2012/03/29

成功大学(一) 黄檗寺跡の旧台南衛戍病院など

成功大学
 台南公園をあとにした我々は、小東路で線路をくぐり、東区方面に向かう。四度目の台南で、初めて歩くエリアである。
 そのまま小東路を進めば、成功大学キャンパスに突入。南側は光復校区、北側は力行校区と呼ばれている。ちなみに、カ行じゃないぜ(ブラウザでは識別が難しいよね)。

 この力行校区には、日本時代の建物が残っている。それが写真の旧台南衛戍病院だ。

成功大学
 台南衛戍病院とは、日本軍の医療施設である。当初は赤嵌楼の建物を使っていたらしいが、1917年(台南公園と同じ年)に、ここに移転した。
 すぐ南の光復校区は、日本陸軍の歩兵第二聯隊であり、その軍医がここで務めていた。
 ちなみに、国民党政権下でも、ここは民国軍の病院として利用された。その後、成功大学のキャンパスに組み込まれたが、今もここは医学部系のキャンパスである。

 ところで、王浩一編著『在廟口説書』(2010.9修訂版、心霊工坊)によれば、台鐵線路付近からこの辺は、かつて存在した黄檗寺の跡地らしい。
 黄檗寺は、天壇(三)の武聖殿の記事で取り上げた廃絶寺院。『在廟口説書』は現存する寺廟の由来を読み物にしたものだが、なぜか黄檗寺の項が設けられており、「天地会的秘密基地」と面白おかしく書かれてある。

 天地会といえば、金庸『鹿鼎記』でも知られる反清復明の秘密結社だ。『鹿鼎記』の話を真に受けられても困るが。
 まぁそれはともかく、鄭氏政権の滅亡後、天地会はそれまで以上に地下に潜った。そんな残党の根拠地の一つが黄檗寺で、大量の軍資金が隠されていたという。
 やがて1786年(乾隆51年)に林爽文らが反乱を起こすと、当然この寺も呼応を求められた。しかし住職の不慧大師は、清朝側の知府(府知事)蔣元樞と親交があったため、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出し、自身は捕えられた。
 不慧大師は結局、北京に送られて死罪。黄檗寺は荒れ果て、最終的には日本陸軍の軍用地として完全に破壊された。関帝像のみが天壇に移され、武聖殿として現存する。

 正直言って、そんな歴史の舞台としてここを眺めるのは難しい。往時の面影のかけらもないし、足元は学生のバイクだらけで風情もないし。

成功大学
 力行校区と勝利路を挟んで東側に広がるエリアは、成杏校区。成功大学の附設医院が、両校区にまたがって建てられている。
 当たり前のように学生だらけのキャンパスにおいて、ここだけは老人比率が高かった。まぁ日本の大学附属病院と何ら変わらないので、あまり説明する必要もないだろう。

成功大学
 附設医院前のオブジェ。
 成功大学は古めかしい建物だけのキャンパスじゃないよ、ということで。


 残念ながら、成功大学は予定の半分もまわれなかった。炎天下をtomopeeと一緒に巡る場合、移動距離の長い場所は難しい。教訓にもならないけど。
 まぁともかく、行けた範囲の紹介はしておく。その(二)は光復キャンパス編。

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