前後編シリーズ完結編。以前の記事はこちら。
・祀典大天后宮(一) 天上聖母の宮概説
・祀典大天后宮(二) 寧靖王府の俤(前編)
正殿の裏側に位置する捲棚拝廊。なお捲棚とは、中脊樑(ありていに言えば大黒柱か)がない建築様式だ。ここには三官大帝が祀られている。天地水の三界の神である。
「一六霊枢」の扁額は同治年間(1862-74)のもの。『台湾廟宇図鑑』や『台南歴史深度旅遊』では「古拙」で見るべきものがあると記しているが、果たしてどうだろう?
大帝像が祀られる空間の左右に見える木彫は神龕の扉である。三川門のデザインにもあった夔龍に花瓶、牡丹が組み合わされている。
そして後殿。一般的にも後殿には正殿の祭神の父母が祀られるが、ここでも媽祖の父母を祀る。聖母の父母だから「聖父母庁」なわけである。
ここは、寧靖王宮の後庁であったとされる。
向かって左の壁の絵は、かなり劣化しているが潘麗水の「木蘭従軍」だという。
なぜここに木蘭なのかは、いろいろ意味深である。異民族と戦った男装の麗人の物語は、異民族に支配されている時ならば、抵抗のシンボルとなる。しかし恐らくは国民党統治時期の作だから、清や日本への抵抗というのはリアルではない。潘麗水がよほど国民党嫌いだったら……。
後殿の内部。どうも見るだけで気分が沈むのは、位牌のような神主牌のせいだろうか。神像なら気にならないのだが……。
まぁここに伝わる出来事を考えれば、それぐらいがふさわしいのかも知れない。
後殿は、寧靖王(朱術桂)と妃らが自殺した場所とされる(神主牌の中には寧靖王の碑位も混じっている)。
1683年(鄭氏政権では永暦37年)に、清軍は総攻撃をかけた。鄭氏政権は既に三代目の鄭克塽になっていたが、あっさり降服してしまったことは金庸『鹿鼎記』でも有名だ(日本では有名か?)。
この時期の資料はいくつかあるようだが、たとえば『福建通志』には次のようにある。
二十二年五月:澎湖港有物、状如鱷魚、長四五尺、沿沙而上、鳴声嗚鳴。居民競焼楮銭、送之下海。是夕復、登岸死焉。是月、大水土田冲陥。
夏六月:靖海将軍侯、施琅帥師、攻澎湖、抜之。二十六夜有大星、隕於海、声如雷。
二十七日 明朱術桂、在台湾、聞大師取澎湖。遂具冠服、投繯。妻妾従死者五人。
秋八月 鹿耳門水漲、大師乗流入。台鄭克塽帰誠、老幼歓迎台湾平。
十一月雨雪氷堅寸余。[台上気熱従無霜雪、八月甫入版図、地気即自北而南、運属一統故也。](『福建通志』巻第六十五)
六月に施琅が澎湖諸島を陥すと、それを知った朱術桂は二十七日に投繯(とうかん、首吊り)した。そして妻妾の五人(五妃廟の五人)が従ったとある。八月に、鹿耳門の水位が上がったのに乗じて施琅の軍は台南突入、鄭克塽は降服した。
上の書にはその程度しか書かれていないが、『増補大日本地名辞書』などによれば、死を決意した寧靖王が妃らにそれを告げると、まず妃妾が後殿の位置にあった後庁の梁(はり)で首を吊ったとある。その後、王は辞世の句を詠んで同じく首を吊った。
後殿の壁の向かって右側(つまり殿内の左側)にある書。この書の解説はあまりなされていないようだ。
最後は、後殿の隣にある観音殿。ここは寧靖王府の監軍府であったという。
死を決意した寧靖王は、資産を住民に分配して、王府を庵と改めた。その庵の本尊として観音像を安置したのが、この堂の成り立ちと伝えられる。その辺の伝承からは、寧靖王には媽祖を祀るつもりがなかったと読み取れるが、まぁどうだろうか。
航海の神である媽祖を祀るようになったのは、台湾平定に感謝した施琅によるものという。忌まわしい地の記憶を封印するに格好の神だったには違いないが、観音を主祭神にしても良かったのでは、と思えなくもない。まぁ他の寺廟でも観音はオマケの扱いだから、事情がどうであれ結局はこうなったかも知れないけど。
そんなわけで大天后宮についての前後編はこれにておしまい。
参考文献としては、本文中に挙げた『台湾廟宇図鑑』『台湾歴史深度旅遊』『大日本地名辞書』のほか、(電子版)四庫全書などを使っている。中央研究院の漢籍電子文獻資料庫内にある「臺灣文獻叢刊」も一部は参照したが、量が多すぎて持て余した。本気で研究するなら最低限見ておくべきだろう(今のところ、ここは趣味の範疇でござる)。
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