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2011/10/08

隘門逝く

 話題がないので最近は更新ほとんど停止中の本ブログ。その中で最大の関心事のように見えなくもない艋舺隘門の最新動向が伝わってきた。
 10月6日の民視が伝えたところによると、結局すべて取り壊されたらしい。同報道では、壁に屋根の痕だけ残った映像が流れている。

 この門のせいで救急車や消防車が入れないという報道は以前からあったが、水道が引けないという状況もあったらしい。いずれにせよ、現在のあの場所に門を設ける必然性は皆無なので、遅かれ早かれこういう結末を迎えたのだろう。
 なお台北市の文化局では、隘門もどきの記念物を建てる可能性もあるようだ。ただしそれは決して、あの隘門のような形にはならないだろう、とも。

 そんなわけで、開設二年半の当ブログにおいて紹介した場所が、まさかの過去帳入りとなってしまった。じじむさく言えば、これも一つの縁でございましょうや。南無

2011/08/30

台北艋舺の隘門が取り壊されるらしい

隘門
 台北の艋舺(萬華)地区にある古蹟「隘門」が、何と9月14日頃を目途に取り壊されることとなったという。
 最近は台湾映画「モンガに散る」の重要なロケ地だったこともあり、多少は観光客も訪れていた模様。しかし救急車両の出入りに支障があるというのが、取り壊しの理由らしい。
 反対の声が上がっているようだし、もしかしたら今後何かの動きがあるかも知れないけど、我々が去年訪問した古蹟が失われるとすれば、非常に残念である。

※訪問時に書いた記事はこちらを御覧くだされ

隘門
 移民の島であった19世紀までの台湾では、出身地別に連帯し、武装し、そして住居地区を要塞化することで自衛がなされていた。隘門はそうした時代の名残りである。

 龍山寺から徒歩3分とかからない至近距離なので、9月上旬に台北に出掛ける人は、その最期の姿を一見してほしい。
 実際に見れば、まぁ汚い祠みたいなものだけど、あの映画のファンにとっては特別な場所だろうし。

2010/12/24

最近見た台湾関係番組など

 北港鎮しか並んでないので、たまに毛色の違う記事を書いておこう。あ、今日はクリスマスイブだね。今年のクリスマスは中止になったらしいから、これを読んでる良い子も安心だね。


●「OL三人旅・台湾湯けむりツアー」
 フジテレビCSで突然放送された。どうせ見ないよな……と思いつつ録画するだけはしてみた。ほぼ早送りで眺めて終わり。美保純がお嬢様って設定はどうなんだろうと思う。
 ちなみに本放送の頃も、残念ながらderorenはこの世に存在していたわけだが、当時のderorenは「ケッ、二時間ドラマを見るようなジジババなんてクソ喰らえ!」であった。いや、その辺は今もあんまり変わってないけど。
 劇中では台北や太魯閣などが映っていた。太魯閣では死体が発見されていたづら。台湾の人も出演している。いわゆる片言日本語だ。20年前の台湾などで、今よりも日本語世代が多かったとは思うけどね。
 

●「わがまま!気まま!旅気分!」
 「ココロもカラダもキレイになれる!?台湾美食紀行」と題したもので、BS番組らしい。関テレで深夜に放送されたので、これも録画。山田まりやと青山有紀が出演である。いや、青山って人は初めて見たけど。
 羽田空港国際化関連の宣伝番組の一つで、薬膳にテーマを絞った構成。衛兵交代も国民党施設の見学もなく、永康街ではマンゴーかき氷の店を通過して苦茶之家であった。夜市、阜杭豆漿、迪化街、猫空、九份とまわり、九份でそのまま唐突に終わる。
 出演者が薬膳関係の資格をもっているという設定は、あってもなくても同じである。旅旅台北あたりをじっくりチェックすれば立てられるプランだな……と思ったら、本当に旅旅台北プロデュースだった(番組の最後にホームページのトップ画面も映った)。
 まぁ台湾旅行番組としては及第点。当ブログ的には、ディープな街歩き番組を期待したい。旅旅台北は、やればできる子だと信じているぞ。



 余談になるが、映画「艋舺」の日本語版が「モンガに散る」という名で公開中である。当ブログに紹介した地域を舞台としているので、興味のある人は早めに観るが吉。derorenは体質的に映画に向いていないので(リアルな知り合いならご存じだろう)、たぶん映画館で見ることはないだろう。
 トレーラー映像には隘門が映っていたりして、ちょっと嬉しい。ただし、実際に歩いても感じる治安面での不安を増大させるだけという気もする。
 日本の暴力団がそうであるように、台湾の黒社会も美化されるべきではないと思うのだよ。

 そんなわけでメニィクルシミマース、サンザンクロース!(byトニー谷)

2010/06/28

順春堂青草店(台北・萬華)

順春青草店(台北・萬華)
 龍山寺の東には青草巷という、薬草の卸売り店が並ぶエリアがある。去年もそこを通ったわけだが、今回は日曜日だったこともあり、見事に閉まっていた。
 ただし、地蔵王廟前の西昌街の萬安青草店などは開いているので、日曜でも青草茶や苦茶を飲むことは可能である。

 去年はまさに地蔵王廟前の店で買ったので、今回は別の店で飲もうということで選んだのが、広州街に面する順春堂青草店。選んだというか、ふらふら歩いていて、適当に買っただけだ。
 写真には、某「日本和名雑誌」にも載ったと書いてある。先に見つけたら買わなかったかも知れない(冗談だ)。
 苦茶40元は、当然苦くて不味い。ある意味で味の心配がいらないのは素晴らしい。でも何となく健康になれそうな気になれるから、店はどこでもいいから一度は飲んでみるべきだ。

龍山寺(台北・萬華)再訪

龍山寺(台北・萬華)
 萬華の中心地、龍山寺。我々にとっては、去年に続く再訪である。
 ただし、去年の訪問と今年の訪問では、我々の意識に大きな違いがある。日本語ガイドブックでかじった程度の知識で出掛けた去年の自分たちを、今となっては恥じるばかりでござる。

 もちろん龍山寺には、単なる観光地としての面もあるのは事実。
 この日も日本人の団体がいて、たどたどしい日本語の解説もなされていた。

龍山寺(台北・萬華)
 龍山寺は福建にある寺院で、三邑人(晋江・恵安・南安)が故郷から勧請したもの。従って、建立当初からここは単なる寺院ではなく、移民たちの集う場として機能していた。
 雑多ともいえる神々の合祀は、起源を辿ればこのような特殊性に起因するのだろうか。少なくとも、大陸とつながりがあるだけならば、台南の開元寺や法華寺だってこうなっても不思議ではないわけだし。

龍山寺(台北・萬華)
 自身でも拝拝しつつ、決死の覚悟で撮影した観音菩薩。みんな火を持ちながら動き回るから、台湾の廟は危険である。
 第二次世界大戦ではアメリカ軍の爆撃にあった龍山寺であるが、正殿が全壊したのに、この像は無傷であったという伝説がある。八戸のイタコが、オシラサマを飛ばして米軍機を撃墜しようとしたエピソード並みに素晴らしい伝承である。

龍山寺(台北・萬華)
 後殿右龕の註生娘娘の前には花がいっぱいだ。我々の訪問は2010年5月2日。翌日が註生娘娘の聖誕日なのだ。
 ヘルメットのおっさんは、バイクで花を運んで来て、今まさに飾り付けている最中である。

 なお、後殿の神々のなかで左龕の水仙尊王と城隍爺は、日本時代に壊されてしまった、近くの水仙宮から遷されたもの。台南の水仙宮も日本時代はひどい目に遭っているし、ここも植民地政府の嫌がらせかと思ったが、必ずしもそれだけではないらしい。
 『台北歴史深度旅遊』によれば、水仙宮のあった地点(現在の西昌街と桂林路の交差点)は、風水ではもっとも建ててはいけない場所であった。そこで人々は移転させようと思ったものの、そのたびに責任者が死んでしまい、呪われた廟として誰も寄り付かなくなってしまった……という感じで書いてある。
 最終的には道路拡張で破壊されたわけだが、それはそれで体よく日本に罪を押しつけたということなのかも知れない。

 とりとめのない書き方になってしまった。龍山寺の一般情報なんて腐るほどあるから、あまり書かなくてもいいかなぁ…と思ったらこのザマだ。読者の皆様には申し訳ない。
 で、あえてもう一つ龍山寺で記事を書く。今度はちょっと業界人向けだ。

2010/06/27

艋舺大衆廟(台北・萬華)再訪

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 大衆廟という名を聞いて、「大衆に開かれた廟」なのかと思ったのが去年のこと
 台南にも巨大な大衆廟があって、安平樹屋の奥の展望台から小さく見えたが、その時はそれで終わっていた。
 この名前の真の意味を知ったのは、比較的最近である。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 大衆爺とは、まさしく無名の大衆を指す。つまり、名も無き無数の死者の魂を祀ったものである。
 台南の大衆廟に至っては、鄭成功に敗れたオランダ軍の死者の骨まで祀ってあるわけだ。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 艋舺大衆廟の創建は清の乾隆年間とされる。地蔵王廟の創建が乾隆25年(1760)とされるので、ほぼ同時期の廟ということになる。
 目的が死者の鎮魂(日本的に言えば)という意味では、地蔵王廟と同様の性格の廟である。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 こちらの謝将軍はシャンプーハット姿。
 しかしそれよりも………。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 范将軍はいっそう目立つ。何がって、そりゃあ「ポテコ」だ。泣けるほど威厳のない姿である。これでも本当は怖い神なんだよなぁ。

 なお、大衆廟と似た性格の廟には、義民廟というのもある。後日、北港鎮で拝拝したので、順調に行けば7月中には紹介記事が書けるのではなかろうか。

2010/06/26

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)再訪

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 一応「再訪」となる地蔵王廟。ただし去年の訪問時は、我々に台湾の寺廟に関する知識がなかったので、ただ覗いただけで終わっている。
 隣の国の信仰を知るすべは、驚くほど少ない。

 まぁそもそも、日本国内で日本の民間信仰の論理を知ることだって、決して簡単ではない。ただし、残念ながら日本の寺社を巡る際に、そういう論理を知らなければならない局面はあまりない。阿弥陀浄土を具現化した地を訪問しながら、自分が積んだ徳について真剣に考える観光客なんていないでしょ?

 対して台湾の寺廟は、基本的に観光する場所ではない。かといって、世俗と切り離して考えることもできない。
 とりあえず一年経って分かったのは、薄っぺらい「日本人的視点」はさっさと捨てるべきだ、ということ。「皇帝」のいる世界ってこういうものなのか、とリアルに感じるだけでも、得がたい経験だ(逆に言えば、日本の天皇はちっとも「皇帝」じゃないと知ることにもなる)。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 枕が長くなってしまった。外観写真がどうにも魅力に乏しいので、余計な話になってしまう。
 ともあれ内部の写真を載せる。本尊の左右に時計が組み込まれているのが面白い。何か信仰的な意味があるのかな、と思われるが、手持ちのガイド類に説明はない。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 地獄からの使者(古くて申し訳ない)、地蔵菩薩である。
 日本ではなぜか地蔵というと穏やかな仏(もしくはサッカー場で動かない客)となっている。あれはどういう経緯で作られたイメージなのだろう? 少なくとも京都に通じる境界に作られた「六地蔵」は、そんな穏やかなものではなかった。
 境界に祀る神に求められるのは、要らざるものを内部に侵入させない力である。逢坂の手前の四宮なんて、相当におどろおどろしいぞ。

 またまた余談になってしまった。
 この地蔵王廟は、どうやら艋舺で疫病が流行ったことと関連して祀られたらしい。疫病による死者たちを救うことが、地蔵に課せられた使命ということになろう。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 で、なぜか謝さんと范さんがいる。実は地蔵菩薩の脇に城隍爺も祀られている(反対側には田都元帥も)。これらの神々は、廃絶した近隣の廟から遷されたものらしい。
 地蔵王廟自体も日本時代に廃絶しかけたのを、龍山寺の傘下に入ることで免れたという。その代わり、本来は独立した寺廟だったのに、龍山寺に隷属する関係になってしまった。

 さて、去年の訪問時は地蔵王廟の一部かと思っていたが、ここにはもう一つの廟があった。そちらは次の記事で。

2010/06/24

進財切仔麺(台北・萬華)

進財切仔麺(台北・萬華)
 剥皮寮のちょうど向かいには切仔麺の店が二軒ある。進財切仔麺は旅旅台北に紹介されていたので、せっかくだから入店してみることに。
 ちなみに公式サイトがある。読んでみると、つい最近ここに移転したことや、「進財」が二代目の名前ということが分かる。初代の命名があまりに現世利益的で驚かされる。

進財切仔麺(台北・萬華)
 店内はけっこう混んでいた。空いてる席に案内され、メニューの紙を渡される。鉛筆でチェックを入れて店員に渡す方式である。支払いは食事後。

 切仔麺は30元。旅旅台北でこれを紹介していないのは、QQじゃないからだろう。
 麺はふにゃふにゃ。でも、のびてるというわけでもない。スープはあっさりしてうまい。これだけで腹を満たすには向いてないが、小吃巡りの一食にはちょうどいいと思う。

進財切仔麺(台北・萬華)
 燙青菜30元。これは地瓜葉(サツマイモ)だ。
 台湾では何度も地瓜葉を食っているが、なぜこれを日本では食わないのか不思議でならない。それぐらいうまい。
※コメント欄のMatさん情報によれば、品種が違うとのこと。食べ物関係はあまり熱心に調べないので、適当な書き方で申し訳ない。

 日本でサツマイモの葉といえば、戦中戦後の食糧難の話ばかり。かの東海林さだお大先生がネタにするほど、「食べないのが当たり前」なんだよな。
 derorenはサツマイモの芋の方は食えないという(他人に言わせれば)不思議人間だが、あえて言おう、みんな地瓜葉を食えと。



進財切仔麺(台北・萬華)
 豬心50元。豚のハツである。これも適度な歯応えでうまい。もちろん肉に臭みないし、ショウガとタレの組み合わせは絶妙だ。やっぱり醤油膏だ……ということで後日、台南のスーパーで一瓶買って持ち帰ったゾ(高級品らしい「蔭油膏」)。
 そして何度か調理に使った上で言うが、台湾旅行のお土産は醤油膏を買うべし! 炒め物はもちろん、茹でた野菜にかけるだけで燙青菜っぽく食える(ニンニク風味はないけどね)。

進財切仔麺(台北・萬華)
 最後に台南乾意麺30元。台南に行く前に台南という名の料理は食べるべきか若干迷う部分だ。しかし台南で意麺を食べるとは限らない(揚げ麺じゃない方の意麺は案外レア)ので食べてみた。
 QQな乾麺に、コクのあるタレがたまらない味。それなりに量があるけど、あっという間になくなった。

 総じてこの店はうまかった。これだけ頼んで140元。日本円で420円である。日本語は通じないけど全く心配ないので突撃すべし。

2010/06/23

萬華・剥皮寮(二) 復元中の街並の外側

萬華・剥皮寮
 剥皮寮でもっとも賑やかな場所がこの辺である。
 中央部には路地があって、古い家並みが修復されて続いている。

萬華・剥皮寮
 同じ地点から右方向を見る。
 奥の巨体は老松国小で、右の建物は(一)で紹介した教育館方面。

萬華・剥皮寮
 我々は既に興味が別の方向にあったので、外側だけ巡る。
 亭仔脚の美しさを見ても、いかにきちんと修復されたかが分かる。

萬華・剥皮寮
 しかし修復されたものの、すべて無人だ。結局、ここの住人を全員立ち退かせて整備したので、立派な箱だけなのだ。
 これからどうするのだろう。イベントをするには狭いし、明治村みたいな施設を目指すにも狭いし、商業施設として貸し出すしかないのでは。

※我々と似たような感じで、剥皮寮を見学して阿秀切仔麺で食べたらしい日本語のブログがあった。剥皮寮では、我々が行かなかった方面の紹介もされているので、せっかくだしここにアドレス載せようかと思った……が、ゲストハウスの宣伝ブログのようなので断念。
 本ブログは我々が訪問した場所だけを掲載する方針である。別にゲストハウスに恨みはないので念のため。

萬華・剥皮寮(一) 台北市郷土教育中心の概要

萬華・剥皮寮
 広州街と昆明街の交差点(バカな国民党のおかげで名前だけワールドワイド)。
 いかにも古い建築を修復しました、という感じの建物があった。

萬華・剥皮寮
 なかなか立派な建物は、かつての病院らしい。しかし現在は「台北市郷土教育中心」と書かれた看板が目立つ。

萬華・剥皮寮
 建物の裏側にまわると、色目を合わせつつ遊歩道が整備されているのが見える。ここは、かつて建ち並んでいた家々をつなげて、展示スペースとした施設であった。

 昆明街と康定路の間の地は剥皮寮と呼ばれており、かつては石炭の集積地として栄えたらしい。なので立派な建物が並んだのだが、日本時代に学校用地として開発が禁止されてしまう。実際、この北側は老松小学校の敷地である。
 ところが学校建設は行われないまま時が流れ、清代末期から日本時代の景色がここだけ残ってしまったそうな。

 入場無料で、日本人には日本語のパンフレットも用意されている。2009年に開館したばかりなので、我々が事前に読んだガイドブックには記載がなく、不意打ちの観光地だった。

萬華・剥皮寮
 左奥の塔みたいなのはエレベーターである。
 ある意味で日本の町おこし施設的に立派な整備だ。ちょっと皮肉を込めたくなる。

萬華・剥皮寮
 故事館、教育館、医療館といったスペースの展示物は、正直言って海外からやって来た観光客がわざわざ時間を割くほどの内容ではない。小学校の遠足にちょうど良い程度だ。
 ナントカ商店街とかナントカ故事館みたいに、昔懐かしい街並みを復元と言いつつ、実際は単なる商業施設というのも萎えるけど、ここはどうにも中途半端だ。学校ゆかりの地だから教育といっても、教育はイデオロギーが発露する場なので、案外楽しめない。
 まぁ無料の休憩施設として使うことは出来るので、その存在は知っていても良いのではなかろうか。

 なお剥皮寮は右半分がこういう展示施設で、左半分は当時の路地を再現している。一般観光客にはそちらの方が面白いのではないかと思われる。
 が、我々は右半分しかまわらなかった。老街は実際に活動しているから価値がある……から見なかったわけではなく、単に再現地区の存在をよく知らなかっただけ。
 ついでにいえば、そろそろ我々は食い気に傾いていた。その辺は二つ先の記事にて。

老松国民小学
 おまけ。どんな建築物よりも目立つ、老松国小の校舎。コンクリートの無駄使いと言いたくなるもっさりな巨体である。
 ちなみにこの小学校の旧来の校舎は北側にあって、そちらは日本統治時代の古蹟となっている。老松といういかにも日本的な名前も、その通り日本時代の名残りだ。
 さらに遡れば、蓮花池という池があった。祖師廟の南北にあった池の、南側のほうがここである。

2010/06/20

隘門(台北・萬華)

隘門(台北・萬華)
 龍山寺から歩いて2~3分、観光客が山ほど行き交う広州街から間近な場所だが、全くといっていいほど気付く人のいない門がある。
 何を隠そう、我々もここは2009年に一度通っている。もちろんその存在は知らなかったので、改めて訪問することになった。

 というか、この写真を見ても「何も写ってないじゃないか」と思う人の方が多いのではなかろうか。

隘門(台北・萬華)
 しかし、反対側に立てば明らかに門であり、廟である。
 これは隘門と呼ばれ、清の時代の艋舺の街の名残りの古蹟なのだ。

隘門(台北・萬華)
 門の上には土地公が祀られる。土地公の塞の神としての性格を考えれば、なるほどという感じだ。

 隘門はいわゆる城に設けられる門とは違い、町が自衛のために造るものらしい。
 かつて、この門の南は龍山寺池と湿地であり、まさにここは艋舺の南の口であった。そこに住み着いた三邑人は、他の移民と紛争を繰り返している。そこで、このような門で町を守らねばならなかった。

 外敵の攻撃を受けた時にはここが閉じられ、迷路のような街に人々が埋伏して戦ったらしい。日本の城下町でも迷路のような路地はあるけれど、一般人が武装して戦う世界というのは、あまりに殺伐としすぎだよなぁ。

※台湾映画『モンガに散る(艋舺/Monga)』の舞台となったので、観光客も増えるかな?

隘門(台北・萬華)
 土地公。

隘門(台北・萬華)
 虎爺もいる。
 近くには、病気の猫が何匹か集まっている。正直言って、清潔感のある場所ではない。無理に登らずに、ただ下をくぐって眺めるぐらいが無難かも。

2010/06/19

仁濟醫院(淡北育嬰堂址)

仁濟醫院(淡北育嬰堂址)
 華西街を抜け、広州街に出る。そこで龍山寺とは反対の西方向に仁済医院という病院がある。写真は南側の旧館で、北側には高層ビルの新館がある。
 この病院の地に、育嬰堂という孤児院があったらしい。広州街の旧称も育嬰堂辺街だった。

 で、この病院を載せているのは、その入口の壁に、清代の石碑を埋め込んであるからだ。残念ながら鉄格子が降りていて見えないが。
 同治9年(1870)に完成した育嬰堂が、どの程度機能したのかは分からない。日本統治時代には廃止されたようだ。日本は西洋的制度を持ち込んだから、育嬰堂の理念そのものをいったん解体する必要があったのかも知れない(適当に言ってるだけ)。

 なお、仁済医院は育嬰堂をその母体と称している。断絶の有無はともかく、理念を受け継いだ形をとっているのは確かなようである。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 この媽祖廟の名は啓天宮。そしてこの地は料館口という。
 華西街夜市の近くにあるので、料館というと何か料理旅館の略称のようだが、全く料理とは無関係。ここにあったのは貯木場で、福建から運んだ建築材や、淡水河上流から運ばれた造船材などの溜まり場であった。東京でいうところの木場である。
 『台北歴史深度旅遊』には19世紀のものと思われる写真が載っており、木材が山積みになっている。木場は海運の民の土地なので、媽祖が勧請されることは自然の成り行きだったと思われる。

 なお乾隆29年の『続修台湾府志』では、渡頭街の媽祖宮が乾隆11年の創建とあるらしい(『大日本地名辞書』)が、そちらは台北天后宮の前身の新興宮のことだろう。
 料館媽祖啓天宮は咸豊年間(1851~61)に建立され、当時は淡水河に面していた。

※追記
 啓天宮でもらった「簡介」によれば、福建の商人が船中に媽祖を奉じていたとある。そして、あるとき快晴で波も穏やかなのに、船が回転した。そこで占いをして神の意志を聞き、ここに媽祖を祀ることにした、と書かれているように思われる(原文がちょっと難しい)。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 主祭殿。
 中央はともかく、左右に目を疑うようなものが。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 未だかつてない造型の千里眼将軍。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 こちらは順風耳将軍。自己紹介の文字をかけているのが、何となく痛々しい。だいたい順風耳は耳が良いのだから、グラサンよりやるべきことがあるのではないか。いや、そんな真面目なツッコミを入れてる場合ではないか。
 
 まぁ日本でも「鬼」はどんどんデフォルメされていった歴史があるけれど、たとえば仁王門にこんな像が安置されたら、きっと苦情殺到だろう。
 もちろんデフォルメ路線は子どものイタズラではなく、特定の政治的意図をもってなされている。そしてこういう媽祖信仰が認められてしまうのは、「現在の」信仰であるという証拠にはなるんだろう。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 媽祖像そのものには、特にどうというコメントもない。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)池府王 爺
 こちらは奥に祀られている池府王爺。台北では王爺信仰をあまり見かけなかったが、我々がたまたまそういう廟に出会わなかっただけだろうか。

 さて、この王爺は別名「番王爺」というらしい。
 山中で木材を伐り出す人々は「番害」に遭うため、この神に祈って免れようというものだと『台北歴史深度旅遊』にある。料館口らしい祭神ということになろう。

※なお「簡介」によれば、大正6年にここに遷したとある。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 ここも媽祖の祭礼が行われていた(上の写真にも経典類や数珠などが写っている)。我々が訪れた時間には、この日の行事(たぶん読経)は終わっていたようだが、湯圓を振舞ってもらった。非常にシンプルな白玉団子のぜんざいだ。
 見た目以上にボリュームがあって、たぶんカロリーもあったに違いないが、お祭りの場に加えてもらえた気がして、ちょっと嬉しい時間だった。

大厝口から料館口へ(台北・萬華)

華西街(大厝口)
 華西街のアーケード街は、桂林路から南の方が「夜市」っぽい(そもそも北側は昼から営業している)。この南側は、かつて大厝口と呼ばれた。豪邸が多かったのがその由来だそうな。
 少し南に下ったところに、名前と中身が一致しない「台南坦仔麺」がある(写真の左奥)。立派な海鮮レストランだ。
 まぁ初心を忘れないためらしいので、一致しないことはどうでもいいが、ちょうどその店の前を西に折れると、媽祖廟の存在を示す看板が立っている。

大厝口
 看板に従って路地を歩く。
 写真は華西街に向けて撮ったものなので、ばあさんの奥の突き当たりが華西街ということになる。

料館口
 梧州街を渡る。
 これだけ立派なアーチがあれば、道を間違うことはないだろう。

料館口
 梧州街を渡るとさらに道は狭くなる。そしてなぜかカラオケの大音響が聞こえたりする。お店の前に若い女性が立っていたりする。あまり一人歩きには向いてない雰囲気の道である。

料館口
 ようやくそれらしい場所に到着した。
 もちろん、後ろの廃屋っぽい建物が媽祖廟ではなく、敷地が狭いのでここに出しているだけだ。この位置から後に振り返れば、目指す啓天宮が鎮座している。啓天宮およびこの辺の地名「料館口」については次の記事を待つべし。
 ちなみに、遠そうに書いてみたけど、せいぜい5分の距離。

 そういえば途中で、謎の黒シャツ集団(今話題の野球賭博の胴元みたいな方面じゃなくて、ただの学生だった)に遭遇した。
 遠目には怪しげな集団だったが、近くで見たら服装は黒いだけでバラバラ。何人かが日本語の書かれたTシャツを着ていたのはガッカリした。
 hashiは日本語Tシャツの人を見かけると、わざわざ写真を撮ったりするが、derorenは「そんなもの着るぐらいなら謝将軍シャツでも着てろ」と思うわけである(謝将軍シャツはありそうで無いよね)。
 この黒シャツ集団は、梧州街のアーケードで休んでいるところまでは確認した。その後は不明。誰も興味ないでしょ?