2009/05/06
烏鬼井と大銃街(※大幅に解説追加)
清の時代には廓があったらしい大銃街は、崇安街の西側にある。台南を守る大銃(大砲)があったからこの名がついたのだとか。
かつての繁華街の中心には、埋められてしまった井戸が残る。その名は烏鬼井。オランダ統治時代に掘られたという古い井戸で、三級古蹟に指定されている。
この名の由来は、夜になると黒い何者かが這い出て来るという伝説があったからで、それはオランダ人が黒人奴隷を酷使して掘らせた祟りではないか、ということらしい。景色はまるっきり中国……というより昔の日本なのに、さすが台南の伝説は国際的である。
烏鬼井の周辺は、雰囲気のある路地だ。
しかも我々はここで、流暢な日本語を話す老人と会ってしまった。いったいここは何時のどこの国だろう? そんな感覚。
探せば日本家屋もある。
地図なしには判りにくいけれど、あちこちに道標はあるので心配はないぞ。
※8月15日に再訪。もちろん、眠りについた井戸には何の変化もない。というか、改めて撮影した写真を見比べても、何も変わっていない。さすが熱帯だ。
さて、烏鬼井についてはその後、吉田東伍『大日本地名辞書』(増補版)などを読む機会があったので多少補足しておく。
「烏鬼」とは中国人が黒人を呼ぶ時の一般的呼称であったらしい。もちろん、絶対に黒人を見ていないはずの杜甫の詩にこの表現があるので、本来は闇に蠢く鬼の意味だろう。紛うことなき差別語である。
それはともかく、台湾において「烏鬼」地名はここ以外にいくつかあるそうな。ここから近いのは永康市の烏鬼橋。永康市のホームページにも書かれているので、少なくとも存在しているか、遺跡の場所は分かるだろう。
『大日本地名辞書』には烏鬼埔山、烏鬼洞も記される。烏鬼埔山は高雄県(かつての鳳山県)に、烏鬼洞は高雄市の沖合にある小琉球(大琉球、つまり沖縄に対する小琉球で、南部では有名な観光地)にあるそうだ。ただしその性格はかなり違うらしい。つまり、烏鬼井と烏鬼橋という名は、黒人奴隷が労働に従事した事情を示すのに対して、後の二ヶ所は烏鬼の居住地であるという。
とはいえ、現在の台湾に黒人の子孫と称される人はいない。もちろん多少の混血はあった可能性があるけれど、居住したにしては痕跡が全くないのが不自然である。
吉田東伍はそれを次のように推測する。高雄近辺の「居住」地は、居住地と呼べるようなものではなく、オランダ軍の撤退で行き場を失った黒人奴隷が、身を隠した場所であった。そして鄭氏政権は彼らを保護せず、殺戮したのであろう、と。
実際、烏鬼洞とは黒人奴隷が隠れていた洞穴で、そこに火を放たれて皆殺しにあったという伝承がある。小琉球に黒人がいたというまともな記録はないのだから、黒人奴隷が哀れな末路を辿ったことは間違いなかろう。
ただし、黒人奴隷を最終的に殺戮したのは誰なのか、という点は残る。今回ネットでも調べてみたら、小琉球の烏鬼洞についてこのような文章を見つけた。「小琉球原住民的消失一重拾失落台灣歷史之一頁」という論文の一部である。
そこには、小琉球にイギリス船が停泊した時に、烏鬼人が略奪を働いたのでイギリス人が彼らを捕らえようとし、彼らの逃げ込んだ洞穴に火を放って皆殺しにしたという説が紹介される。この場合、殺戮者はイギリス人である。
しかし吉田東伍は「泉州人」が放火して殺したという。泉州人とは福佬人もしくは客家人のことだろうから、台湾の人によって殺されたことになる。吉田説は『鳳山県採訪冊』に依拠しているので、かつて台湾でそういう説が伝えられていたのは確かだろう(『鳳山県採訪冊』は上のリンクでも紹介されており、泉州人が殺したとするのはただ一例らしい)。
現在の台湾にとって、まして観光地の小琉球にとって、自分たちが殺したという伝承は都合の悪いものである。まぁ元から曖昧な伝承に過ぎないので、いろいろな説が流通していたのかも知れないが、やや作為的なものも感じなくはない。
上で紹介した論文でも、泉州人が開拓の際に……という説を穏当としているようだ。ただし、外国船がどうこうという伝説は、台湾だけでなく東南アジア各地にあるようなことも書かれているので(斜め読みで読解が怪しいので、各自で確認してくれ)、もっと広範囲で調べる必要がありそうだ。
そういう目で見直せば、烏鬼井はまだ平和な遺蹟である。もちろん、夜になると黒い何者かが這い出て来るなんて伝承は、黒人に対する差別意識を証明しているが。
鄭成功を英雄視するなかでは、オランダ人は一方的に非難される。しかしその奴隷だった黒人たちが、あるじの敗退で酷い目にあうというのは、どうにもやるせない話である。
井戸の近くの路地。これは八月の写真である。
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