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2012/11/02

安平いろいろ


 derorenとhashiは、かつて島倉千代子ライヴに参戦した経歴を誇っているので、定期的にこういうタイトルがあらわれる。もちろん本記事に島倉色はない。あったら怖いな。

 さて、四度目の旅の記録も一応ラストに到達したので、当面このブログは開店休業となる。五度目を望んではいるけれど、いかんせん子連れはいろいろ難しい。現時点で予定はないとだけ記しておく。
 まぁしかし、完全に更新を止めるのも寂しいので、ポツポツと何かしら記事は載せていくつもり。

 『台湾史研究叢書』シリーズを紹介しようかと思ったりするけど、原住民関係は手に余るし、なかなか微妙。台南に関連する内容は、台湾読者向けも兼ねてどうにか載せたい。


 で、上の写真は安平の民家。この猫が可愛いのだ。


 

 例によって路地をさまよったので、この家の前を二度通ったのだが、二度ともこの姿だった。
 tomopeeも今なら大騒ぎだったろうなぁ(この時も反応していたけど)。


 

 犬もいる。
 台湾は野犬なのか放し飼いなのか、とにかく道端に犬をよく見かける。正直、それは赤子連れ旅行にとって余り良い状況ではないけど、安平では滅多に遭わないので大丈夫。

 台北はちょっとアレだよね。そもそもderorenは犬嫌いである。


 ガジュマルの木が祀られている。樹王公と呼ぶらしい。らしいというか、まぁ一般的な呼び名だけどね。
 写真で反射している部分に案内板がある。あちこち文字が剥がれていて読み辛いのだが、おおよそ次のような説明のようだ。

 この木は樹齢300年を超えるもので、伝えるところによれば鄭成功が台湾にやって来た頃には既にあった。ここは元は[石老][石古]石礁(フォントなし)で、鳥雀が余所から飛んできてどうのこうのという記述があるけど、 文字が剥離して不明。たぶん、この木にちなんだ地名がついたという話。
 で、いろいろ霊験があって、戦勝祈願とか災難除けなどの願い事に対して奇瑞を起こしたので、樹王公として祀られた。ここに参拝するには、近所で売ってる碗粿を供えろと締めくくられている。




 ちなみに隣は跳房子という建物。何かと思ったら、民宿らしい。
 今流行りの、古民家改築民宿のようだが、たぶん非合法なので紹介はしない。



 茉莉巷は、そこそこ有名なわりには人がいない。
 もっとも、我々の訪問はすべて平日なので、土日は違うのかも知れない。


 


tomopeeのこうしたベビーカー姿も、今となっては懐かしい。
 2012年11月時点でも、ベビーカーを卒業したわけではないけど、ここだったら歩かせているに違いない。
 ……ただ、こういう路地でも猛スピードのスクーターがやって来る危険性があるのが、台湾という環境なのも事実。交通マナーだけはどうにかしてほしい。毎回同じことを書いているゾ。



※なお、pixnetにて作業中。




2012/08/22

伍徳宮

伍徳宮
 妙寿宮の東寄りの路地をしばらくさまよったら、廟があった。
 目の前には船の姿が見える立地で、海を向いて建っている。とりあえず伍徳宮というらしい。

 ちなみに、右側の小さな建物には「伍徳宮 代天巡狩 金徳安」とある。内部は見えないが、王船が安置されているようだ。
 この廟に関して、derorenに予備知識は一切ない。ただし、事細かに由来を記した石碑が建っているので、以下はその碑文に依拠する。

伍徳宮
 現在の廟宇は1969年に建て替えたという。
 特筆するようなものではないが、それ相応の建物である。

伍德宮
 中心壇。見ての通りで、奥の様子はよく分からない。

 碑文によれば、伍徳宮という名は、伍位千歳を祀ることに由来するらしい。日本時代、宗教弾圧で廃廟となるのを避けるために王爺館と改名、民国になって元に戻したとあるから、それ以前から廟名はあったという説明になる。
 ただし同じ碑文には、主祭神は蘇府千歳だとも書かれてあったりする。derorenにはなかなかその辺の意味が理解出来なかったが、どうやら伍位千歳=蘇府千歳のようだ。

伍徳宮
 その蘇府千歳が手前にいた。中央壇の隠れた部分にも、別の像がいるのか、それともこの像が主祭神そのものかは分からない。というか、日本なら絶対ここに主祭神はいないけど、台湾ならありそうなのよね。

 さて、碑文によれば、康煕36年(1697)に福建省泉州の軍隊が将来したとある。
 これは清朝に、台湾防衛のために福建から安平に駐留した軍のことで、近所の妙寿宮とも同様の関係だ。
 そして伍位千歳の名は、ここから生じたと思われる。伍長という語に名残りを留めるように、伍とは軍隊を指す文字である。つまり軍の関係の王爺で、その名は蘇府千歳という話。

伍徳宮
 広利尊王。碑文によれば、元は烽火館に祀られていたものを、1900年に遷したという。烽火館は、清代の駐留兵士のために建てられた会館の一つで、現存する海山館などと同様のものだったと見られる。
 1900年は既に日本統治時代で、清軍の関連施設がそのまま存続することはできない時期だ。清軍と関連する神は遷して、会館を集会所に……といった事情があったのかも知れない。
 なお、同時に金門館の神々も遷されたという。媽祖や水仙尊王らしいが、どこに居たのだろう。

伍徳宮
 以上、全面的に依拠している石碑だが、その内容は乩童がまとめたものだという。碑文の前半に、「私が王爺の小法(童乩)となって五十年になるが……」と、自身の半生を振り返る文面があったりして、なかなか珍しい内容だ。

 またそこには、金門島の同名廟との関係が記されている。
 泉州から安平に向かった船は、嵐に遭って破損し、やむなく途中の金門島に停泊、修理することになった。修理は二十六日にも及び、その縁で金門島と安平の双方に、将来した蘇府千歳を祀ることとなったそうな。
 ただし実際には、両廟の交流は皆無だという。

 上の由来話は、民国88年正月に神を迎えて初めて知った内容と記されている。
 童乩がいる限り、常に新たな神話は生まれ続ける。そんな当たり前のことを感じさせてくれる碑文だ。読みづらいけど楽しい。

2012/08/18

妙寿宮(二) 朱府千歳の王船

妙寿宮
 上の写真は妙寿宮前を通る道である。写真の左側に妙寿宮がある。
 derorenがこの写真を撮った時は、ただ単に町並の記録に過ぎなかった。

妙寿宮
 が、実はここに、妙寿宮で最も有名な遺物が安置されていたのだ。
 ありふれた店舗の並ぶ上の階が、まさか廟の一部だとは思うまい。

妙寿宮
 入口に立つ。このように階段を昇らなければならない。
 正直、昇るだけでも暑さでかなりの消耗がある。tomopeeを下に留めて、大人二人が交互に見ようかと思った……けれど、二度手間だ。どうせなら短時間に済ませようということで、三人で昇る。

妙寿宮
 どぉぉーーーーん。
 中には船である。オモチャではない、正真正銘の船がある。

 この船は「王船」と呼ばれるもの。王爺(千歳神)が乗る船だから王船と呼ぶ。台湾はもちろん、本来は福建など大陸側で盛んに流された船である。
 一応の建前としては、代天巡狩、つまり天の代理で国内を巡視する役目を与えられた王爺を乗せた船であり、流れ着いた場所では新たに王爺を迎えて祀るという形になる。

 日本統治時代の記録で、苗栗に流れ着いた王船の話を読んだことがあるけど、その人の記録によれば、村人は神の来訪を喜び、新廟を建てて祀ったそうな。
 ただ、その人自身は信仰にあまり理解がなさそうだから、果たして額面通りに受け取って良いのかどうか。

妙寿宮
 龍の目玉が描かれ、その後ろに「朱府千歳」とある。この船に乗って来た王爺は、この朱府千歳であった。

妙寿宮
 後ろから。帆船で、ちゃんと舵もある。何度も言うが、これは船のようなものではなく、ちゃんと航行可能だ。
 日本でも、神を川や海に流すことはあるけれど、乗り物がここまで本格的な例はあまり聞かない。そもそも、厄介な神を海や川に祓う場合は、無事に航行しないことが望ましいわけだし。
 まぁ少なくとも、海の藻屑と消えて欲しいわけではないようだ。

妙寿宮
 後ろ。「金萬安」の文字が見える。

 『台南歴史深度旅遊』、また現地案内板によれば、明代の末期に朱府千歳が船に乗ってやってきたという。人々はこの神を祀り、厄除けの神として信仰を集めた。そして1755年に妙寿宮の廟宇を建てるにあたって、保生大帝とともに祀ることとした。
 1867年(同治6年)、廟宇のそばに王船室を造ることとなった。そこには古式に則った壮麗な船が置かれ、金萬安號と命名された。こうして朱府千歳の神威はさらに高まり、台南から高雄(打狗)、屏東(阿猴)に至る広い地域の信仰を集めた。

 で、最近になって道路拡張のために移転したわけである。

妙寿宮
 船の内部はこんな感じ。動くホテルならぬ、動く廟である。
 もっとも、動く廟という意味では、神輿や輦と基本的には変わらないものだ。唯一異なるのは、神輿や輦と違って、人手で動かすわけではない点。まぁそれが大きな違いだけどね。

妙寿宮
 反対側から。龍の目が目立つ。この船そのものが龍ということだろう。

妙寿宮
 小舟も用意されている。木龍光彩の文字が見える。

 なんというか、正直な感想を言うならば、神威を感じるというよりも薄気味悪さが先立ってしまう。この船が実際に航海したわけではない点を差し引いても、恐ろしい神が乗るべき場所なのだし。
 もちろんここには空調もない。窓は開け放たれているので、息苦しいとまでは言わないけど、暑い日中に長居は難しいと思われる。
 いやまぁ、一般人は5分もあれば十分だろうけどね。

2012/08/05

妙寿宮(一) 蝙蝠石柱と保生大帝

妙寿宮
 この日は台南最終日。なので安平古堡安平樹屋を見学した我々は、再び古堡の入口まで戻って、タクシーをつかまえた。首相大飯店に戻ってシャワーを浴び、12時にチェックアウトである。
 ちなみに、安平で流しのタクシーを拾うのは極めて困難だ。なので、古堡に客を乗せて来たタクシーをつかまえるのが合理的。たいていのタクシーは陳家蚵捲前の交差点を通過するので、その辺で待ち構える手もある。

 それはさておき、午前中の日程を決めた時点では、午後は未定だった。しかし、久々に安平を歩いたら、やはり楽しいのだ。このまま帰るなんて勿体ない。陳家の蚵仔煎も食べたい。そんな欲望がふつふつと湧いて来た。
 結局、首相大飯店に荷物を預けて、再びタクシーで安平へ戻った。これを金の無駄と思う人もいるだろうが、千円払って休息したと考えればいい。暑い台南の街歩きなのだし。
 タクシー往復なんて600円ぐらい。外帯して部屋で飲んだ鑫昇鮮饗茶の波霸奶茶の値段を足しても、大人二人で800円に達しないぜ。


 前振りが長くなった。
 こうして安平に戻った我々は、とりあえず陳家で飯を食おうと思ったわけだが、ちょうど昼飯時とあって行列ができていた。赤子連れで炎天下に行列などあり得ないので、先に近所を歩くことにする。
 陳家の十字路からは、延平街もすぐだし、もちろん古堡も目の前。しかし我々が向かったのは、それらとは反対側だ。徒歩1~2分で、この廟に着く。妙寿宮という。

妙壽宮
 この宮の建物は三連式というやや特殊な構造だと『台南歴史深度旅遊』にある。その辺は(二)以降で紹介する予定。
 三川門部分に立つ石柱は、龍柱ではなく蝙蝠石柱である。実は台湾で唯一だとか。

妙寿宮
 これも蝙蝠石柱。

妙寿宮
 内部はガランとしているように見える。これは三川殿から正殿までが、わずかな段差だけでそのまま続いているからだろう。中庭がないのが三連式の特徴らしい。

妙寿宮
 主祭神は保生大帝。例によって、奥に隠れて見えない。
 日本の寺廟は、わざと隠すことで神秘性を高めるが、台湾の場合は単に他の神像に隠れている。もちろん、主祭神を隠すように前に陣取る神は、それなりに重要な存在なのも事実だけどね。

 妙寿宮は、伝承によれば鄭氏政権の頃に遡るとされ、清代には安平六部社の一つとして栄えたという。清代の安平は、福建の人々が台湾防衛のために駐屯していた。その六つの集団が、それぞれ故郷の神を祀ったのが六部社で、妙寿宮も泉州の人々が信仰した宮であった。
 ちなみに、清代にはここが安平の港口にあたり、台湾にやって来た商船の積荷は、必ずこの宮の前を通ったらしい。またこの宮の前庭は広く、子どもたちが遊ぶ場だったので、通称は囝仔宮だった。

妙壽宮
 李府千歳。医術の神である保生大帝の他に、千歳神(王爺)も祀られている。
 妙寿宮と王爺の関係は、(二)以降で紹介する。

妙寿宮
 蘇府千歳。

妙壽宮
 説明がなく不明。保生大帝かとも思ったが、悪鬼を踏みつけているから守護神かな。

妙寿宮
 他にも沢山の神々がいる。玉皇も祀られているぞ。

 こうして紹介しても、一部の廟マニアしか興味をもたないかも知れない。しかし妙寿宮には、とっておきの秘密兵器が隠されている。その辺の紹介は(二)以降で。たぶん(三)まで書くだろう。
 お盆の帰省などいろいろあるので、いつになるかは分からないが、気長にお待ちくだされ。

2012/06/24

修復された開基武廟

開基武廟
 なんだかんだと、ここも毎回訪問している開基武廟。大天后宮を出てどこかに行こうとすれば、必ず通りかかるのだから仕方がない。
 しかし今回は、これまでとは異なっている。そう、長らく続いていた社殿の修復工事が終わったのである。

 ガレージをすり抜けていた過去と、写真のような立派な入口をくぐるのでは、同じ廟といっても全然印象が違う。台湾最古の関帝廟としては、やはり小さいけれど、格式のある門だ。

開基武廟
 門には門神がいない。祀典武廟や大天后宮もそうだが、社格が高いとこういう形になるそうな。

開基武廟
 ともかく、全体的には新築みたいになった。古びた建築が好きな人はがっかりだろうが、装飾を剥がれ落ちたままで放置するなんて、神仏に失礼ではないか、と思うべきだ。

 なお、扁額には光緒丙子年(1876)とある。これとは別に、再建の寄付者が掘られた碑があったが、そちらも同年だ。この年に大規模な修復がなされたのは確かだろう。
 ただし、現在の姿はもっと新しいものではないかと思われる。第二次世界大戦で、連合軍の空襲に遭ったらしいので。

開基武廟
 初めて足を踏み入れた、正殿の内陣。
 狭くて奥行きのある、一般的な廟の構造だ。

開基武廟
 赤ら顔の関帝は、なかなかいい表情だ。『三国志演義』の関羽って感じだ。
 というかまぁ、神像を元にビジュアルが考えられて流通しているってのも不思議な話だよね。


開基武廟
 馬使爺と馬。これを見ても、赤兎馬は連想できない。

 我々が訪問した時、西洋系の外国人男性が、この像を写真に撮っていた。そこそこマニアックな廟にやってくるほどだから、きっとあの男性は、日本と台湾の区別もついてるに違いない。
 ……現在はインターネットでたやすく他国の情報が手に入る時代。
 それこそSteely Dan"Aja"みたいに、東アジア各国がごちゃ混ぜになった「アジア」なんて、もう笑い話だよね。おそらくは。

開基武廟
 下壇将軍(虎爺)。後ろのお面も気になる。

開基武廟
 おまけで、後殿の虎爺。過去の訪問では、後殿しか見ていないので、初めて比較検討する栄誉を得たぞ。比較する意味もないけど。

 それにしても、台南の(あるいは台湾の)関帝廟は、財神の要素が希薄だと思うのは私だけだろうか。守護神、そして学問の神という印象が強い。
 日本で流通する一般常識は、特に道教関係では全く役に立たないと、今さらのように思う。

2012/06/21

米街廣安宮

米街広安宮
 何度も通り過ぎているが、初めて拝んでみようと思った広安宮。
 赤嵌楼からすぐ、写真でも分かるように小吃街で有名な場所だ。

 この辺の旧称は米街という。清の時代に、その名の通り米を扱う店が並んでいたことに由来する。ただし、日本統治時代に新たな都市計画道路、つまり民族路がつくられたので、清代の面影はたぶん残っていないと思われる。
 民族路の建設では、広安宮も移転を余儀なくされたが、他にも被害に遭った宮は多かったようで、特に共善堂はいったん廃絶したらしい(共善堂については過去の記事を参照)。

 その代わりと言ってはなんだが、広安宮の廟前広場は、屋台エリアに変貌した。現在も隣に存在する、石精臼点心城(写真の左側)の原型である。
 ちなみに、以前に紹介した石精臼蚵仔煎阿憨鹹粥は、ここからビッグになって巣立ったわけだ。

米街廣安宮
 ともあれ、現在の広安宮はとても簡素だ。廟というより物置だ。小吃店の繁盛が還元されていないのだろうか、とも思うが、そもそも現在の点心城本体はイマイチ流行ってる印象がない(ちなみに、赤嵌楼前の度小月もここの一員である)。

 まぁともかく、ここの主祭神は池府千歳。例によって、正面で邪魔をする線香立ての奥に鎮座している。
 子連れでちょろっと覗こうとした我々だが、親切にもパンフレットをいただいたので、それを元に説明すると、池府千歳は池名然という明代の官僚で、民に慕われていた。やがて福建の漳州に転任したが、疫病を除くために自らの身を犠牲にして、顔が真っ黒になって死ぬ。その姿を見た玉皇上帝が、彼を疫病を払う神とした。
 で、鄭成功に従った人々がこの神を奉じて台湾に渡ったとある。

 ちなみに、米街に廟を建てたのは1723年とされ、鄭氏政権下ではない。そもそもこの辺には、寧靖王府の鼓楼があったと伝承されているらしい。まぁその辺はパンフを読んでもよく分からないので、そのままにしておく。

 パンフによれば、池府千歳の左奥の像は、池府夫人像のようだ。パンフでは白い顔なのだが、煤けて真っ黒になっている。
 同じくパンフの「広安宮伝奇」によれば、女性の崇拝が厚いという。「できる男の背後にはできる女がいる」的な話らしい。日本ではなかなかない発想だ。

米街広安宮
 王爺廟につき、もちろん謝将軍。ベロ出し正統派だ。
 唐突に思い出したが、ベロといえばスピッツ「テレビ」だね。なんだかいろいろ危ういネタだね。

米街廣安宮
 范将軍。
 中央の池府千歳らも含め、王爺廟は異常死者の集団だ。文字にしてみると、恐ろしい廟である。

米街廣安宮
 虎爺もどこか垢抜けない。さらに五営将軍はもっとアレだったので、こちらは載せないでおく。

 なんにせよ、死に様を神像に表現するという発想はすごいと、今さらのように思うわけである。

2012/06/17

祀典大天后宮でいろいろ祈る

祀典大天后宮
 赤嵌楼を出て担仔麺を食べ、ついで我々3名は祀典武廟を拝拝した。ただし祀典武廟は過去に何度も紹介したので、ここでは割愛する。
 さて、祀典武廟を拝んだとなれば、当然のように大天后宮も…ということになる。こちらは武廟以上に詳しく紹介済みだが、tomopeeに絞って書こう。

 なお、民権路の記事を書いた時にはすっかり忘れていたが、考えてみれば祀典武廟と大天后宮も、4回すべて訪問している。まぁなんたって、台南の中心だからね。
 初心者向けに説明すると、写真のような電飾は、何か祭事がある時のみの特別なもの。この場合は、媽祖の誕生日(旧暦3月23日)を祝っている。
 台湾の神々は、節電にはどう対処するのかなぁ。地面を杖でついたら電気が湧いたりしたらいいのにね。

祀典大天后宮
 一応、記念撮影もしてみた。tomopeeは余所を向いているが。

祀典大天后宮
 この日はごく普通の月曜日なので、廟内は静かである。
 とりあえず我々は、いつも通り帰国の無事などを拝拝した。無事に帰国したので、御利益があったと思われる。

 なお、写真に見える人々は、我々ではないので念のため。

祀典大天后宮
 一通りの拝拝を済ませ、最後に釈迦三尊の前に来ると、そこにはいかにもな像があった。
 これはtomopeeにも拝拝させねば、と手をのばさせている。

 この像は、「元宝」を手にした麒麟童子。元宝を撫でながら、大金持ちになることを願うものである(日本にもあるよね)。
 やがて大金持ちになって、日々遊んで暮らせる日が来た時には、あーこれって台南の童子像のおかげだったよなー……っと、しみじみ思い出す予定である。
 あ、もちろん奥に見える金鶏にも願ったゾ。ああ欲深い。

2012/05/29

大人廟と鄭成功伝承

東門路高架下
 台鐵の線路を地下通路でくぐり、東門円環に向かう。
 どうということのない高架下の道だが、暑い。deroren独りだから、まぁどうにでもなるが。

藍雪花
 ルリマツリ(藍雪花)が咲いていた。日本名はマツリカ、要するにジャスミンに似ているという意味だが、分類上は全く関係ないので、台湾名の方が良い感じだ。
 ちなみにこの花は熱帯植物というほどではなく、日本でも普通に栽培されている。ただし、日本の露地で3月に咲かせるのは難しい。

大人廟
 そうして東門円環の外れに出ると、小さな廟があった。正確にいえば、閉鎖されているので廟「だった」建物を発見したというべきか。
 大人廟という、ちょっと珍しい名である。

大人廟 在臺灣縣保大里,其神聰明正直,亦是代天巡狩之神。(蔣毓英編『台湾府誌』)

大人廟在臺灣縣保大里。廟宇最為弘敞。(高拱乾編『台湾府志』)


 17世紀の資料には、既に「大人廟」が載っている。「代天巡狩」とあるので、いわゆる王爺系の神とみられるが、とりあえず場所が全く異なるので、ここのことではない(保大里は帰仁区の地名との説がある)。
 現在の祭神は朱府千歳ら三神なので、間違いなく王爺廟だが、台南市の案内板では、1716年の創建とされる。やはり、上の大人廟とは別という認識のようだ。

 しかし清代の末期、市街の自衛組織を廟単位で作り上げた際には、この大人廟が、八協境の主廟となっている。あの東嶽殿をおさえてである。19世紀のここは相当な大廟だったらしい。
 その後、東門円環を造る際に敷地が削られ、お金がなく廟宇の修復もままならない状況が続いたらしいことは、大人廟を取り上げたブログ記事で追うことができる。雨漏りがひどいと貼り紙がされている写真もある。
 従って、このように閉鎖状態になったのも、神像を安置できる状況にないからだろうという想像がつく。


 ……と、ここまでは無難な話題。
 ここからはやや眉唾な話題。


 この「大人」が何を意味するか諸説あるが、実は鄭成功を指すという伝承がある。王浩一編『在廟口説書』は、その説に乗って面白おかしく廟の由来を語っている。
 まぁ日本でいうところの「隠れキリシタン」みたいな話だ。「隠れキリシタン」は本当にあったから、比較するのもどうかと思うが。

※隠れキリシタン:17世紀,在日本基督教的信仰被禁止了。在那裡為佛教寺院的身姿偽裝教會,他們隱約地隱藏保持了信仰。「隱藏切支丹」,是那樣的基督教徒的名稱。


 同書の言い分はこうだ。
 鄭成功の軍は、普羅民遮城(プロヴィンシャ城、後の赤嵌楼のこと)のオランダ軍を降伏させたわけだが、両軍が交渉した場所は、崙子頂という地域であった。
 なので人々は鄭成功を讃えて、崙子頂に彼を祀った。しかし清代になって、鄭成功を祀ることがはばかられるようになったため、王爺廟にカモフラージュした。それが、この大人廟なのである、と。
 具体的に、朱府千歳は鄭成功(国性爺だから「朱」姓)、李府千歳は鄭経(「李」は「二」と音が近いから、二代目)、池府千歳は鄭克臧/土(鄭経の子。正しくは臧の下に土)だとも記してある。

 鄭克臧/土は、弟の鄭克塽との跡目争いに敗れて殺された者。鄭克臧/土は有能な若者だったが殺され、無能な鄭克塽が政権を滅ぼしたという物語が、台湾ではよく語られている。日本でいうところの判官びいきである(延平郡王祠にも祀られている)。
 なお、彼が池府千歳なのは、殺害後に彼の首が海に捨てられ、やがて水中から引き揚げられたから。つまり池=水+也だそうな。こじつけにも程があるゾ。

※判官びいき:12世紀末,比勝者源賴朝,同情集聚了在敗者源義經(判官)。「對弱者(判官)表示同情」,是從那裡產生的諺語。

東門円環
 ともかく、台南市政府は最近になって、東門円環に石碑を建てた。それはまさに、ここで鄭成功がオランダ軍を説得して降伏させたという碑である。
 derorenはそこまで知らなかったし、あの円環の中心に行く気もなかったので確認していない。が、上の写真を見ると、右側に石柱が建っている。大きさから考えても、たぶんあれだろう。

 日本には源義経の古蹟がたくさん存在する。義経が訪問していない地域にも点在している。ここは、そんな感じで生まれた「伝承の地」なのかなぁと思うderorenである。
 どうせなら、鄭成功の霊が誰かに寄り憑いて語ったという話でもあればいいのに。


※日本,也有這樣的口傳。
 源義經,在與源賴朝(哥哥)作戰的末了,渡行了蒙古。並且改變了名字。那個名,是「成吉思汗」。
 台灣的諸位,是不是能相信這個話?