢だった。
長い長い開元寺の最後は、やはりこの二人。
日本統治時代に訪れた寺院の危機を救ったという住持、玄精と伝芳である。
二人の足跡については「台南・ダイアリー」に譲るが、ここにも伝記が記されている。どちらも簡略なものである……が、玄精上人の説明に気になる箇所があった。
説明文によると、事件に巻き込まれて心ならずも開元寺を去った玄精は、日本に向かう途中で遁術を使い、泉州の海印寺に飛んでいったとある。そして後に旱魃に見舞われた時に、玄精は炎の中で座禅をして雨乞いを行い、光緒辛酉年二月一一日に亡くなった。その示寂と同時に雨が降り注いだ……そうな。
実は、光緒に辛酉年は存在しないという問題もある。辛酉は1921年で、これは中華民国10年にあたるわけである。
1921年はまだ紫禁城に溥儀がいて、一部で清の年号が使われ続けていたという話もあるが、それなら光緒ではなく宣統となる。ただし溥儀は廃帝でしかも国民党の敵でもあるので、宣統を使わなかった可能性もある。単なるミスの可能性もあるけれど、ともかく謎は謎のまま残る。
なんとなくすっきりしないけれど、まぁ年号なんて今回の旅では些末な問題である。憧れの開元寺に約一時間滞在した我々は、もう少しいたいのをぐっとこらえて次の目的地へ向かったわけである。
もう少し滞在していたら、もしかしたら素食のほどこしがあったかも知れないなぁ、なんて不純な動機は……、なかったとは言い切れない我々であった。
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