ラベル 北港 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 北港 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012/12/28

台南歴史年表(その2)

 前記事の続き。
 鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。


1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
 福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
 台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。

 先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
 そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
 余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。

 中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
 その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。

 約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
 対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
 従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。

大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
安平延平街(大員街)
海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
広済宮(同上)
文朱殿(同上)
台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
台湾県城隍廟(台湾県に由来)
台北隘門(残念ながら破壊された)


1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
 朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。

 鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
 で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
 ……が、すぐに大陸から施世驃施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。

 この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
 いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
 なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。

 もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
 この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
 もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。

 なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
 数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。

大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)


1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
 蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。

 日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
 しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。

 蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮祀典武廟など)の修復に努めたという。
  また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
  ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。

  法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。

法華寺
大天后宮
祀典武廟


1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
 蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
 原住民抑圧策としての屯田などを推進している。

 彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
 また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
 離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。

三官廟(元は彼の屋敷だったという)
接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
大天后宮観音殿(観音像を寄進)
開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
祀典武廟(観音像を寄進)
台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)


1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
 林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。

 彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
 呼応した勢力によって淡水鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅鹿港などごくわずかであった。
 朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。

 鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。

 この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
 日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
 ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。

 まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
 とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
 林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。

 ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
 台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
 なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。

 林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。

 ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
 黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。

北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)


 さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
 台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。

2011/09/06

オッサンの魂とtomopeeの邂逅

ケーキみたいな離乳食
 気がつけばtomopeeは6ヶ月を迎えた。
 昨今の日本国では、6ヶ月をハーフ・バースディ(half birthday)とか呼んで祝うらしいぜ。正直言ってderorenには全くピンとこない話だが、hashiがケーキ風の離乳食を作ったので、親バカっぽく載せてみる。
 食べ物の写真は難しいなぁ。

 当ブログ的には、そんなことより台湾行はいつだよ、という話。しかしhashiの職場復帰もあったりして、なかなか難しい。
 とりあえず台湾成分を少し与えようと、一枚の生写真と記念撮影したぞ。

朝天宮の写真と
 tomopeeの左で微笑んでいるのは、北港朝天宮が最近建てたという巨大媽祖像である。
 この像は朝天宮から離れた場所にあり、去年の旅行で我々は見ていない。なのになぜ写真が手元にあるかといえば、もらったからである。

 朝天宮の内部で拝拝の様子を見学していた時、hashiの元にオジサンがやってきて、早口でいろいろ話しかけるという出来事があった。
 hashiは大学で第二外国語に中国語を選んだという輝かしい過去をもつが、もちろんさっぱり聞き取れず、愛想笑いでごまかすのみ。すると別れ際に、オッサンは一枚の写真を手渡したのだった。

 オッサンはきっと、「オイラの街のすげぇ神さまだぜ!」と自慢げに朝天宮媽祖を紹介してくれたに違いない。そんなオッサンの熱い魂を次世代に伝えていくのも、我々の役割……だったっけ?
 まぁ難しい話はともかく、tomopeeがこの写真と記念撮影した事実は、こうして残る。読者の皆さんは、今まさに歴史の証人となったのだ。

ケーキを食べる?
 抹茶入りチーズケーキに興味津々のtomopee。
 一応これはtomopeeのお祝いと称して買ったので、形だけ記念写真を撮ろうとしたわけだが、自分が食えないという事実に憤懣やる方ない主役は、この後豪快にひっくり返したぞ。



 拍手コメントなどいただいた皆さんへ。
 こんなありきたりな親バカ日記を御覧いただいていることに感謝いたします。

 当ブログはtomopee育児日記ではなく、あくまで台南の魅力を伝えるブログですが、彼の成長過程が台南好き少年への成長でもあればいいなぁ、なんて思うわけでござんす。小っ恥ずかしいのでおしまい。

2011/02/15

北港朝天宮への進香団(十九) 大林朝傳宮編

大林朝傳宮の進香
 進香団シリーズも、一応これで最後となる。
 実は5月3日の進香団を一部端折っているので、もう少し書こうと思えば書けるのだが、このタイミングで3日に戻るだけのエネルギーはない。いずれ気が向けば……という感じ。

 で、最後に見学した一団は、撮影位置が門側ではなくなっている。これはもうタイムリミットで、帰ろうとした関係である。

大林朝傳宮の進香
 旗には高雄市とも書いてある。けれど白帽子の文字から朝伝宮と判断した。高雄から団体で向かうのはしんどいだろう。
 なお、絶妙な位置にオッサンが写り込んでいるのは気にしないでくれ。空の色で塗ってしまおうかとも思ったが、そこまで処理する価値もないからモザイクで済ませた。

大林朝傳宮の進香
 順風耳の行進。横から見ると何とも味わい深い。

大林朝傳宮の進香
 こうして先触れが通り、いよいよ神輿が現れた。
 ここは朝天宮の境内のわずかに手前の車道である。まぁ要するに三叉路の中心部分だが、神輿が通過しなければならない儀礼は、必ずここで行われる。他の場所でやったら大変なことになるから当然だが。

大林朝傳宮の進香
 手前の人々の中に、耳に手をあてている人が見えるだろう。
 そして神輿の下には赤いもの。黄色の服のメガネの人が、今にもやらかそうとしている。

大林朝傳宮の進香
 そして立ち上がる火柱。
 これはどこかの国のデモではない。

大林朝傳宮の進香
 キノコ雲が発生する。
 何というか、昔々のタイムボカンシリーズでよく見た光景を、リアルに経験した瞬間である。これが当たり前という感覚は、ちょっと嫌だなぁと思う。

大林朝傳宮の進香
 やがて大量の灰と煙が群衆を襲う。毎度のことだが、ここまでしなきゃいけない理由がよく分からない。
 かつて京都市内某所の祭礼を見学した時、神輿を回転させる際にバス停のポールを折ってしまった瞬間、大歓声があがったのを思い出す。神輿行列には、何となく派手で暴力的なものを求めてしまう気分が確実に伴っている。
 普段はできないことが、祭礼だからという理由で可能になってしまう。多少はそういう要素がないと、祭は続かないのかも知れないなぁ、と思いながら朝天宮を後にしたderorenであった。

2011/02/09

北港朝天宮への進香団(十八) 大林鎮水汴頭朝興宮編(六)

水汴頭朝興宮の進香
 その(五)で終わると言いつつ、まさかの続編。これは帰路の様子である。
 まずは両将軍の様子。媽祖が対面を果たしている間、守護役の将軍たちは門のところで休んでいる。ついでに十家将もくつろいでいた。

水汴頭朝興宮の進香
 対面を終えた媽祖たちが、バケツリレー方式で移動する様子。
 注目してほしいのは、右端に写っている香炉である。

水汴頭朝興宮の進香
 媽祖像などは、一つひとつこうして香炉をくぐって行く。
 以前に紹介したように、媽祖像が中で対面を果たす時にも、火渡りを行っている。内部の香炉は帰る時に一度のようだが、ここでは往復二度通過する例もあった。

水汴頭朝興宮の進香
 そうして神輿に神々が戻ると、帰路につくことになる。
 家将は軽く舞って去る。

水汴頭朝興宮の進香
 両将軍もぐるぐる回って、そして帰っていく。

水汴頭朝興宮の進香
 サービスカット。
 千里眼ファンのために全身ショットだ。マニア垂涎の一枚である。

水汴頭朝興宮の進香
 もちろん、もう一組の将軍たちも最後のダンスを披露し、ようやく媽祖とその一行の長い一日は終わることになる。
 長いといっても、北港で過ごした時間はせいぜい二時間だと思うけどね。

 さぁ、そんなわけで完全に時宜を逸した我々のリアルタイム紹介も、間もなく北港鎮編を終えて帰路となる。
 その後は少しマニアックな記事を幾つか書く予定。東嶽殿や玉皇宮の話や、媽祖信仰のことをじっくり書こうと思う。
 なお、最近も過去の記事を幾つか書き直している。府城隍廟と安平古堡については、基本データが欠けているので書き足した。他のガイドに任せた形の赤嵌楼についても、いずれ増補する。
 ついでに、googlemapもボチボチ更新中。ブラウザによってはうまく見れないようだが、暇な時に更新するぞ。

2011/02/01

北港朝天宮への進香団(十七) 台南慈興宮編

慈興宮の北港朝天宮進香
 まだ続く進香団シリーズ。宏天宮の橋本真也がハッスルポーズを決めている頃(そんなポーズはしてない)、後ろで出番を待ちわびていた次なる刺客である。
 まぁ旗持ちのオッサンのゆるい歩きっぷりを見ては、何の緊迫感もない。が、ここはここで驚くべき行列には違いなかった。

 なお、旗の後ろには小さな神輿が見える。何と、あの例の椅子だけを載せた神輿だ(手轎)。神座には毎度驚かされる。いや、さっき書いた「驚くべき」はこれじゃないけど。

慈興宮の北港朝天宮進香
 驚くべきは、これだ。
 なんとマーチングバンドが加わっていたゾ。

慈興宮の北港朝天宮進香
 幾多の祭儀と同じく、門前の庭で演奏するのだ。もう何というか、格好のわりに若くなさそうとか、そんな些細なことは問題ではない。台湾の祭礼はなんて発想が柔軟なんだ、と驚かずにいられようか。

慈興宮の北港朝天宮進香
 おばちゃんパワーなのか、みんな音楽好きなのか知らないけど、いつの間にか人でギッシリになった。すき間から覗くしかないので、カメラも縦向きばかりになってしまう。

 しかし、そんな狭い視界にもしっかり写っているオバサン。一番左でスーパーのカゴを抱えているのは、台湾の廟ではおなじみの線香売りである。
 ここは花売りは少なく、数人の線香売りがうろうろしていた。我々にも何度か近づいて、「またお前かよ」みたいに離れていく繰り返しだ。我々のように拝拝目的でない存在がうろうろしてる方が悪いんだろうけどね(ただし、もちろん我々も拝拝はしてるゾ)。

慈興宮の北港朝天宮進香
 バンド演奏が終わると、今度は一転して鄙びた演奏とともに動き出す。
 ただし、このオッサンの帽子は「新荘慈祐宮」で、後ろの神輿などと違っている。別の一団なのかは定かでない……けど、台北郊外の新荘からはかなり遠いので疑問である。

慈興宮の北港朝天宮進香
 最後は神輿。ちなみに台南の慈興宮は、安南区の北東端にあるようだ。

 この写真は、神輿をどのように担いでいるのかよく分かる。
 日本の神輿とは明らかに異なることには、すぐに気付くのではなかろうか。

慈興宮の北港朝天宮進香
 手前の担ぎ棒は、神輿からのびる棒と縄で括り付けてある。つまりこれは、本来は腰の位置で持つしかない神輿を、肩で担げるように工夫されているのだ。
 媽祖の神輿は、正確にいえば山車なので持ち上げることはできない。しかし肩で担がないと長い時間はとても持てないので、こういう方法が普及したのだろう。なかなか考えられてるもんだなぁ、と素直に感心した。

2011/01/29

北港朝天宮への進香団(十六) 中哺宏天宮編(二)

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 その日、我々は台湾でまさかの破壊王を見た!!
 俺も男だ、勝負だ! 橋本真也だ!!

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 いやまぁ、乩童なんですよね、ええ。
 とはいえ、橋本のコスプレにしか見えない衣装で荒行をこなす彼に、愛の魂が乗り移っていないと誰が断言できようかっ!

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 イガイガのボールで背中を叩けば流血の事態となる。
 まぁ橋本はデスマッチ系ではないので、その意味では乗り移ってないという推測もできる。しかし私はその昔、冬木弘道追悼の川崎球場大会で、橋本が冬木の遺骨を抱いて電流爆破を敢行する姿をこの目で見た人間である。あの日の橋本真也は最高に格好良かった。未亡人とのアレに発展するとは夢にも思わなかった。
 わずか数年後に冬木と再会するとも、思いもしなかった。


 背中の傷は男の勲章だ。ちなみに、介添えの人が酒を吹き掛けて消毒している。
 橋本の息子がまもなくデビューするらしいが、デビュー前に台湾に行くべきではなかろうか。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 最後は火祭り刀を持って仁王立ち。
 何というか言葉にならない感動を覚えた私は、帰国するとタンスの奥に眠っていた冬木Tシャツを着てしまった。そして、寒いし見にくいしヤクザだらけで最低の興行だった川崎球場が、いつの間にか美しい思い出になっている事実に愕然とした。

 プロレスに関心のない読者には全く理解不能な記事になってしまった。一般人は写真だけ眺めれば良いかと思うでござるよニンニン。

2011/01/28

北港朝天宮への進香団(十五) 中哺宏天宮編(一)

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 進香行列の紹介も佳境と言いたいところだが、まだしばらく続く。
 正直言って、このエントリーは観光客向けとは言いがたい部分もある。かといって、専門知識をもたずに書いている以上、学術的記事でもない。どっちつかずの宙ぶらりんだ。

 ともかく、次の進香団がやって来る。
 こうやって煙の向こうに一団が見える構図も、いい加減飽きた。実際に見ていれば、音があるから全く違うけどね。そもそも、ここに来ている時点で、軽い興奮状態なわけだし。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 獅子を連れてきたこの一団は、中哺宏天宮という媽祖廟らしい。
 「らしい」というのは、下の写真でも分かるように、神輿にそう見えるからだが、一方で人々のコスチュームには違う言葉が書いてある。
 朝天宮の出巡遶境でもそうだが、廟にはいくつかの奉仕団体がある。それらは獅子舞を司ったり、鳴り物だったり、武道の団体だったりとさまざまだ。ここの人たちは「金獅會」と書かれたコスチュームを着ていたので、上の写真に見える獅子の奉仕団体だろう。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 これもおなじみの神輿を動かす場面。
 まぁ同じ宮に同じ目的でやって来た団体が、同じ場所でやることなのだから当然といえばそうなのだろう。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 ちょっと順番が前後するのだが、獅子舞。
 脚の方までコスチュームがあるのはポイントが高い。よれよれのジーンズばかりだったので、逆に新鮮だ。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 成り行き上、門の中央辺りで撮影したので、通りの奥の橋まで見通せている。
 なかなかいい雰囲気の街でしょ?

 もちろん獅子もいい。そろそろ神戸南京町の春節祭だけど、あそこの獅子舞は人混みでほとんど見えないのよね。かといってギャラリーが少ないと寂しいので、これぐらいの雰囲気が一番だ。

中哺宏天宮の北港朝天宮進香
 最後に旗持ちがぐるぐる門前をまわって終わる。
 ただし、以上の紹介には一つ抜けているものがある。それこそが南の大地に甦る爆笑宣言、愛の魂の勇姿であった。そんなわけで(二)に続く。

2011/01/20

北港朝天宮への進香団(十四) 三王會館?

三王會館?の進香
 獅子舞が終わるのを待ちわびていた一団。オレンジ軍団がまだ残っているが、とりあえず門前からどいたので、さっそく旗を括り付けた竹を振る。
 この団体には、そろいのユニフォームはないようだった。

三王會館?の進香
 そして爆竹。神輿が来るぜ。

三王會館?の進香
 そして神輿がやってくる。例によって、門前で何度か激しく前後に移動する。
 担いでいるのは全般に若そうだった。今どき懐かしいadidasロゴがいる。ヴィンテージなのかパチモンなのかは不明。

三王會館?の進香
 門のすぐ前まで来た図。
 ちなみに、後ろにはさらに別の一団もいる。

三王會館?の進香
 これは獅子舞が始まった頃に撮った写真。三王会館の文字が見えるので一応そのように題したが、三王会館自体がよく分からないので、それ以上は書きようがない。
 ネットサーフインすると、(日本でいうところの)宗教法人格をまだとってない団体らしく書かれていたのもあったけど、それがここのことなのかは分からない。どうも複数ありそうな雰囲気なので。

 藝閣には新興宗教系がいたし、朝天宮の祭礼というのは必ずしも媽祖にとどまらない部分を抱えているようにも見える。進香団については、中で北港媽祖と対面する神は少なくとも媽祖のようだけど、他の神が来ていないのかは分からない。

北港朝天宮への進香団(十三) 大林鎮水汴頭朝興宮編(五)

水汴頭朝興宮の進香
 長いことあいてしまった。この記事は、写真だけあげた状態で数日放置していた。いろいろ忙しかったのでござる。
 で、ここの進香は一応これでラスト。獅子舞だ。上の写真はデフォルメタイプの獅子だ。

 derorenの実家の近くの観音堂には、そこそこ歴史のある獅子舞が伝わっていたりする。だからというわけではないが、デフォルメタイプの獅子を初めて見た時は、ちょっとこれは……と思ったのも事実。ちなみに、初見は神戸南京町の春節祭である(もうすぐですな)。
 もっとも、動いてしまえば案外いけるというのも、やはり事実。日本のよくある獅子舞と比べて、よりアクロバティックなので、まぁこれはこれでいいのではなかろうか。

水汴頭朝興宮の進香
 と言いつつ、リアルタイプの獅子舞は捨てがたい。ここは贅沢なことに両方あった。
 人と戦ってしまったりする辺りが、今さらだが日本とは違う。

水汴頭朝興宮の進香
 見物人(まぁ進香団の関係者が大半だが)に囲まれて、獅子は舞うのだ。

水汴頭朝興宮の進香
 さらに引きでは、この人だかりだ。
 こんな風に頭を持ち上げる所作も、日本ではあまり見ない。南京町では見た。

水汴頭朝興宮の進香
 激しく舞う獅子の後ろには、実は次の一団が控えている。ここはとにかく大所帯だったので、数団体が待たされているわけだ。
 何といっても年に一度の特別な日なのだから、ある程度は渋滞することも織り込み済みではないかと思う。まだ朝9時でそれほど暑くないし、午前中に終わればいいやって感じだろうか。
 いずれにせよ、見学する我々にとってはありがたい話でござる。

2011/01/10

北港朝天宮への進香団(十二) 大林鎮水汴頭朝興宮編(四)

大林鎮水汴頭朝興宮
 この記事は家将特集。前後に十人いたうち、後ろの五人の写真を載せる。

 ちなみにこの舞が終わった後、ああいいものを見たなぁ……と思って廟内に入ったら、彼らが休憩していた。いや、休憩するのは当たり前なのだが、タバコを吸っていたわけでござる。
 台湾も18歳未満は喫煙(吸煙)禁止だ。彼らの実年齢は正直分からないのだが、少年のイメージで見ていたら最後にどんでん返しを喰らった気分だった。

大林鎮水汴頭朝興宮
 彼らの身に着けているものは、城隍廟の柱に掛かっているのとだいたい同じと見て良いのだろうか。

大林鎮水汴頭朝興宮
 前にも書いたように家将は死者、つまりは冥府の者なので、持ち物がおどろおどろしいのは当然なのだろう。

大林鎮水汴頭朝興宮
 読者も想像できると思うが、歌舞伎を観ている感覚に近い。隈取りしてるし。

大林鎮水汴頭朝興宮
 この五人の中央が、際立って小さな子どもである。彼がタバコを吸ったかどうかは確認していない。吸ってなきゃいいなぁ。

大林鎮水汴頭朝興宮
 後ろに獅子が控えている。この次はもちろん獅子舞だぜ。

大林鎮水汴頭朝興宮
 五人揃ったシーンはなかなか撮れない。真正面はもちろん立てないし、見物人はどんどん増えるのだ。自分たちもそうした見物人なので、見せてもらってありがとうの精神でそれなりの場所は確保した。
 まぁしかし、日本の観光客向けにこういう写真を公開する意義って何だろう。仮に百人の観光客が日本からやって来ても、媽祖信仰を理解して去る人は一人もいないはずだ。こと信仰に関する限り、日本と台湾の溝は相当に深い。
 歌舞伎に似てるって説明しても、基本的には無意味だ。フェイスペインティングが異界の者の象徴だとか、普遍的に理解可能な部分もあるけどね(歌舞伎自体、そういうもののヴァリアントでしかない)。

大林鎮水汴頭朝興宮
 最後は思いっきり傾いた写真。これは藝術家気取りではなく、見物人のすき間から腕をのばして、ファインダーを見ずに撮った結果である。
 そんなバカげたことをしてしまうほどに、彼らは分かりやすい魅力に溢れていた。