2012/05/27

台南神学院

台南神学院
 彌陀寺から側道を進むこと数十秒で、台南神学院に着く。案内板もあるし、通りに面した建物には、大きく「台南神學院」と書かれているから、見落とすことはないだろう。
 ただし、通りに面しているのは鉄筋コンクリートのありふれた建物で、知らなければ確実に通過するはず。というか、入っていいのかと躊躇するはずだ。

 本当に入っていいのかと聞かれれば、ここは学校なのだからどうだろうという部分もある。まぁその辺は深く考えずにズンズン歩いていくと、いきなりこんな景色が広がる。

 台南神学院は、長老教会の宣教師養成学校で、その始まりは1876年と伝えられる。関わったのは巴克禮で、独立した校舎ができたのは1870年である。当初は台南大学(府城大学?)とか名乗ったらしく、すぐに台南神学校となった。
 日本統治時期、長老教会の勢力が拡大すると、神学校の規模もあわせて拡大した。そこで1903年に建てられた校舎が、写真に見えるものだという。

 ちなみに、この写真は裏側なのだが、表側は撮影していない。tomopeeがいろいろ大変で、ガイドブックを確認する暇がなかったこともあり、肝心な箇所を多数見落としている。
 もっとも、授業中の校庭をうろうろすることに気がひけたのも、また事実である。

台南神学院
 ここは三つの建物が組み合わさり、中庭が造られている。三合院だ。
 長老教会系の学校では、他にもこんな感じで三合院的な配置の例があるようだ。まぁ中庭は日本の学校でもよくあるけど、日本では四方を囲んでしまったりするよね。あとは、三方にあるにはあるけど、うち一方は単なる渡り廊下とか。

台南神学院
 中央の建物。ここは特に古蹟扱いされていないが、中洋折衷の意匠をヤシの木が目隠ししていて、なかなかの雰囲気。

台南神学院
 三方の最後の一つは、礼拝堂。中庭側からは、特にそれとも見えないが、これは裏口なので仕方がない。
 向かい合う校舎と並んで、ここは古蹟指定されている。ただし建築は1950年代で、比較的新しい。

 ちなみに台南神学校は、第二次世界大戦が激化すると、いったん閉鎖を余儀なくされた。台湾人を戦争に狩り出すための皇民化教育の邪魔だからである。
 そして日本が負けた後、台南神学院と名を改めて再興された。

台南神学院
 礼拝堂を横から見る。ぐっと礼拝堂っぽい。本当は表側も見なきゃいけないのだが、そこは余所様の写真でも見て我慢していただきたい。

羊蹄甲
 そばで咲いていたフイリソシンカ。
 前日ほどではないが、外は暑い。

tomopee
 中庭付近にはちょっとした木陰があって、石造りのテーブルと椅子も用意されている。とりあえずそこで彼にバナナ(龍山寺でもらったもの)を食べさせたり、お茶を飲ませたりした。
 しかしまぁ、いずれにせよそろそろ限界のようで、derorenの亡き祖母のような顔で、彼は泣き続けた。
 通りがかりの人に、蚊に刺されたのではないかと心配されるほどだった(幸い、台南では蚊に刺されていない)。
 

 バナナをあげたのは、休憩してもう少し頑張ってもらうためだったが、結局はあきらめ、ここでタクシーを拾った。hashiとtomopeeはこれにてホテル帰還だ。
 ここからはderorenの単独行動。終わりそうで終わらない19日午前の日記は、もう少し続く。

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