天壇の主祭神は玉皇上帝であるが、いろいろ周囲に増築されて、ちょっとした迷路のようになっている。ここは正面から見て右側の建物。一階は駐車場などになっていて、二階が廟である。武聖殿という場所である。
武聖殿の主祭神は関帝だ。文衡聖帝とは、関羽が文武ともに秀でた人物であったことの、文の側に名づけられた神格である。
なお、関帝(文衡聖帝)は元から天壇の祭神だったわけではない。『台南歴史深度旅遊』によれば、市内にあった黄檗寺の祭神だったが、日本時代に寺が破壊されたため、引き取られたという。
陳文達『臺灣縣志』(1720 臺灣文獻叢刊第一〇三種)には、次のようにある。寺院の名をもつが、関帝を祀っていたらしい。
黄檗寺、康熙二十七年、左營守備孟大志建。三十一年、火。三十二年、僧募衆重建。前祀關帝、後祀觀音三世尊佛、僧房齋舍畢備。周圍植竹,花木果子甚多。
連横(連雅堂)『雅堂文集』(臺灣文獻叢刊第二○八種)には、廃絶につながる事情が記される。ちなみに、この文面を機械翻訳にかけたら滅茶苦茶なことになった。現代中国語文と古文はやはり違うよなぁ、と実感した。
·黄蘗寺
黄蘗寺在鎮北門外。康熙二十七年、左營守備孟大志建。花木蕭疏、境絶清邃、郡人以及勝地。乾隆間、有僧謀復明、事洩被戮。僧有神力、往來官紳間、而與知府蔣元樞尤善。藏金三百萬、將為起事用。及敗、悉遺元樞、且勸之去、亦奇人也。今廢。
この「有僧」は不慧大師という人らしい。他の文献と重ねて読んでみると、そもそもこの寺は陳永華の住居址で、そういう由来もあって、常に明の復興を願う勢力の拠点だったようだ。
乾隆間の事件というのは、北港義民廟の記事でも触れた、林爽文ら天地会の反乱を指す。この寺は天地会に呼応すべく、武器や軍資金を貯えていた。
不慧大師は、当時の知府(府知事)蔣元樞と親交があったらしい。大師は武器類を焼却し、軍資金は蔣元樞にそのまま渡したという。方丈の不慧大師自身には反乱の意志がなかったということなのかも知れないが、天地会側と関係があったために最終的には処刑され、寺は荒廃した。
そうした事情を考えると、日本がこの寺を完全に破壊した理由もある程度推測される。
一つには、台南再開発において、あえて廃墟を保存する意味がないという実利的なもの。同時に、反清復明の拠点という歴史から、抗日運動に利用される可能性を排除したのではないかと思う。
武聖殿の後殿は「五文昌帝君」を祀る。中央が梓潼帝君で、他に文衡聖帝や魁斗星君(赤嵌楼のレレレのおじさんだ)など。レレレのおじさんというか、赤嵌楼の文昌閣は「文昌」って名前で分かる通りの場所なので、同じ神がいるわけだ。
こちらは武聖殿ではなく、本殿の後殿である。
内陣はこんな感じ。中央が斗姥元君で、両脇は北斗と南斗である。
斗姥元君(斗母元君)は千手観音みたいだ。
どうも、腕だけじゃなくて脚もいっぱいあるらしいが……。
門神画は潘岳雄作。ちゃんと刀の鞘に署名してある。
ちょうどここを見学している時、突然外で音がし始めた。
驟雨であった。
普段の台南なら、たぶん「いつもの雨」で済むのだろうが、この日は2009年8月12日、つまり八八水災からわずか四日後である。
断水の続く台南にとっては、この程度の雨でも歓迎できない。断水の原因はダムの水が濁ったせいであり、雨が降ることで沈澱しかかった泥水が濁り水に戻ったら、いつまで経っても解除されないのだ。
なお、台南市中心部の断水解除は8月14日だった模様。
※2011.2 全面的に書き替えた。武聖殿についての記述が完全に間違っていたので、調べてみたら長くなってしまったゾ。
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