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2012/12/09

台南歴史年表(その1)

 台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
 電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。



1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
 オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)

 原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
 支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。

 17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
 1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
 澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。

 余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
 もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。


1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
 鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。

 北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
 鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
 なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。

 鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
 陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
 この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。

 鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
 この後、鄭経鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
 既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。

 鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
 この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)孔子廟などである。

 史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
 清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
 ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。

1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
 清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。

 清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
 なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。

 清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
 しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
 この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
 移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。

2012/09/05

海山館(二) 三合院と劔獅

海山館
 いよいよ海山館の内部へ。典型的な三合院建築だ。
 否応なしに目にとまる劔獅は、改修前の写真にもうつっているもの。もちろん描き直しただろうが。

海山館
 もうちょい近くに寄ってみる。
 その(一)でも触れたが、劔獅は屋敷内に異物が侵入するのを防ぐ存在なので、武装している。口にくわえた劔だけでなく、上部にも物騒な刃物を並べてある。まさに、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈遅れを取る可んや、である(柳生一族の陰謀だ)。

海山館
 裏はこうなっている。三十六天罡七十二地煞とあるのは、平たくいえば天地を守る神々のこと。とりあえずここを読むのが良さそう。
 まぁしかし、上のリンクの台湾大百科全書も触れるように、結局は『水滸伝』なのよね。あれは小説じゃなくて、リアルな信仰の世界だから。

海山館
 中に入ってみる。まずは正面。
 ここは基本的に礼拝所みたいなスペースになるが、神様の代わりにモニターが備え付けてある。何にせよゆるキャラだ。

海山館
 天井の様子。
 手前左右のレフ板みたいなのは、とりあえず装飾のようだ。日月?

海山館
 正面の部屋の背後のスペースには、こんな椅子があった。
 目の前でカップルが座って記念写真を撮っていたが、何となくピンとこなかったので、我々は座っただけ。

海山館
 そこから裏口に抜けることができる。こちらは行き止まりだが、反対側には扉がついている。まぁ観光客的にはあまり意味のない情報だ。
 とりあえず、窓の上の装飾が面白い。

海山館
 さて、三合院の左右それぞれの部屋は、やはり展示スペースとして使われている。
 こういう立派な三合院を無料で見学できるのは素晴らしい。展示品にはいろいろ言いたいこともあるけど、その辺は目をつぶろうではないか。

海山館
 この左右の部屋には、今で言うロフトのような設備もある。すごく狭いので、寝床にするにはどうかなぁ…とも思うけど、世の中には押し入れで寝るような酔狂な人だっているという噂だから、これはこれでアリかな。
 まさか女中部屋ってわけでもないだろうし。


 そんなわけで、まだ続く。たいして中身はないのだが、安平的な三合院というレアな物件だけに、細かく紹介したくなってしまった。

2012/09/04

海山館(一) 修復が終わった外観

海山館
 安平に残る清朝時代の遺蹟の一つ、海山館。
 以前に訪問した時は、修復工事のため外観しか覗けなかった(その時の記事はこちら)が、再公開という情報を聞いたので、出掛けてみる。

海山館
 緑釉花磚窗(窓)は変化がないが、他は塗り直されて鮮やかになった。

海山館
 正面に向かう。ここは道が狭いので、全体を写真に撮るのは難しい。まぁ、何だか安っぽいボードが置かれているのは分かるだろう。

海山館
 安平でも著名な劔獅の一つ。
 ちなみに、海山館は二つの建物が並ぶ構造で、門も二つある。劔獅はこちらにしかないが、中央の門にあたるのはもう一つの方である。

海山館
 そのもう一つの門がこちら。門自体はこちらの方がカッコイイ。

 劔獅は門を入った先で睨みをきかせている。要するに、門を入ってきた悪鬼の類を追い返すわけである。
 門の先を塞ぐように壁が造られる例は、沖縄でもよく見る。悪鬼の類は直進しかできないとされているから、壁ではね返すのだ。平安京の方違えなんかも、そういう発想から来ていることは、読者の皆さんもご存じかも知れない。

海山館
 で、ここにもいろいろ置かれてあった。
 せっかく清朝の古建築を修復したのに、余計なもので隠さなくともいいのでは……とderorenは思う。まぁしかし、デフォルメキャラで売り出さないと、今どきのナウでヤングな若者にはうけないという認識なのだろう。
 このノリは内部にも及んでいるので、修復部分と合わせて(二)で紹介する。

2012/08/01

安平樹屋 再訪

安平樹屋
 およそ3年振りの訪問となった安平樹屋。もちろんtomopeeは初訪問だ。
 今さら断わるまでもなく、1歳のtomopeeがこうして旅した記憶は、残りはしないだろう。しかし異国での様々な刺激が、彼の心の発達に何らかの影響は与えてくれたはずだ……と思うがどうだろう。

 安平樹屋の概要は、以前の記事に書いたのでそちらを参照願いたい。
 ここはイギリスの商社、徳記洋行の跡地である。白亜のコロニアル建築も残っていて、そちらも展示スペースとなっているが、正直海外から訪問するような内容ではない。
 現在のメイン展示は安平樹屋、つまり商社の倉庫群である。

 ここは有料施設で、大人は一人50元を払う。
 そこから進んだ先の建物は、上の写真のように休憩スペースとなっている。売店もあり、台南土産はある程度揃っている。飲み物もある。トイレもある。
 エアコンの効いたスペースは、赤子連れにとっては貴重だ。その気になれば、おむつ交換も出来るよ。

安平樹屋
 tomopeeもひとまず涼んでいる。この間に、hashiがお土産を買っていた。台湾にしては高めの玉井干しマンゴーや、樹屋の絵はがきなどを購入したと思われる(さすがにすべては把握していない)。
 一通り買い物を済ませた後に、探険に出発だ。ベビーカーは売店のお姉さん(恐らく)に預けた。普通は入場券売り場の方がいいと思うぜ。

安平樹屋
 外に出ると、3年前とほぼ変わらない景色だ。
 ちなみにこの先は、写真のように一部は木道になっているけれど、概ね地面を歩く。上から見下ろせるようにもなっていて、そこは階段ののぼりおりがある。ベビーカーでは難しいので、受付か売店に預けよう。

安平樹屋
 骨組となった倉庫に幹が絡み付き、気根が垂れ下がる。これが安平樹屋の基本である。

安平樹屋
 朽ちていない倉庫も一部にある。使用時期などの差もあろう。
 ちなみに徳記洋行は現存する企業だったりする。ただし安平での営業は、日本統治時代に終了。ここの建物は製塩会社の手に渡り、そのまま戦後は台塩の所有となった。

 安平を去った理由は、新支配者の日本が、貿易収入を得るために圧迫を加えたからである。徳記洋行自体が東インド会社の傘下にあった以上、追い出されるのは当然であったろう。
 もちろん安平港が土砂で埋まって、使い物にならなくなったことも大きい。製塩会社が持て余した理由は、そちらが主要因かもしれない。

安平樹屋
 骨組だけになった側。
 補強はしてあるけど、ガジュマルは今も生きているので、いずれは敗北するだろう。ガジュマルはそういう生き物なのだから仕方がない。

安平樹屋
 壁を覆い尽くす。

安平樹屋
 上から見る景色もなかなかいい。
 というか、下は廃墟となった倉庫なので、基本的には暗い。それに対して、開放感があってとても良い。

安平樹屋
 見上げると、こんな感じで幹が絡まっている。いい景色でしょ。

安平樹屋
 煉瓦の壁にはり付く幹。
 ただはり付いているわけではないぞ。

安平樹屋
 見所の一つがこれだ。壁を突き抜けてのびている。細いうちにすき間を通れば、やがてこうなって、将来は壁を破壊するわけだ。

安平樹屋
 tomopeeは何を思ったのか。両親は未だに彼のおしゃべりを解読できないので、詳細は不明である(だいぶ日本語っぽくなってきたけど)。
 将来、何かの間違いで某ジ●リの映画でも観た時に、この記憶が蘇ったりするだろうか。「ぬぅ、初めて見た気がしないなぁ」とか。


 その後、資料館となっている建物内も一応は見物して、何となく記念写真を撮ったりした。
 安平古堡からここまでは徒歩5分程度。途中の道は日陰がなく、5分とはいえ嫌になるけど、安平でタクシーをつかまえるのは難しいので、歩くしかない。
 でもまぁ、歩いただけの価値はある。子どもの教育にもいいと思う。たぶん。


より大きな地図で derorenのホ~ムペ~ジ を表示

2012/07/03

tomopeeの安平古堡

安平古堡
 いよいよ台南最終日。この日はとりあえず、チェックアウト前に安平散策という予定だけ立てていた。11時半に首相大飯店に戻ってチェックアウト、その後は夕方まで荷物を預ってもらい、どこかを歩く予定だ。

 ホテルからタクシーで向かったのは、泣く子も黙る(黙らないけど)安平古堡。
 安平は初回と二度目の旅でくまなく巡っているが、まだ一部未踏の地を残している。ついでに、初安平のtomopeeに定番を味わってもらわねばなるまい。そんな感じでやってきたぜ。
 ちなみに、ここでも受付でベビーカーを預ってもらった。車に乗せるのは無理な場所なので、だっこひも持参が無難。
 三月の台南では、さすがのプルメリアも咲いていない。珍しく季節を感じる絵になっている。

安平古堡
 とりあえず、元ハマダ何とかな碑で記念撮影。
 この写真では、どこにいるのかすら分からない。典型的な失敗例である。tomopeeの表情も沈みがちだ。

安平古堡
 これでどうだっ!
 古堡の古堡たるゆえんは、このオランダ時代の城壁にあるのだから、ここで撮影しなければね。tomopeeはよそ見してるけどね。

安平古堡
 軍装局の碑の前で。なんでこんな所で……と思うだろうが、ここはtomopeeが座れる貴重な場所なのだ。ご機嫌で手を叩いているぞ。

安平古堡
 最後は珍しくderorenと。鄭成功が城壁をくり抜かせたという場所で撮っているが、案内板だけで、肝心の穴がよく分からなくなっている。ちなみに、tomopeeの左側、単なる壁の切れ目みたいな場所が、くり抜かれた箇所だ。


 安平古堡については、過去の記事で詳しく書いたので、日本語ガイドブックで読める程度の紹介は、そちらを見てもらいたい
 もちろん、せっかく来たのに記念写真ばかり、というわけでもない。過去の記事で紹介していない細かい見所は、次の記事で紹介予定。
 ただし、ちょっとこのところ忙しいので、次がいつになるかは不明。ご容赦くだされ。

2012/06/12

久々の赤嵌楼

赤嵌楼
 初回の旅で訪問して以来の赤嵌楼。寺廟と違って、中で何かが行われているわけではないから、何度も見学する必要性は感じなかったが、tomopeeは初台南だし、西華堂の尼さんに推薦されたし、せっかくだからと再訪。
 
赤嵌楼
 なお、ここの表記は赤嵌楼と赤崁楼の二種あるが、上の額に従って前者に統一しておく。
 日本語フォントで「崁」は使いづらいし、そもそもこだわって使い分けているとも思えないので。

※元々は、この地に住んでいた原住民の集落チイカムが語源。漢字では赤崁社と表記されていた。建物が赤いのは無関係でござる。

赤嵌楼
 膝をついて助けを乞う像を造って、オランダに抗議されたいわく付きのヤツだ。まぁ正直言って、わざわざ造る必要があったのか疑問。

 改めて訪問して気付いたが、ここの周囲はコノテガシワ(龍柏)だらけだ。
 この木は台湾自生ではなく、国民党が持ち込んだと『福爾摩沙植物記』にある。王の象徴である「龍」の名を持つコノテガシワを、国民党政権は要所要所に植えた(故宮博物院の周囲とか)。それは要するに、中国の正統な王は自分だという意思表示なのだ……と。
 鄭成功の大陸反抗を、国民党政権が利用したのは周知の通り。なるほどなぁ、と思う景色である。

赤嵌楼
 tomopeeはhashiがだっこひもで抱えて見学。ベビーカーは受付に預けた。台南の有料観光施設(他に孔子廟、安平古堡、安平樹屋、億載金城)なら、だいたい可能ではないかと思う。言葉がしゃべれなくとも、たたんだベビーカーを見せれば意志は通じる。

赤嵌楼
 文昌殿の魁星爺。まだお願いする年齢とは思えないが、一応tomopeeの今後などを願っておく。ついでに両親の頭の方も……。

 さすが赤嵌楼だけあって、ここでは何組もの日本人観光客を見かけた。その一組に、魁星爺をえらそうに説明したのは、他でもないderorenである。
 まぁしかし、自分たちが台南の人々に親切にされているから、自分も少しは貢献したいと思ったのは事実。京都でも、外国人観光客を見かけると声を掛けたくなってしまう。道案内と記念写真ぐらいなら、語学さっぱりなderorenにだってできるのだ。

赤嵌楼
 奥まった場所にある城壁址。オランダ時代を偲ぶならば、ここに来ないと値打ちがない。

赤嵌楼
 手をパチパチ叩いて、赤嵌楼に来た喜びをあらわすtomopee。まぁ叩いた理由は定かでないが、まだ言葉のしゃべれないtomopeeは、台南の人々にこうやって意思表示を続けていた。そしてderorenとhashiは、そんな息子をkawaiiと褒め続けていた。
 思い返しても、途方もない親バカだ。しかし我々は、全く後悔していないぜ。

2012/04/08

武聖夜市(二) 大阪も神戸もあった

武聖夜市
 初めて訪問した武聖夜市。花園夜市と比べると、牛排の店が少ない。
 なんじゃそら……と思うかも知れないが、牛排の店は広い客席スペースを必要とする。つまりそれだけ、武聖は狭いのではないかと思った。じゅうぶん賑わってるけどね。

武聖夜市
 幟が立ち並ぶ光景は、台南の夜市ではおなじみ。
 夜市未体験の諸君には、なるべく手ぶらに近い状態が望ましいと言っておこう。それと、財布にはチェーンぐらい付けておくべし。100円ショップのチェーンでも十分役に立つ。

武聖夜市
 hashiは滷味に興味があったので、こちらを買った。鴨舌だ。けっこう高かった記憶があるが、正確な値段は忘れた。
 ホテルで食べてみたら、かなりの激辛。酒のアテにはいいと思うが、我々は酒を飲んでいないぜ。

武聖夜市
 臭豆腐も忘れてはならない。
 何軒かあったけど、最初に見つけた店で食べることに。

武聖夜市
 七名で行動中だったから、外帯にした。しかし皆さんに「冷めると不味い」と忠告をいただいたので、急遽その場で食べることになった。快く応じてくれた老板に感謝。

 臭豆腐は安定のうまさ。揚げたものをクサイとか言うヤツの気が知れない。
 ああしかし、なぜ日本ではうまい臭豆腐が食えないのか。嘆かわしいことである。

武聖夜市
 ニョロニョロのソフトもあったので、最後に購入。ソフトクリームとしては大してうまくないが、やはり見た目のインパクトで外せない。安いし(30元)。
 もちろん、あっという間に溶けるのでご注意。さすがに夜の街は過ごしやすい気温だけど。

 この他に、水果店でイチゴを買った。それはtomopeeが食べる様子を皆さんに見せるためであった。
 tomopeeはイチゴが大好きなのだが、一口かじると酸っぱさに顔をしかめるのだ。その顔が、顔藝と言いたくなる面白さなので、見てもらったのだ。ああ親バカ。


武聖夜市
 ここから下は、まぁ「武聖夜市の日本」という感じで。
 写真は、怪しい日本語ではなく、ファッション日本語系と思われる茶々町。本当に日本語なら「ちゃちゃまち」が自然だし、淀殿のイラストぐらい欲しい。どうでもいいんだろうけどね。

武聖夜市
 寿司屋は、気がついた限りで三軒もあった。写真の次郎寿司、伊豆讃、そして花園夜市でも見かけた一路寿司(ひじろすし)。
 食中毒が怖いので、台南に移住しない限り、我々が食べることはない(別に屋台だからではなく、我々は生魚そのものを避けている)。しかし、日本食の代表選手が一定の地位を確保していることは素直に讃えよう。

武聖夜市
 さぁ大阪城だ。たこ焼き屋が大阪と名乗るのは、まぁ分からなくもない。

武聖夜市
 問題はこちら。ご丁寧にSmall Kobeとあるから、間違いなく某神戸市である。
 神戸牛の連想で命名するのはどうでもいいけど、「小」は何だよと思う。牛排の肉がペラッペラという自虐だったりするのかねぇ。
 ……台湾初心者向けに一応断わっておくと、日本の牛肉を使っている可能性はない。さすがに想像つくか。


 初台南の観光客にとっては、花園・武聖・小北成功、そして大東の四大夜市のどこだろうと、だいたい同じぐらいには楽しめるはず。行きやすい場所に行けばいいと思う。
 ただし土曜の花園・武聖は、どちらにせよタクシーに乗るだろうから、判断が難しい。ありきたりな言い方だけど、食べ物中心にまわるなら花園、衣料品やレジャーにも関心があるなら武聖かな。
 初台南ならやはり花園が無難か。ニョロニョロのソフトは見かけなかったけど。


 そんなわけで夜市を満喫し、ホテルまで車で送っていただいた。
 楽しい体験をさせてくれた皆さんに、あらためて感謝。とりあえず、日本語ブログで台南を宣伝することで、厚意に応えていきたい。

2012/04/07

武聖夜市(一) 伝統の夜市はどこか違う

武聖夜市
 我々三名と狐狸氏ら台南の友人三名の計六名で夕食後、もう一人の友人(当ブログにコメントいただいたし、隠す必要はないかもしれない)が合流。
 その方の車で向かった先は、武聖夜市である。

 台南の夜市初心者向けにおさらいしておこう。
 台南の夜市は、広大な空き地(専用の土地)に屋台が並ぶ形であり、それぞれ営業日が決まっている。武聖夜市は水曜と土曜のみの営業。営業日の詳細は当ブログの「台南旅行者向け情報」に書いてあるので参考にしておくれやす。

 さて、土曜に開催される大きな夜市は、花園夜市と武聖夜市だ。花園夜市には2度行っているし、どうしても行きたければ日曜夜もある。対して武聖夜市には、前回の旅で曜日を間違えて行けなかった苦い思い出があった(代わりに小北成功夜市に行ったけど)。
 なので、ここに行かないかとお誘いを受けて、我々は二つ返事でOKしたのである。

武聖夜市
 もちろん、夜市を歩く上でネックとなるのは、tomopeeの存在だ。人をかき分けて歩かなければならない通路で、ベビーカーは使えない。おぶって歩くにせよ、何かと不安である。
 その意味では、7人の集団で動けたことは幸いだった。何人もの目がtomopeeに向くし、だいいち言葉の心配がないから、突発的な事態にも対処できる。

 tomopeeの存在は、夜市巡りそのものにも影響を与えた。
 やはり子ども関係の店には関心を持たざるを得ない。正直言って、以前は食べ物以外に興味はなかった。しかし上の写真のようなパフォーマンスが気になってしまうのだ。
 ちなみに上のパフォーマンスは、「脳力開発文具組」とあるように、知育の文具の実演販売だ。じゃばらのようなペンで、イラストが描けちゃうらしい。魚河岸のような声をスピーカーに乗せて、純朴な子どもたちを集めていた。純朴というのはderorenの想像である。

武聖夜市
 衣料品の店は、花園夜市よりも明らかに多い。その中で、ここはスタイ(よだれかけ)を扱っていた。10枚650元。hashiが足を止めて買い漁る。
 derorenは、土産話にでもするつもりで買ったのだろうと思っていたが、hashiはデザインを目にとめて、購入を決めたそうな。

 そうして10枚を購入して、帰国後にタグを見たら、日本にほとんど入っていないカーターズのスタイであることが判明。数少ない通販サイトに、同じデザインがあったので本物のようだ。どっちにしても、別に高級品というわけではないが、何だかお買得な気分に。
 hashiの同僚に相次いで子どもが誕生したので、一部を贈ったらしいゾ。2枚で360円相当だけど、購入にウン万円かかってるから高級品みたいなものだネッ。

武聖夜市
 子どもも大人も楽しめるレジャーも充実だ(やや棒読み)。
 これは、手前の四角い板の上に、コインを投げて乗せるゲーム。店主の実演中だ。
 写真だけなら簡単そうにも見えるだろうが、実際にやれば、店主に献金して終わるのがオチである。

武聖夜市
 射的系のゲームの景品に、こんな顔があった。同行した皆さんも知らなかったし、詳細は不明。もっとも、別に解明する気もないぜ。

武聖夜市
 この夜市で最も特徴的だったのが、射箭場。本物の弓を射るのだ。
 一応これも、的に当てたり風船を割ると景品がもらえるゲームだけど、台南の大型夜市では一番歴史が古いという武聖夜市は、やはりひと味違うなぁ……と思ったわけである。


 食べ物関係は(二)で紹介する。
 食事後に訪れているから、まぁ大した紹介にはならないけど。