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2012/05/26

彌陀寺

彌陀寺
 東門教会のすぐ隣にある彌陀寺。いかにも最近建てましたという雰囲気で、しかも台南的な建物でもないので、知らなければ通り過ぎてしまうかも知れない。
 しかし、現在の姿はともかく、ここは台南最古とも言われる仏教寺院なのである。

彌陀寺
 門をくぐるとこんな感じで、狭い境内いっぱいに北方様式の仏殿を建てている。このような姿になったのは1971年らしい。第二次世界大戦で空襲に遭ったり、いろいろ受難の果てのようだが、北方様式ではねぇ……というのが正直なところ。
 台南の七寺八廟どころか、四大名刹の一つに数えられるこの寺院を、今まで積極的に訪問しなかったのも、こんな変り果てた姿を知っていたためであった。

※ちなみに台南四大名刹は、開元寺法華寺、彌陀寺、竹渓寺。

 伝承によれば、彌陀寺の創建は鄭氏政権の頃らしい。鄭経は、台湾に仏教寺院がないことを歎き、承天府の東安坊に阿弥陀仏を祀った。それがこの寺の始まりだという。
 ちなみに鄭経といえば、開元寺の始まりも彼の別荘だが、寺院になったのは鄭氏政権が滅んだ後である。伝承が本当ならば、確かに最古といえる。

 鄭氏政権の頃を記す文献といえば蒋毓英『台湾府志』(1685)だが、ざっと眺めた限りでは記載がない。17世紀の文献としては、次のような記述を見ることができる。

彌陀室在附郭之東。庭宇幽静、仏像荘厳。傍植檳篁、名花芬馥、可供遊詠。(高拱乾『台湾府志』 康煕35(1696)年刊)


 まぁ正直、存在したという以上の有用な情報はない。何を祀ったのかすら記述がない……のは、「彌陀」だから不要とも言えるが、寺号と本尊は必ずしも一致しないわけで。
 遙かに時代が下って、日本統治時期の記述は次のような感じ。ちなみに、連横(連雅堂)は、やや脚色が混じるという評価があるゾ。

彌陀寺 在大東門内。明延平郡王鄭経建。康熙五十七年、里人董大彩修。五十八年、武夷僧一峰募建西堂、里人陳仕俊復増建之、殿宇寬敞、花木幽邃、為郡治冠。(連横『台湾通史』 大正9(1920)年刊)


 字数の割にはたいした情報はない。とりあえず「殿宇寬敞、花木幽邃」が現在と全く合わないことだけは確かだ。連横の生きていた頃はまだ広かったとも解釈できるが、現況を自身で確認したのか怪しい。
 ともかく、台南市政府が建てた案内板も、この連雅堂説を下敷きにしているようだ。

弥陀寺
彌陀寺
 金剛力士像。これは一応、阿吽になるのかな。

弥陀寺
 釈迦牟尼を祀る大雄宝殿。
 ここは三層になっていて、他に地蔵や観音が祀られているらしいが、我々は一階しか拝んでいない。というか、道仏折衷ではない仏教寺院なので、物見遊山で眺めるような雰囲気ではなかった。
 その意味では、四大名刹の名は伊達ではないと思ったのも事実。


 さて、旧東門美術館前でタクシーを降りてから、そろそろ2時間である。tomopeeがそろそろ限界を迎えつつある状況もあって、ここも長居はしなかった。
 そして次の見学地で、tomopeeはホテル帰還となった。もちろんhashiも帰還。derorenが一人残って、昼食を外帯で調達する任務を負うことになる。まぁその辺は、この先の記事で徐々に記していくので、奇特な方は楽しみにしてくだされ。

2012/05/14

巽方砲台(台南市東区)

巽方砲台(台南市東区)
 さて、謎だらけの修禅院を我々が訪問した理由は、ここにトンデモな古蹟が存在するからだ。
 見よ、この要塞を!

 とにかく、いろいろツッコミ所が多いので、写真たっぷりで紹介する。なんと総数14枚だ。

巽方砲台(台南市東区)
 修禅院の入口から見えるのは、こんな感じ。
 石壁にくっきりと屋根の痕がついている。もちろん石造物の来歴から考えて、こんな屋根だったはずはない。手前にこんな屋根の建物があって、取り壊された痕跡だろう。

巽方砲台(台南市東区)
 正面。上部の目立たない額には「巽方靖鎮」とある。一方、その下の目立つ方は「修禅院」だ。砲台に無理矢理寺院の額を嵌めたわけだ。
 ここは一般に巽方砲台と呼ばれる。文字通り、台南府城の巽の方角にある砲台だ。完全な内陸の砲台は、非常に珍しいという。

 元々、ここは府城の外部である。しかし大東門周辺が商業地域として発展すると、城門の外側にも人家が建ち並ぶようになる。これを大東門外街と呼んだ。
 やがて19世紀になり、台南では反乱が相次ぎ、特に1813年に張丙が起こした乱は、外街の住人に恐怖を与えた。そこで住人たちの請願もあり、1816年に外街を囲む城壁が造られた。
 ただし新造の城壁は、三和土で固めた本格的なものではなかった。そこで不安を解消するため、二箇所に砲台を築いたのだ。
 一箇所は現在の長栄中学付近だが、これは現存しない。そしてもう一つの砲台が、こうしてなぜか寺院の一部となっている。

巽方砲台(台南市東区)
 砲台は、老古石(サンゴ)と切り出した石を組み合わせ、カキ殻セメントで固めてある。安平に来たような雰囲気だ。
 それにしても、「古蹟」ってはめ込む意味は何だろう、と思う。まぁ反対側の「銃楼」も、寺院に全く似つかわしくない言葉だが。

巽方砲台(台南市東区)
 これは反対側から。要するに、敵が攻めてくる方向である。
 ただの壁に見えるかも知れないが、もちろん近づけば命はないぞ。

巽方砲台(台南市東区)
 外側にはセメントで化粧がされているようだ。これは本来の姿なのかは分からない。
 『台南歴史深度旅遊』によれば、荒れ放題だった砲台を修禅院が買い取って、かなりの改造を施したとある。
 とにかく、寺院の堂宇として整備したのだから、中には何か祀られているのだろう、と入ってみた。すると……。

巽方砲台(台南市東区)
 どぉぉぉーーん。
 な、なんだこれは。

 内部はがらんどうだ。西城秀樹はギャランドゥだ。

巽方砲台(台南市東区)
 円みを帯びた屋根。
 そりゃまぁ砲台に装飾は不要だけど、それにしてもねぇ。あまりの雰囲気に、hashiはそそくさと逃げ出してしまったゾ。

巽方砲台(台南市東区)
 さっきの「古蹟」窓を内側から見ると、こんな感じである。
 独房ごっこができそうだ。そんな「ごっこ」いらねぇや。

巽方砲台(台南市東区)
 問題は反対側だ。
 そう、さっき紹介した敵に面した方向にも、こんな空間がある。窓はないが、よーく見ると……。

巽方砲台(台南市東区)
 なんと銃口があいている。ものすごく生々しい古蹟である。
 地元の小学生が見学に行きそうな場所だけど、見せたらトラウマになりそう。

巽方砲台(台南市東区)
 さて、最初の写真で確認できるように、砲台の右側には階段がついている。これが当時のものかは分からないが、ともかく昇れるようなので昇ってみた。

巽方砲台(台南市東区)
 なんとそこには、砲台には全く似つかわしくない休憩場所が設けられていた。どうやら修禅院はここを展望台に仕立てたらしい。
 ただし、目の前には修禅院の高層ビルが建っているし、もともと大した高さでもないから、展望するほどの景色はない。だいたい、あんな砲台の上で楽しくかたらいながら休憩するヤツもいないだろう。

巽方砲台(台南市東区)
 hashiとtomopeeも昇ってはみたが、椅子に座ることもなく早々に退散した。
 ちなみに『台南歴史深度旅遊』の写真では、この位置に屋根が架かっている。かつては屋根付きの東屋だったようだ。現在の姿は、恐らくはこれでもだいぶマシなのだろう。

 まぁ正直、ここは観光地としては薦められない。写真を見て、それでも興味があるというならば、止めはしないけど。
 現在の台湾では、金門島とかの軍事要塞を観光客に見せているわけで、そういうものと比べたら大したことはない。ただ、derorenは要塞見学などしたいとも思わないので、ここの評価も微妙である。

2012/05/13

修禅院(台南市東区)

修禅院(台南市東区)
 台南州立農事試験改良場宿舎群を過ぎたところで、駐車場の向こうに高層ビルを見る。なんとも形容しがたいビジュアルだが、まぁ宗教施設だということは一目瞭然。

 ちなみに、許嵩煙旧居(旧東門美術館)龍山寺→宿舎群→ここと、ブログの読者的にはものすごい距離に思えるかも知れないが、見学しなければ5分で辿れるよ。

修禪院
 ここは修禅院という施設である。
 資料らしい資料はこれぐらいしかないので、それによって記すと、舌浄という尼僧が1946年頃に創立した寺院らしい。

修禅院(台南市東区)
 ビルの内部はこんな感じ。
 もちろん2階より上もあるのだろうが、あまりに人の気配がなさ過ぎて、これ以上内部を探索する気になれなかった。

修禪院
 この仏はどうやら阿弥陀仏のようだ。上の資料では釈迦牟尼仏と薬師も祀るとあるから、たぶん上層に行けばそれぞれの祭壇があるのだろう。

 そんなわけで、derorenがとても消極的に拝拝していることが読み取れよう。しかし、ここは我々の主要な目的地の一つである。
 その理由は次の記事で。引き延ばすぜぇ。

2012/05/12

龍山寺(台南市東門路)

東門路を歩くに当たって、derorenはいくつかのガイドブックを参照した。と同時に、googleストリートビューも積極的に活用している。
 そこで旧東門美術館の周辺を見ていたら、近くに何やらあるらしいことが分かった。それ自体は奥まった場所で、ストリートビューの車も通らなかったようだが、ともかく見つけた以上は行くしかない。

龍山寺(台南市東門路)
 東門路を折れてみれば、この景色。全景が見えないぜ。まるで新田駅みたいだぜ(ローカル過ぎ)。

 ……説明しようと思ったが、余所のサイトでいい写真が見つからないぞ。

新田駅
 なので自前で載せてみるべ。
※新田車站(JR西日本・奈良線)1896年1月開業(舊奈良鐵道)
 遮住驛舍的大樹,是銀杏和辛夷。

龍山寺(台南市東門路)
 うむ。どうでもいい譬えで話がそれてしまった。毎度のことだが申し訳ない。
 ここは龍山寺。台湾旅行の経験があれば、この名前を聞いたことはあるだろう。ただし台北の龍山寺だろうが。

 龍山寺は福建省泉州の移民が建てた集会所みたいなものなので、台湾各地にある。一般に有名なのは台北艋舺(萬華)、また文化財的価値では鹿港龍山寺(国定古蹟)が挙げられる。そして台南にも、もちろんある。
 もっとも、台南の龍山寺といえば普通はここではなく、市の南部の海沿いにある四鯤鯓の寺を指す。少なくともderorenは、ストリートビューを見るまで、ここの存在は全く知らなかった。

 なおここの龍山寺は、寺伝に拠れば1715年(康煕54年)、大東門近くに祀ったのが始まりらしい。当初は老古石(要するにサンゴ)で建てた簡易的なもので、やがて朽ち果てたが、乾隆年間にちゃんとした社殿を建て直したという。
 そうして存続していた寺は、日本統治時期に大東路が拡張されたため、移転を余儀なくされた。その移転先がここらしい。

龍山寺(台南市東門路)
 いずれにせよ、現在の建物は、見るからに新しい。しかも階段がきつくて、tomopeeをベビーカーに乗せている我々にとっては、あまり入りやすい場所ではなかった。
 そこで、derorenが代表して拝むことにした。
 ……しかしそれは、これからの出来事の始まりに過ぎなかったのだっ。


 とりあえず階段を昇って一階を見渡すと、写真のように観音像が安置されている。ツカツカ歩いていったderorenは、さっと拝拝しようと思ったら、右手側から声を掛けられた。そこには、何とも人の良さそうな尼僧が笑顔で立っていた。
 尼僧は、まぁこれを飲みなさいという感じでコップを渡して、何か冷えた飲み物を注いでくれる。それは楊桃湯で、かなり美味だ。たぶん、今まで飲んだ楊桃湯で一番良かったと思う。

 ありがたいありがたい……と、ぺこぺこ頭を下げてderorenはその場を立ち去ろうとするが、その尼僧はまだ何か言いたげだった。
 しかし、言いたげなまま奥にひっこんで、しばらく戻って来ない。さすがにもういいだろうと、derorenは外に出る。hashiとtomopeeが木陰で待っているので、長居はできないのだ。

 ……が、そうして木陰でうだうだしているうちに、尼僧が現れた。彼女はtomopeeを発見してしまった。

龍山寺(台南市東門路)
 日本でもtomopeeは可愛いと評判だが(親バカ発言)、台南での人気もかなりなものだった。前日の西華堂に続いて、ここでも彼は尼僧を虜にしてしまう。
 荷物搬入路を通ってベビーカーごと入堂した我々は、農民暦を渡される(龍山寺のガイドを兼ねている)。そして尼僧の案内で、鉄筋三階建の堂内を巡り、そこに居られる仏を拝拝することになった。
 まぁ何というか、可愛いって罪よね。(読者の皆さん、怒っちゃイヤヨ)

 なお、写真はお菓子をもらったtomopee。ただし、このお菓子は彼には食えないので、帰国後に親が食べたゾ。

龍山寺(台南市東門路)
 二階は釈迦三尊。素木の一木造で、新しいがかなり手の込んだ仏像だと分かる。
 尼僧は、農民暦の表紙を指差した。そこには、切口が直径2mはくだらない樟の巨木が写っていた。これは大陸から運ばれたご神木らしい。

 同じ農民暦の寺伝によれば、2000年に龍山寺は火事に遭い、1982年に建てたばかりの鉄筋三階建てのうち、2階と3階を焼失してしまったという。
 そこで改めて立派な木を探して、掘り直して法要を行い安置したのが、現在の姿なのである。

龍山寺(台南市東門路)
 三階には千手観音像。
 これがもう、君は千手観音♪とかふざける気にもなれないほど立派な像だ。

龍山寺(台南市東門路)
 まぁしかし、日本にも本当に千手な菩薩はいくつか存在するけど、実際に見るとやはり驚かされる。何というか、この執念が菩薩の実在を保証していく様を追体験するような。
 もちろん、そこまでヘヴィな立場になくとも、一つ一つの造型を眺めるだけで楽しい。異国の来訪者を、無理矢理にでもここまで引きあげるのも、なるほどと思う。いいものを見た。感謝。

龍山寺(台南市東門路)
 一階に戻ると、尼僧は沢山のお土産を手渡してくれた。そして、左手で休んでいた別の老尼僧がtomopeeを呼び寄せて、日本語で「きれい」と褒めてくれたのだ。derorenとhashiは恐縮しつつも鼻高々である。
 写真は、いただいたものを別の場所で撮影したもの。既に紹介した蛋黄果も、ここでもらった。他にグァバとバナナ、漬け物、菓子、飲み物などで、いきなりderorenのリュックがパンパンになるほどだ。如何に歓迎していただいたか、この量でも分かるだろう。

 ちなみに、漬け物などはこの日の昼食時などに食べた。またバナナはtomopeeのおやつとして、帰国日の空港まで役に立った。で、お菓子だけは国境を越えて日本に持ち込まれている。日本のお菓子と似ているようで、どこか違う(味は……)。

龍山寺(台南市東門路)
 さて、そんな中に楊桃湯と思われる一本があった。
 堂内で飲んだものがとても美味しかったので、これも喜んでいただいたわけだが、ホテルの冷蔵庫に入れた後に、さぁ飲もうと思ったら、何か様子がおかしい。
 そう、明らかに醗酵しているのだ。

 まぁ醗酵そのものは驚くことではない。とはいえ、部屋で開けると中身が飛び出す可能性は否定できないので、とりあえず洗面台に移動してみた。
 恐る恐る蓋を開けようとすると………、ものすごい音とともに蓋はどこかへ消えた。そして、これもものすごい勢いで液体が飛び出して、洗面台はとんでもない惨状を呈すに至ったのだ。
 後で見渡してみると、飛沫は浴槽など部屋中についていた。まさしく大爆発だ。知らずに、外で開けたらどんなことになっただろう。derorenのシャツや髪の毛が被害にあっただけなのは、不幸中の幸いであった。

 そうして事件が起きた後に、こうやって写真を見ると、既にやばそうだったことが分かる。自分が飲んだものと違うボトルだけど、試飲した気になっていたから疑問に思わなかった。慌ててタオルで拭きながら、ちょっとだけ反省した。

 ともあれ、そんな後日談も含めて、とても印象に残った出逢いだった。龍山寺の尼僧の皆さんに、改めて感謝申し上げる。

2012/04/22

南鯤鯓代天府(三) 後殿の青山寺

南鯤鯓代天府
 台湾では観音菩薩を航海の守護神とすることがある。媽祖廟の後殿に必ずといっていいほど観音が祀られているのはそのためだ。
 従って、立地的にもやはり航海にも関わるだろう南鯤鯓代天府に、観音の姿があったとしても不思議ではない。

 ただし、そこには青山寺という額が掲げられている。

南鯤鯓代天府
 ここも立派な八角藻井が造られている。中央の天板が八卦の形なのは、泉州渓底派の特色だと『台湾廟宇図鑑』に書かれてある。

南鯤鯓代天府
 そして本尊の観世音菩薩。写真は斜めなので奥が見えないが、正面から見ても観音像は見えなかった(手前の像で隠れている)。

 境内にあった案内板によれば、ここは清の同治11年(1872)に創建されたという。恐らくは創建時から南鯤鯓代天府の後殿であったと思われるが、ともかくここには「青山寺」という独立した名前が付けられている。
 なお、同じ案内板には、2007年に浙江省普陀山の南海観音禅林と結盟したとあった。普陀山といえば、台湾の観音殿がしばしば岩窟を摸していることの由来の地である。こうして両岸の交流が続いているわけだ。

南鯤鯓代天府
 これは青山寺前の壁、つまり正殿後方の後拝殿の壁にあたる。
 このような壁は金銭壁で、富貴万年の象徴であるそうな。

南鯤鯓代天府
 龍柱は正殿にも負けない立派なもの。

南鯤鯓代天府
 こちらの柱には、大正12年と刻まれている。(二)で紹介した、正殿と同時期だ。
 この時の造営は、三川殿から後殿まで一体のものだったという証明になっている。

南鯤鯓代天府
 さて、「青山寺」という名の割には仏教寺院らしさ(derorenが知るような、というレベルだ)が感じられないここには、玉皇上帝と地蔵王菩薩も祀られる。
 まぁ普陀巌のある廟は、むしろ仏教寺院じゃない場合が多いわけだし、ここもそうだと思えば不思議ではない。

南鯤鯓代天府
 手前の像がたぶん地蔵で、奥に描かれているのが玉皇上帝か。もしくは、陰に玉皇上帝の神位か何かが居られるかもしれない。
 ちなみに地蔵は仏教側ではあるが、観音とは無関係に祀られている(青山寺の案内板には触れられていない)。冥界と関わりの深い菩薩として、城隍廟や東嶽殿にもつきものの地蔵だから、同じく陰廟のここにも祀られているのだろう。
 玉皇上帝は……、まぁいるにこしたことはない神だからねぇ(出入りする乩童などと関係があったりする?)。


 というわけで、中心部はこれで紹介終了。
 しかし南鯤鯓代天府は巨大な空間だ。他にもいろいろな神殿や施設があったので、引き続き載せていく。
 日本人旅行者に需要があるかは分からないけど、興味のある人が調べた時に、一つぐらい日本語のガイドがあったらいいだろうな、という感じで書いているので、どうぞよろしく。

2012/04/04

開元寺にtomopeeは立つ

開元寺
 3月なのに真夏の台南をtomopeeは駆け抜けた。そして幾多の困難の末に、ついに彼は開元寺というパラダイスへ辿り着いたのだ。
 見よ。象と獅子に護られて、誇らしげに彼は笑っている!

 いろいろ嘘がまじったな。ほとんど嘘か。
 象さんのそばで、わざわざ記念撮影したのに、彼はそっぽを向いている。まぁそれは象が嫌いなのではなく、やや離れた物体に興味を示すという、彼の習性である。
 余談だが、tomopeeは京都市動物園で象を見たことがあるゾウ。きっと忘れているゾウ。

※台湾の読者向け注記:この記事は、機械翻訳しても理解できません。たぶん。

開元寺
 開元寺の大樹の下は、それほど広くはないが静かで良い休憩場所だ。ベンチもあるので、乳児に弁当を食べさせることもできる。トイレもあるよ。中でおむつを替えられるような多目的トイレではないけど。

 陽射しがなければ、意外に過ごしやすい。
 いつもより湿っぽいと言っても、京都の夏とは比較にならない。

開元寺
 彌勒殿に入る。土足厳禁。
 中では金色のハート様……ではなく彌勒様と、いかつい四天王が目を光らせている。広目天が顔を真っ赤にしているぜ。便秘ですかー!?(猪木風にどうぞ)

開元寺
 どぅぁれがハート様じゃあ~。
 彌勒様がお怒りだぜ。思い入れがないderorenが適当に撮影したから、線香にピントが合ってるのは内緒だぜ。ひでぶ。

開元寺
 そんなやり取りなどおかまいなしに、tomopeeはたそがれる。揺れる甲板から、波止場を見つめるマドロスのように絵になる姿だ。親バカは、照れが出たらオシマイだ。

 土足厳禁のお堂は、つかまり立ち段階のtomopeeが歩ける貴重な場所である。
 ベビーカーのストレスを発散してもらったゾ。
 まぁこの後はホテル帰還だけどね。

開元寺
 わ、私も立ってみたいわぁ…と、広目天に踏まれた女は叫ぶ。しかしその声は、旅立つtomopeeの背中には届くこともなく、台南の熱い夜は更けていくのだった。


 あれ?
 まだ午後1時じゃん。

2012/03/29

成功大学(一) 黄檗寺跡の旧台南衛戍病院など

成功大学
 台南公園をあとにした我々は、小東路で線路をくぐり、東区方面に向かう。四度目の台南で、初めて歩くエリアである。
 そのまま小東路を進めば、成功大学キャンパスに突入。南側は光復校区、北側は力行校区と呼ばれている。ちなみに、カ行じゃないぜ(ブラウザでは識別が難しいよね)。

 この力行校区には、日本時代の建物が残っている。それが写真の旧台南衛戍病院だ。

成功大学
 台南衛戍病院とは、日本軍の医療施設である。当初は赤嵌楼の建物を使っていたらしいが、1917年(台南公園と同じ年)に、ここに移転した。
 すぐ南の光復校区は、日本陸軍の歩兵第二聯隊であり、その軍医がここで務めていた。
 ちなみに、国民党政権下でも、ここは民国軍の病院として利用された。その後、成功大学のキャンパスに組み込まれたが、今もここは医学部系のキャンパスである。

 ところで、王浩一編著『在廟口説書』(2010.9修訂版、心霊工坊)によれば、台鐵線路付近からこの辺は、かつて存在した黄檗寺の跡地らしい。
 黄檗寺は、天壇(三)の武聖殿の記事で取り上げた廃絶寺院。『在廟口説書』は現存する寺廟の由来を読み物にしたものだが、なぜか黄檗寺の項が設けられており、「天地会的秘密基地」と面白おかしく書かれてある。

 天地会といえば、金庸『鹿鼎記』でも知られる反清復明の秘密結社だ。『鹿鼎記』の話を真に受けられても困るが。
 まぁそれはともかく、鄭氏政権の滅亡後、天地会はそれまで以上に地下に潜った。そんな残党の根拠地の一つが黄檗寺で、大量の軍資金が隠されていたという。
 やがて1786年(乾隆51年)に林爽文らが反乱を起こすと、当然この寺も呼応を求められた。しかし住職の不慧大師は、清朝側の知府(府知事)蔣元樞と親交があったため、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出し、自身は捕えられた。
 不慧大師は結局、北京に送られて死罪。黄檗寺は荒れ果て、最終的には日本陸軍の軍用地として完全に破壊された。関帝像のみが天壇に移され、武聖殿として現存する。

 正直言って、そんな歴史の舞台としてここを眺めるのは難しい。往時の面影のかけらもないし、足元は学生のバイクだらけで風情もないし。

成功大学
 力行校区と勝利路を挟んで東側に広がるエリアは、成杏校区。成功大学の附設医院が、両校区にまたがって建てられている。
 当たり前のように学生だらけのキャンパスにおいて、ここだけは老人比率が高かった。まぁ日本の大学附属病院と何ら変わらないので、あまり説明する必要もないだろう。

成功大学
 附設医院前のオブジェ。
 成功大学は古めかしい建物だけのキャンパスじゃないよ、ということで。


 残念ながら、成功大学は予定の半分もまわれなかった。炎天下をtomopeeと一緒に巡る場合、移動距離の長い場所は難しい。教訓にもならないけど。
 まぁともかく、行けた範囲の紹介はしておく。その(二)は光復キャンパス編。