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2012/12/28

台南歴史年表(その2)

 前記事の続き。
 鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。


1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
 福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
 台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。

 先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
 そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
 余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。

 中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
 その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。

 約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
 対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
 従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。

大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
安平延平街(大員街)
海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
広済宮(同上)
文朱殿(同上)
台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
台湾県城隍廟(台湾県に由来)
台北隘門(残念ながら破壊された)


1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
 朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。

 鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
 で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
 ……が、すぐに大陸から施世驃施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。

 この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
 いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
 なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。

 もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
 この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
 もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。

 なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
 数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。

大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)


1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
 蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。

 日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
 しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。

 蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮祀典武廟など)の修復に努めたという。
  また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
  ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。

  法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。

法華寺
大天后宮
祀典武廟


1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
 蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
 原住民抑圧策としての屯田などを推進している。

 彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
 また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
 離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。

三官廟(元は彼の屋敷だったという)
接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
大天后宮観音殿(観音像を寄進)
開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
祀典武廟(観音像を寄進)
台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)


1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
 林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。

 彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
 呼応した勢力によって淡水鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅鹿港などごくわずかであった。
 朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。

 鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。

 この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
 日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
 ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。

 まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
 とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
 林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。

 ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
 台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
 なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。

 林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。

 ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
 黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。

北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)


 さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
 台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。

2011/02/15

飲んで移動してまた飲んで(嘉義→桃園)


 北港鎮での見学を終えて嘉義に戻った我々は、ホテルをチェックアウトして昼飯を食べに噴水円環方面へ向かう。その辺の顛末はホテルの記事と、郭家雞肉飯の紹介記事に書いた(おおまかなことは概略を読んでおくれやす)。
 最後の台湾飯に腹を満たした我々は、タクシーを拾う前に飲み物を調達する。非常に分かりづらいが、上の写真の右側に見える店だ。

客中歇
 客中歇という小さなスタンドで買ったのは、例によって珍珠奶茶。時間がないので悩まずに頼めるものを選ぶと、いつも同じ飲み物になってしまう。でもいいじゃないか。うまいんだし。
 なお、店内の写真も撮ったが、あまり載せたくない感じだったので秘匿しておく。まぁ舞台裏は見ない方がいいものだ。


 そんなわけで高鐵嘉義駅から乗車。
 高鐵のホームはどの駅も変わり映えしないので、載せようという気力が湧かない。ホームから見える景色まで似たようなものだから、余計に萎えるのよね。


 で、車内で飲んだお茶だ。
 え? 珍珠奶茶はどうしたって?
 決まってるだろう。駅に向かうタクシーの中で飲み干したぜ!

 なお、このお茶は「日本ハリマ製薬」云々の注記がある。調べてみたら、ハリマ製薬という会社は実在する。まぁ黒松は怪しいメーカーではないので、適当な日本語ってことはないだろうと思ったが(黒松飲料も何ら怪しくはない)。

統聯客運バス
 高鐵桃園駅からは統聯客運で空港へ。この時は当たりでふかふかシートだった(ビニール皮の堅いシートもある)。
 もっとも、何となく清潔感に欠けるこのシートよりも、清掃の手間を省いたビニールシートの方がマシという考え方もある。長距離バスだったらどっちもなぁ……というコメントは、最初に乗った時も書いているぞ。


 そんなわけで何事もなく空港へ到着。時間に余裕があったので、書店で本を買ったり、レストランのメニューを物色したりしながら時間をつぶす。
 最後の写真は、hashiが撮ったトイレの衛生紙だ。なぜこんなものを撮影する必要があったのか、derorenは知る由もない。まぁ旅の最後を飾るにふさわしい一枚として、長らくおつき合いいただいた読者諸君に贈る。

 今後の予定などは、次の記事にて。

2010/11/25

皇爵大飯店(嘉義)

皇爵大飯店(嘉義)
 嘉義で泊まったホテル。日通ペリカントラベルネットで予約した。
 台鐵で嘉義入りし、翌朝はチェックアウトせずに北港鎮へ往復し、その後に高鐵嘉義へ向かうプランだったので、台鐵嘉義駅の近くというのが絶対条件。そして初めての街なので、ランクを落としすぎるのも不安……という感じで調べたら、ここが浮上した。
 ホテルを決めてから、予約方法を検討。公式サイトからのネット予約は準備中で、ペリカン(名前だけで、実質は現地丸投げの模様)の予約が比較的簡単だったので、ここで頼むことにした。
 ネット予約とはいえ、その場で空室確認ができないのはやや面倒である(週末に予約すると、返事は月曜日)。とはいえ、メールの応対は特に問題なかったし、実際に宿泊する際にも、代理店絡みのトラブルはなかった。
 首相大飯店を扱っていないのは残念だが、余所が扱わない地区のホテルが多いし、現地ツアーも扱っているので、興味があれば見たら良いと思う。

 前置きはこれぐらいにしておこう。
 嘉義駅からは斜めの中山路を少し歩いて、信号を折れるだけ。距離的には申し分ないが、この看板の文字を見て、一抹の不安がよぎったのは事実である。日本でビジネスホテルがこのフォントを使ってたら、一抹の不安では済まないぞ。

皇爵大飯店(嘉義)
 しかしまぁ、中は普通のビジネスホテルだった。ロビーはけっこう広い。
 フロントは時間帯によっては日本語のできる人がいる。まぁ最低でも英語は通じるし、トラブルが起きない限りは問題ない。朝5時のタクシー手配も大丈夫だった。

皇爵大飯店(嘉義)
 そんなわけで客室。
 ほぼ寝るだけなので、一番安い部屋にした(一泊7000円ぐらい。ペリカン台湾は料金がシンガポールドル表示)。首相大飯店よりは狭いが、別に窮屈というほどではない。ただし細かい所に問題があった。

皇爵大飯店(嘉義)
 特筆するようなものはないが、問題は窓際である。テーブルと椅子があり、奥には電気ポットなどの置かれた台が見えるだろう。そこでderorenは、日本の旅行客なら必ずやる動作をして、不信感をもってしまった。
 そう。カーテンを開けて、外がどうなっているか確認したわけである。

 外がどうだったか覚えていないが、カーテンの陰になっていた床は汚れていた。見えないところは掃除しないホテルなのだな、と了解した。
 そして翌日には、チェックアウトしていないにも関わらず清掃されてしまった。我々の荷物が置かれたままだったにも関わらず、だ。
 フロントの人たちには感謝しているが、このようなホテルを推薦はできない。

皇爵大飯店(嘉義)
 バスとトイレはこんな感じ。バスタブは深めだった。
 翌日、北港鎮から戻ってみたら、バスタオルの類も新しいものに取り替えられていた。呆れ果てたものの、まだ我々が宿泊中の部屋なので、遠慮なく使ったぞ。
 台湾のホテルは12時チェックアウトなので、午前中に出歩いてから、11時半ぐらいにシャワーを浴びて去るようにしている。もちろんここでも遂行したが、盗まれていないか確認しなければならないというスリルは、できれば味わいたくないものだ(ちなみに、何も盗られてはいないので念のため)。

 ここは我々の宿泊後に、観光局が二つ星認定したホテルである。二つ星はハード面での評価らしいので、それはまぁ良いと思うが、サービス面で合格点は出せない。
 まぁ便利な場所で安めでフロントは頼りになるので、上記の問題を我慢できる人にはおすすめする。我々にしても、もしも同じ条件で嘉義に泊まらなければならないのであれば、貴重品の自衛をしっかりした上で渋々ここに泊まるだろう。

 なお、我々は北港鎮に出掛けたので食べていないが、ここは朝食付きである。

2010/11/24

噴水円環(嘉義)

噴水円環
 嘉義市の中心にある中央噴水円環。我々にとってはランドマークでしかなかったが、ともかく嘉義市内を移動するなら必ずといっていいほど通る場所だ。

噴水円環
 かつては桃子尾と呼ばれたとか、嘉義城の城壁があったとか、ここの歴史はとりあえず大台湾旅遊網(日本語)を読んでくれたまえ。「前の市長の許世賢様」とか、いろいろ笑える訳になっているぞ。
 ……まぁ大台湾旅遊網の日本語が怪しいのは、ここに限ったものではない。ただし、この記事で確信したことがある。これは機械翻訳ではなく、日本語力の怪しい人による人力だ。念のためにエキサイト翻訳を使ってみたが、市長に「様」とはつかなかったぞ(だいいち「様」に相当する語が中文版に存在しない)。

 なお、この市長様はバカの一つ覚えで中山像を建てたとあるが、我々が見たのはこの「鱉躍江海」だけだ。
 これはスッポンが暴れているのではなく、いわゆる鯉の滝のぼりらしい。赤い部分は鯉で、頂上は龍だと思われる。

噴水円環
 昼に通るとあんまり目立たない。この写真でも、手前のマネキンに気をとられるよね。
 いずれにせよ、国民党時代になってから円環として整備されただけなので、観光客がわざわざ訪れる場所ではない。旅行者にとっては、あくまでも目印である。

2010/11/22

郭家好吃店(郭家雞肉飯)

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 嘉義は雞肉飯の本場である。従って無数に小吃店が存在するなかでも、評判のいい店の一つが郭家雞肉飯だという。
 最後の食事となる5月6日の昼食は、時間的な制約から噴水円環の周辺が限界だったが、ここは噴水円環から文化路を少し歩いたところで、何とか行けそうだ。というわけで、帰国の荷物を全部持ってここまで歩いた。地図はこちら

 一般には郭家雞肉飯の方が通りがいい。しかし看板に従えば郭家好吃店のようなのでタイトルにした。台湾の小吃店の店名はアバウトなので、厳密にする価値はないけどさ。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 ごくありふれた小吃店である。座って注文して食うだけだ。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 雞肉飯30元はわりとあっさりめで、鶏肉の油っぽい感じはほとんどない。これはかなり美味。日本の旅行者が食うなら、噴水よりだんぜんこちらがオススメだ。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 魯肉飯30元。非常に珍しい鶏肉の魯肉飯である。
 ただ、味は雞肉飯に劣ると思う。話題性はあるので一度は食べてもいいが、どちらかしか食えないなら雞肉飯にすべき。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 綜合粿子湯50元。総合してるのかぁ、と頼んだのが失敗の元だった。
 いや、味は別に失敗というほどでもなく、スープは悪くない。問題は粿子が何かを考えずに頼んだ点にある。「粿」の字の時点で気付くべきだったが……。

 ニラと一緒に入ってるのは、うるち米を固めた餅。関西のお菓子の水無月とか、山形県新庄市付近のくぢら餅なんぞを連想してもらいたい(椀粿でももちろん可)。
 我々は炭水化物だらけのメシを食べるので、あっさりしたスープを望んでいた。そこに炭水化物だらけのスープがやってきたわけだ。これを食べるのはかなり苦労した。
 ただ、苦労した理由はもう一つの皿との相乗効果であった。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 どどーん。糯米大腸50元だ。四品すべて炭水化物だぜ。死ぬかと思ったぞ。
 ちなみにこれは、ソーセージのように腸にもち米を詰めたもの。粒々は落花生だ。腹が減ってさえいれば、抜群にうまい。うまいが、雞肉飯のつけ合わせにはならない。

 念のため書いておくと、魚丸湯とか下水湯など、普通のスープ類もちゃんとある。そして、下の写真のように副菜も揃っているから、我々のようにバカみたいな頼み方をしなければ何の問題もない。
 我々(というかderoren)がバカな注文をしたのは、時間がなかったせいだと思ってくれい(30分以内にタクシーに乗らなければならないので焦っていた)。

郭家好吃店(郭家雞肉飯)
郭家好吃店(郭家雞肉飯)
 余裕があれば筍を食べたかったなぁ。

 日本の観光客が嘉義で食べ歩く機会は、せいぜい阿里山への乗り換えのついで程度だろう。普通に歩ける人なら、駅からの往復と食事時間を合わせて一時間あれば足りるはず。
 一応は噴水広場も通るし、ちょっと嘉義を歩いた気分にはなれる。まぁ今回の我々も、嘉義に泊まったけど似たようなものだった。

2010/11/21

噴水雞肉飯(嘉義・噴水前)

噴水雞肉飯
 今回の旅では嘉義に二度立ち寄った。とはいえ、あくまで他に移動する中継地として寄っただけなので、事前の調べも交通と宿泊関係以外ほとんどしていなかった。
 そんなわけで5月5日の夜、ホテルにチェックインの後に出掛けたのが、雞肉飯の店である。嘉義といえば雞肉飯。そして嘉義の雞肉飯といえば噴水だ、という知識は存在した(台南でも台北でも、雞肉飯の店はたいてい嘉義を名告る)。

噴水雞肉飯
 嘉義駅から斜めにのびる中山路を歩くと、やがて噴水のある円環に着く。そこにある店が噴水雞肉飯である。実際にはチェーン店なので、市内のあちこちに店はあるようだが、店名の由来となった店舗はここだ。
 駅からは、歩いて十五分もあれば着くはず。

噴水雞肉飯
 店内は細長く、奥行きがあった。
 ここは空いている席に座って、壁に貼られたメニューから頼む形式。メモって渡すのが無難だ。

噴水雞肉飯
 まずは当然の雞肉飯(雞絲飯)40元。
 感動するほどの味ではないが、嘉義の味だなぁと思いつつ食べた。

噴水雞肉飯紅糟肉
 紅糟肉60元。文字通り、紅糟に漬けた豚肉を揚げたもの。これはうまい。奪い合いになるほどにうまい。オススメだ。

噴水雞肉飯苦瓜湯
 苦瓜湯20元。この旅では二度目の苦瓜湯。もちろん苦い。そしてここでも、あまりあっさりとはしていない。
 鶏ガラスープにせよ豚の排骨スープにせよ、案外油っぽいものだ。

噴水雞肉飯筍絲湯
 こちらは筍絲湯20元。メンマが入っている。

 総じて評価をすれば、リピートしたいほどの店ではない。全体的に油っぽいし、あらゆる料理が鶏肉というのは飽きる。
 もちろん、さっと立ち寄って雞肉飯を食べるだけなら、それで十分だとは思う。いくつか巡る中の一店として考えるのが無難だろう。

 なお、ここより評判が良さそうな店に、翌日食べに出掛けたゾ。結論からいえば、そちらの方がうまかった。近々記事にする予定なので、例によって刮目して待っておくれやす。

再び嘉義へ

台鐵自強號
 18時台の嘉義方面自強號は、ほどほどの着席率。
 全席指定だが、乗車直前でも窓口で問題なく買えた。台南-嘉義という短距離だからというのもあったはず。
 通過する駅構内などを眺めていると、高鐵よりは遙かに楽しい。貨物の側線も目にとまる。日本の旧国鉄みたいな雰囲気だ。旧国鉄といえば、駅員の愛想が強烈に悪かった記憶も同時に思い出すのだが。

台鐵嘉義駅
 普段の我々の生活感に即していえば、台南-嘉義は、京都市内から京阪で大阪に行くぐらいの距離だ。ということは嘉義・台南・高雄が京都・大阪・神戸みたいなものか。
 京都から神戸に行くのは軽い旅行といってイイが、実はderorenは以前それぐらいの距離を通勤していた。正直、一度辞めてしまうと気持ちが切れるので、また通えと言われても躊躇するだろう。

 余談ばかりになった。左に写ってる列車に乗っていたので、いつ到着したか分かるだろう。

台鐵嘉義駅
 到着ホームの上屋はどうってことないが、駅舎側ホームはここも廃レールのアーチである。

台鐵嘉義駅
 長距離バスのターミナル越しに嘉義駅を見る。
 人口30万近い都市なのに、寂れた地方都市の駅とあまり変わらない。日本ならば、最低でも橋上駅舎にショッピングモールぐらいは造るだろう。まぁ台北駅はそうなったのだから、今後は変わっていくのだろうか。
 とりあえず、歩行者に不便な地下道をどうにかして欲しいなぁ。

2010/08/29

湯の香恋しい台鐵慕情

台鐵EMU700
 タイトルに深い意味はない。こないだ、近所のスーパーでやってた飛騨高山の物産展で、久々に竜鉄也の歌を聴いた。まだ流してるのかと思った。それだけだ。

 そんなわけで、これがボクラの乗った汽車だよ。

台鐵E1000
 うそうそ。こっちだ。
 最初の電車はどう見ても通勤形である(食パン電車みたいだ)。ついでに言うと、台湾で汽車は自動車のことである。

 まぁしかし、これはこれで流線型だけどかっこ悪いよね。台湾のマニアは豚って呼ぶらしい。狗が去って豬が来た?
※ボケてない写真は後日掲載。別にいらないか。


 座席はリクライニングシート。特急いなほみたいな、なんちゃってリクライニング(ビヨンとはね返るヤツ)じゃないよ。だから乗り心地は決して悪くないよ。
 たかが40分には勿体ない……と言いたいところだが、それを言ったら南海ラピートはもっと勿体ない(実際、乗るのをやめてしまったけどね)。


 シートの背には広告だ。チーリンさんかと思ったが別人だった。
 私はこういう感じの顔はとりあえずチーリンと認識するようだ(ちなみにderorenは人の顔を覚えられないことで有名だ)。


 台南までは40分ほど。途中で新営に停車する。真っ暗なので車窓を眺めても何も見えなかった(駅を通過する際に写真を撮ろうと思ったが出来ず)。
 それにしても、プッシュプル方式の特急は、やはり加減速の性能に難がある。しかも、駅を通過するたびに減速する。まるで羽越本線の特急いなほのように(30年来変化なしってどうなのよ)。
 我々は短距離しか乗らないのでまだ我慢出来るが、台北からこの調子ではかなわんなぁ、と思う。逆にいえば、まだまだスピードアップの余地はあるはず。嘉義と台南は、頑張れば20分ぐらいで結べそうだ。

 ともあれ我々は、昨夏以来の台南に到着した。台鐵台南駅での下車は初体験だが、期せずして三度とも、真っ暗な夜の街に舞い降りてしまった。
 ここから首相大飯店まで、10分ほど歩いた。チェックインは22:05頃。嘉義駅発車からちょうど一時間でホテルに着いたことになる。
 疲れたと同時に埃まみれの我々は、すぐにシャワーを浴びてさっさと眠りについたわけであった。

2010/08/28

嘉義へ

嘉義客運北港バスターミナル
 嘉義客運の北港バスターミナルに到着したのは19:45過ぎ。次のバスは20:00なので、飲み物を調達したりトイレに入ったりして時を過ごす。
 ちなみに、この時間でもちゃんと窓口が開いていて、バスチケットを購入できる。客層はおばちゃんから学生まで幅広い。今日は年に数日の特別な日だけれど、待合室の空気はまるでいつもと同じ、という感じだった。
 すぐ前の通りを、この瞬間にも賑やかな行列が通り過ぎているというのに。

 バスの車内写真はない。暗いし撮りようがなかった。

 定刻通りに発車したバスは、ほとんど乗車も下車もないまま飛ばしていく。
 我々は…といえば、全く地理感覚がないhashiは珍珠奶茶を飲み、それなりに地図を頭に叩き込んでいるderorenは、今どの辺りなのかと窓の外を眺めて過ごす。
 案内音声の流れないバスは、近距離の生活路線なのに高速バスみたいだ。乗り心地はだいぶアレだけどね。

嘉義客運嘉義バスターミナル
 嘉義のターミナルに着く。約45分ほどかかった。
 実は駅前でバスが停まったので、そこで降りれば良かったのだが、あまりに不意の停車だったので、そのまま乗り過ごしてしまった。まぁ一応、見ておきたいものもあるから良かったんだが。
 写真が我々の乗ったバスだ。
 手前の柱の落書きが気になるなぁ。日本にはないものだ。

嘉義市内
 ともかく、僅かながら嘉義市内を歩く。駅までは直線距離なら五分とかからない。ただし駅前は歩行者にやさしくない設計なので、もう少し時間がかかるだろう。
 写真の中央奥に、五日夜に宿泊予定の皇爵大飯店が見える。とりあえずその位置関係だけ把握した。

嘉義駅前地下通路
 嘉義駅前は地下通路を通らないと渡れない。ぐったり疲れた身に、この地下道はこたえた。
 何がパアラダイスだ。なぁ。

嘉義駅改札
 台鐵嘉義駅に着く。改札の雰囲気は日本の地方都市と大差ないが、駅舎はここも天井が高くて古めかしい(駅についてはたぶん別記事で書く)。
 窓口で21:05発の自強号を無事に購入して、ホームに立つ。実は台鐵初乗車。ちょっとドキドキだぜ。

2010/07/10

嘉義客運バスで北港鎮へ

嘉義客運バス
 高鐵嘉義駅は嘉義県太保市。対して雲林県北港鎮なので、たいした距離でもないけど県境を越えることになる。
 高鐵駅からのバスは嘉義客運のみ(台鐵嘉義からは嘉義縣公車もある)。この路線は一応BRTに準じた扱いらしい。ただし実態は普通のバス路線である。

 写真は高鐵嘉義駅のバス乗り場にて。それなりに新しそうに見えるが、中はどうかなぁ……という感じ。バス車両は詳しくないので、どこの製造かは分からない。
 なお、手前に写っているオッサンはバスの運転手。非常に暇そうだった。まぁそれも当然だろうが。

嘉義客運バス
 バス内部。かなり窮屈な印象を受ける。

嘉義客運バス
 前面はこんな感じ。運賃は乗車時に払う。ダイヤや運賃などは、ここで確認すること。我々は45元で乗車した。
 お金を料金箱に入れて、ペラペラのチケットをもらう。これは単なる領収書ではなく、下車時に必要なので注意。まぁ台湾では一般的な方式だけどね。

嘉義太保新舊埤保安宮
 そんなわけで、バスは我々二人だけを乗せて出発した。
 しばらくは高鐵に沿って新設された道を進むので、スピードはかなりなもの。バス停の案内音声はなく、途中の乗降客もない。揺れの激しいバスで、エンジン音とともに車内のあちこちががたつく音を聴く旅である。
 ……実は、車内で動画を撮影した。5分にわたるフルHD動画で、ファイルサイズも2ギガ。最後はカードへの転送速度が追いつかずに切れている(動画撮影中にシャッターも押せるのだが、そのせいで間に合わなくなった)。
 youtubeにでもあげようかと思ったが、帰国後に見たらあまりにあまりな動画だったのでやめた。バスの走行音マニアぐらいしか需要なさそう。

 さて、写真の廟はバスの窓から望遠で撮ったもの。帰国後に調べたら、嘉義太保新舊埤保安宮らしい。この保安宮は保生大帝を祀るので、台北と同じ系統のようだ。


 これもバスの窓から撮った。いかにも南国という感じで、ピントがあっていれば良い写真だったけどなぁ。
 この廟が何者かは不明。保安宮はその名の門額が読み取れたからいいけど、これは無理だ。

 なお、2009年夏の旅行では、新幹線の窓から廟を撮るという荒業にも挑戦して、けっこうな数を成功しているが、当ブログでは未公開となっている。
 移動中に廟を見つけて、見事に撮影成功……というのは、暇な車内における一種の娯楽である。しかし撮影したものを紹介しようとすると、撮った廟の特定が著しく困難なのだ。まぁそんな写真を見たい人もいないだろうと思われるので、永遠に未公開の予定。

台湾高速鐵道嘉義駅

台湾高速鐵道嘉義駅
 derorenは中途半端に鉄道好きなので、「鉄道・バス」なんてカテゴリーも設けている。残念ながらhashiには「無駄な記事」だと曰われてしまったが、どうせ俺の個人ブログなのである。興味がなければ読まなければ良いのである。
 ネット資源の無駄使いという意味では、世の大半のブログなんてそんなものだろう?

 上は高鐵嘉義駅の駅舎。北港行のバス乗り場から撮影している。
 私はこういう建物は嫌いである。

台湾高速鐵道嘉義駅
 切符売り場。右側に自動券売機が並ぶ。平日の昼だし、嘉義駅は高鐵の中でも乗降客の少ない駅だから、人はまばらだ(もっとも、増加率は一番らしいが)。
 切符の購入は、すべてしゃべって済まそうとすると、意外に難しいものである。そう思うので、我々(買うのはderoren)は券売機を使う。クレジットカードで簡単に買える(暗証番号を覚えてない人はダメ)。

台湾高速鐵道嘉義駅
 改札。写っているのは我々ではないので念のため。この写真だけ別の日のものだが、たぶん読者が知ってもあまり価値はない。
 以前にも書いたが、切符の裏表の分かりにくさはどうにかして欲しい。

台湾高速鐵道嘉義駅
 下り線ホーム。架線柱で通過線の存在が分かるだろう。
 台南もそうだが、見晴らしだけは良い。周りに何もないからねぇ。嘉義は台南に輪をかけて何もないからねぇ(嘉義市街は遙か東方)。

台湾高速鐵道嘉義駅
 そんなわけで、最早見慣れた感のある700T。本家はN700の時代になってしまったし、新型車両を期待したいところだ。
 まだ開業4年しか経ってない上に、金がない上に円高だから、実際にはだいぶ先になるんでしょうな。

嘉義BRT乗り場
 最後に高鐵嘉義駅の特徴といえる、BRTの乗り場を紹介。どう見てもただのバス乗り場で、ここに発着するのもただのバスだ。しかしこのバス路線は、台北や高雄のMRT(捷運)に対して、BRTと名づけられている。
 BRTは、専用レーンなどを設けて定時性や速達性を確保したバス輸送である。日本でも導入するだのしないだのという話があるようだ。台湾高鐵は、空白地帯に駅を作って開発する方法をとっているので、必ず道路も新設しなければならない。その意味ではBRTが導入しやすいのは確かなのだろう。

 でもなぁ…。もうちょっと人家に近い場所に駅を作っていれば、利用客数はかなり違っていたのではないかと思う。
 駅の周囲にあるのは立体駐車場だけで、他は何一つ建ってない。タクシーの運将が「アーリーサン?」って叫んでるだけだ。