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2010/06/30

旧日本勧業銀行台北支店(国立台湾博物館分館)


 去年も前を通っていた旧勧業銀行。ホテルに戻る途中で、改めて見学してみた。
 以前にも紹介したように、台南と瓜二つである。いちおう、こちらが1933年で台南は1937年ということで、先に建ったのは台北の模様。


 正面上部のアップ。1933年頃といえば、和風建築も登場し始めているのではないかと思うが、この建物には全く和のテイストがない。
 獅子の顔もアレだが、左右の下部に見える柱頭の顔がなんともいえない。


 とにかく天井が高い。
 勧業銀行だし、植民地で金儲けしてやるぞー、てな意気込みだろうか。宝くじで市民の金を巻きあげてやるぞー、ではないよね。


 ちなみに現在ここは銀行としての営業を終え、国立台湾博物館の一部となっているそうな。我々は中を見ていない(ほぼ閉館時刻だったはず)。
 なぜかメインは恐竜らしいが、金庫に入れるらしいよ

※場所は国立台湾博物館の北西。
 懐寧街に面しているので、懐寧旅店などの宿泊者ならば、ホテルの前の道を南に数分歩くだけである。

2010/06/28

龍山寺(台北・萬華)再訪

龍山寺(台北・萬華)
 萬華の中心地、龍山寺。我々にとっては、去年に続く再訪である。
 ただし、去年の訪問と今年の訪問では、我々の意識に大きな違いがある。日本語ガイドブックでかじった程度の知識で出掛けた去年の自分たちを、今となっては恥じるばかりでござる。

 もちろん龍山寺には、単なる観光地としての面もあるのは事実。
 この日も日本人の団体がいて、たどたどしい日本語の解説もなされていた。

龍山寺(台北・萬華)
 龍山寺は福建にある寺院で、三邑人(晋江・恵安・南安)が故郷から勧請したもの。従って、建立当初からここは単なる寺院ではなく、移民たちの集う場として機能していた。
 雑多ともいえる神々の合祀は、起源を辿ればこのような特殊性に起因するのだろうか。少なくとも、大陸とつながりがあるだけならば、台南の開元寺や法華寺だってこうなっても不思議ではないわけだし。

龍山寺(台北・萬華)
 自身でも拝拝しつつ、決死の覚悟で撮影した観音菩薩。みんな火を持ちながら動き回るから、台湾の廟は危険である。
 第二次世界大戦ではアメリカ軍の爆撃にあった龍山寺であるが、正殿が全壊したのに、この像は無傷であったという伝説がある。八戸のイタコが、オシラサマを飛ばして米軍機を撃墜しようとしたエピソード並みに素晴らしい伝承である。

龍山寺(台北・萬華)
 後殿右龕の註生娘娘の前には花がいっぱいだ。我々の訪問は2010年5月2日。翌日が註生娘娘の聖誕日なのだ。
 ヘルメットのおっさんは、バイクで花を運んで来て、今まさに飾り付けている最中である。

 なお、後殿の神々のなかで左龕の水仙尊王と城隍爺は、日本時代に壊されてしまった、近くの水仙宮から遷されたもの。台南の水仙宮も日本時代はひどい目に遭っているし、ここも植民地政府の嫌がらせかと思ったが、必ずしもそれだけではないらしい。
 『台北歴史深度旅遊』によれば、水仙宮のあった地点(現在の西昌街と桂林路の交差点)は、風水ではもっとも建ててはいけない場所であった。そこで人々は移転させようと思ったものの、そのたびに責任者が死んでしまい、呪われた廟として誰も寄り付かなくなってしまった……という感じで書いてある。
 最終的には道路拡張で破壊されたわけだが、それはそれで体よく日本に罪を押しつけたということなのかも知れない。

 とりとめのない書き方になってしまった。龍山寺の一般情報なんて腐るほどあるから、あまり書かなくてもいいかなぁ…と思ったらこのザマだ。読者の皆様には申し訳ない。
 で、あえてもう一つ龍山寺で記事を書く。今度はちょっと業界人向けだ。

2010/06/23

萬華・剥皮寮(二) 復元中の街並の外側

萬華・剥皮寮
 剥皮寮でもっとも賑やかな場所がこの辺である。
 中央部には路地があって、古い家並みが修復されて続いている。

萬華・剥皮寮
 同じ地点から右方向を見る。
 奥の巨体は老松国小で、右の建物は(一)で紹介した教育館方面。

萬華・剥皮寮
 我々は既に興味が別の方向にあったので、外側だけ巡る。
 亭仔脚の美しさを見ても、いかにきちんと修復されたかが分かる。

萬華・剥皮寮
 しかし修復されたものの、すべて無人だ。結局、ここの住人を全員立ち退かせて整備したので、立派な箱だけなのだ。
 これからどうするのだろう。イベントをするには狭いし、明治村みたいな施設を目指すにも狭いし、商業施設として貸し出すしかないのでは。

※我々と似たような感じで、剥皮寮を見学して阿秀切仔麺で食べたらしい日本語のブログがあった。剥皮寮では、我々が行かなかった方面の紹介もされているので、せっかくだしここにアドレス載せようかと思った……が、ゲストハウスの宣伝ブログのようなので断念。
 本ブログは我々が訪問した場所だけを掲載する方針である。別にゲストハウスに恨みはないので念のため。

萬華・剥皮寮(一) 台北市郷土教育中心の概要

萬華・剥皮寮
 広州街と昆明街の交差点(バカな国民党のおかげで名前だけワールドワイド)。
 いかにも古い建築を修復しました、という感じの建物があった。

萬華・剥皮寮
 なかなか立派な建物は、かつての病院らしい。しかし現在は「台北市郷土教育中心」と書かれた看板が目立つ。

萬華・剥皮寮
 建物の裏側にまわると、色目を合わせつつ遊歩道が整備されているのが見える。ここは、かつて建ち並んでいた家々をつなげて、展示スペースとした施設であった。

 昆明街と康定路の間の地は剥皮寮と呼ばれており、かつては石炭の集積地として栄えたらしい。なので立派な建物が並んだのだが、日本時代に学校用地として開発が禁止されてしまう。実際、この北側は老松小学校の敷地である。
 ところが学校建設は行われないまま時が流れ、清代末期から日本時代の景色がここだけ残ってしまったそうな。

 入場無料で、日本人には日本語のパンフレットも用意されている。2009年に開館したばかりなので、我々が事前に読んだガイドブックには記載がなく、不意打ちの観光地だった。

萬華・剥皮寮
 左奥の塔みたいなのはエレベーターである。
 ある意味で日本の町おこし施設的に立派な整備だ。ちょっと皮肉を込めたくなる。

萬華・剥皮寮
 故事館、教育館、医療館といったスペースの展示物は、正直言って海外からやって来た観光客がわざわざ時間を割くほどの内容ではない。小学校の遠足にちょうど良い程度だ。
 ナントカ商店街とかナントカ故事館みたいに、昔懐かしい街並みを復元と言いつつ、実際は単なる商業施設というのも萎えるけど、ここはどうにも中途半端だ。学校ゆかりの地だから教育といっても、教育はイデオロギーが発露する場なので、案外楽しめない。
 まぁ無料の休憩施設として使うことは出来るので、その存在は知っていても良いのではなかろうか。

 なお剥皮寮は右半分がこういう展示施設で、左半分は当時の路地を再現している。一般観光客にはそちらの方が面白いのではないかと思われる。
 が、我々は右半分しかまわらなかった。老街は実際に活動しているから価値がある……から見なかったわけではなく、単に再現地区の存在をよく知らなかっただけ。
 ついでにいえば、そろそろ我々は食い気に傾いていた。その辺は二つ先の記事にて。

老松国民小学
 おまけ。どんな建築物よりも目立つ、老松国小の校舎。コンクリートの無駄使いと言いたくなるもっさりな巨体である。
 ちなみにこの小学校の旧来の校舎は北側にあって、そちらは日本統治時代の古蹟となっている。老松といういかにも日本的な名前も、その通り日本時代の名残りだ。
 さらに遡れば、蓮花池という池があった。祖師廟の南北にあった池の、南側のほうがここである。

2010/06/20

隘門(台北・萬華)

隘門(台北・萬華)
 龍山寺から歩いて2~3分、観光客が山ほど行き交う広州街から間近な場所だが、全くといっていいほど気付く人のいない門がある。
 何を隠そう、我々もここは2009年に一度通っている。もちろんその存在は知らなかったので、改めて訪問することになった。

 というか、この写真を見ても「何も写ってないじゃないか」と思う人の方が多いのではなかろうか。

隘門(台北・萬華)
 しかし、反対側に立てば明らかに門であり、廟である。
 これは隘門と呼ばれ、清の時代の艋舺の街の名残りの古蹟なのだ。

隘門(台北・萬華)
 門の上には土地公が祀られる。土地公の塞の神としての性格を考えれば、なるほどという感じだ。

 隘門はいわゆる城に設けられる門とは違い、町が自衛のために造るものらしい。
 かつて、この門の南は龍山寺池と湿地であり、まさにここは艋舺の南の口であった。そこに住み着いた三邑人は、他の移民と紛争を繰り返している。そこで、このような門で町を守らねばならなかった。

 外敵の攻撃を受けた時にはここが閉じられ、迷路のような街に人々が埋伏して戦ったらしい。日本の城下町でも迷路のような路地はあるけれど、一般人が武装して戦う世界というのは、あまりに殺伐としすぎだよなぁ。

※台湾映画『モンガに散る(艋舺/Monga)』の舞台となったので、観光客も増えるかな?

隘門(台北・萬華)
 土地公。

隘門(台北・萬華)
 虎爺もいる。
 近くには、病気の猫が何匹か集まっている。正直言って、清潔感のある場所ではない。無理に登らずに、ただ下をくぐって眺めるぐらいが無難かも。

2010/06/18

番藷市街と華西街北端(台北・萬華)

番藷市街(台北・萬華)
 青山宮の前の貴陽街は、台北の起源というべき古い街である。
 元々は原住民(平埔族)の居住する地であった艋舺。吉田東伍『大日本地名辞書』では艋舺について、原住民の用いる丸木舟の名ヴァンカァが語源と説明している(吉田東伍説はけっこう眉唾な内容も多いが、一応ここでは紹介しておく)。
 18世紀に福建から渡って来た人々は、そんなヴァンカァに上陸して街を造った。この通りで交易が行われ、その主力商品は番藷(サツマイモ)であったという。番藷市街の名はそこに始まっている。

番藷市街(台北・萬華)
 この写真の奥が淡水河である。従って、ここがまさに発祥の地……なのだが、見ての通りで全く何の面影もない。左に折れる華西街の方が、まだ多少それっぽい風情がある。

 日本時代の写真を見ると、この街はちょっとだけ京都の祇園や島原を思わせる景色である。『大日本地名辞書』によれば、番藷市は音が似て(当時の現地音はホアヌツウチイらしい)おめでたい文字の「歓慈市」と改名、やがて遊郭となった。
 以後、日本から国民党に政権が移っても、ここはそういう街であり続けた。その名残りが華西街夜市ということになる。

華西街北端(台北・萬華)
 華西街のいちばん北端の様子。
 もしかして日本時代の?、と思わせる建築で、中央右の「入船町会館」も注目される。以前に紹介したように、興直街や番藷市街の辺りは、日本時代は入船町だった。

※旅旅台北で番藷市街の記事を見つけたが、紹介されている写真は新興宮付近より東側のみなので、興直街、あるいは草店尾街と考えられる。
 もちろん初期の番藷市街は、細かく分かれてはいなかっただろう。しかし清代の末期には、既にこれらの街は区別されていたはずだ。

華西街の小廟(台北・萬華)
 そんな通りに小さなお堂があった。対聯の一番上の文字が「萬華」である(対聯の一番上は、その廟宇の名になっている場合が多い)。
 祀られてる両側は仁王像っぽいし、対聯にも仏教色が感じられるが、金玉満堂が垂れ下がっている。ある意味で台湾らしい謎なお堂である。

2010/06/14

興直街(台北・萬華)

興直街(台北・萬華)
 直興市場の面する貴陽街は、清の時代に興直街と呼ばれていた。それが日本統治の初期に直興街とひっくり返った。総督府は結局「入船町」という名に変更したが、戦後に貴陽街となり、市場の名にのみ清代の名残を留めているらしい(市場も日本時代は「入船市場」だった)。
 それにしても「興直(直興)」は変な名前である。『台北歴史深度旅遊』によれば、18世紀の乾隆年間に媽祖廟と土地公廟が作られ、その両者を結ぶ道として成立したという。そして媽祖廟「新興宮」にまっすぐ通じるから、「興直街」と名づけられた。

 上の写真は西昌街との交差点。実はここが土地公廟(福徳祠)のあった場所だという。
 現在は新興宮も福徳祠も存在しない。興直街にはこのように日本時代の建築が残っているが、整備の方は今ひとつ。左手前のように、剥がされた煉瓦壁が目立つ。

※正確には、西昌街より東側は草店尾街である。

興直街(台北・萬華)朝北醫院
 こちらは西園路との交差点。この場所に新興宮があった。
 北東角の朝北醫院は相当に立派なものだが、どうも営業してなさそうに見える。

興直街(台北・萬華)朝北醫院
 写真はクリックすると拡大するので、大きくして見てほしい。すごい造り込みである。
 この医院については確実な文字資料がないので、はっきりしたことは不明。ただネットで探してみると、日本時代の建築に手を加えたのではないかと推測している人もいるようだ。角に建って威圧感がある点では、ちょっと警察っぽいかも(元から病院でも全く不思議ではない)。

 なお、この写真で実は問題なのは、右に見える赤煉瓦部分。二階部分がほんのわずかで、写真では灰色コンクリ壁に続いているように錯覚するが、コンクリ壁とは離れている。つまり、赤煉瓦部分はゴッソリ削られてしまっているのだ。
 あえて紹介しないが、赤煉瓦方面から見ると、角の部分だけ細長く残っていて何とも酷い景色である。これでは迪化街のように街並みを売ることも難しいだろう。

興直街(台北・萬華)
 ちなみに、西園路の先には艋舺玄武宮という廟があった。残念ながら立ち寄らず。

興直街(台北・萬華)
 朝北醫院の反対側。門の文字でも分かるように、艋舺青山宮はすぐ先である。
 なお、ここにあった新興宮は、後に成都路に移転して「台湾省天后宮」を名乗ったと『台北歴史深度旅遊』にある。要するに、西門町の台北天后宮なのだ。実はここを歩いた時には全く知らなかったのだが、期せずして創建の地と現在の宮を巡っていたことになる。やるじゃないか俺サマ。

2010/06/12

艋舺清水巖[祖師廟](台北・萬華)

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 長沙街、貴陽街、康定路に囲まれた艋舺清水巖。一般には祖師廟と呼ばれ、清水祖師を祀る。
 清水祖師の廟宇は台湾各地にあって、台南にも清水寺が存在する(いずれ別記事で紹介する予定)。福建の安渓人が移住した地域に祀られる神である。

 なお、今さらのことだが艋舺とは台北のこの地域の古名である。清代には「一府二鹿三艋舺」と称されるほどに舟運で繁栄した街だ。ちなみに「府」は府城=台南、「鹿」=鹿港(彰化県鹿港鎮)。後に艋舺と同音の「萬華」という表記が使われるようになり、現在に至る。
 余談になるが、本当はこのブログのラベルも「艋舺」を使いたかった。しかし、どちらの文字もJIS配列にないので「萬華」としてある。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 三川殿をくぐって、中を見る。中庭の向こうに正殿がある。
 ここは山門から三川殿(一番上の写真)までは長いが、伽藍の内部は狭い。正殿の後ろに堂宇はなく、あとは左右に護室があるのみ。
 『台湾廟宇図鑑』によれば、かつては後殿があり、媽祖が祀られていたという。しかし火事で燃えてしまい、以後は再建されていない。

 再建話のついでだが、現在の建物は基本的に1867年から1875年にかけての再建である(後殿はその再建後に焼けた)。これは1853年に艋舺で起きた大事件が絡んでいる(以下は『台湾廟宇図鑑』『台北歴史深度旅遊』などに拠る)。
 大稲埕(迪化街周辺)の成立を書いた際に多少触れたが、1853年の艋舺地区では、祖師廟の西の川沿いに三邑人、祖師廟付近に安渓人、東側に同安人が住んでいた。港湾は三邑人の地域にあり、同安人は著しく不利な条件にあったわけである。そこで「頂下郊拼」という戦争が起きた。
 戦力的には三邑人が勝っていたものの、祖師廟の南北にはそれぞれ大きな池があったため、攻めあぐねていた。そこで三邑人は安渓人にとんでもない提案をしたわけだ。つまり、戦争が終わったら再建するから、祖師廟を破壊させてくれ、というものだ。これを安渓人が呑んだのかどうかはともかく、実際に祖師廟は破壊され、攻め込んだ三邑人は同安人の居住地を焼き払った。そして同安人は仕方なく、下流の大稲埕に移住した。
 で、1867年からの再建に、三邑人は資金を出したという資料もあるが、詳細は不明。ちゃんと金を出していたのなら、10年以上も放置されないのでは、という気もする。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 正殿を望む。拝拝の人はそれなりにいるので、激しく煙っている。
 うっすら見える扁額「即是清水」は再建時(清の同治帝の時期)のもの。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 正殿の手前の様子。「佛」の帽子を被っている三名のうち、中央は清水祖師と思われる。
 祖師がかつて安渓の清水巖という洞窟で籠っていた時、鬼たちが七日七夜燻して殺そうとした。しかし祖師は死なず、鬼たちは悔い改めて祖師の守護神となったそうな。そして、このエピソードのために、清水祖師像は真っ黒なのだという。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 たぶんこの奥におられるのだろう、と思って撮ったが、もぬけの殻のようにも見える。
 もしかして、ここから手前に移して祀っているのだろうか?(『台湾廟宇図鑑』に載る清水祖師像は、上の写真の中央の像とソックリなのだ)
 ただ、清水祖師像の大きな特徴である「鼻」がどうなのか、イマイチその辺は分からなかった(天災などが起きそうな時は、像の鼻が落ちて知らせるので「落鼻祖師」と呼ばれる)。

 まぁ正直、この廟は観光客にはあまり面白みがない。ただ、三川殿の前には地元民御用達の小吃店が並ぶし、近くには市場もあるから、台北の下町を歩いてみたい人にとっては興味深いエリアであろう。
 もちろん、台北の歴史はここから始まったといっても過言ではないので、そういう興味があれば是非訪れるべき舞台である。

 なお、ここから青山宮→華西街(夜市)→龍山寺と歩いても、見学時間を除けば30分程度。康定路→広州街で龍山寺なら20分かな。下の地図で確認しておくれやす。


大きな地図で見る

2010/05/23

迪化街の南街・中街(霞海城隍廟~帰綏街)

迪化街の南街
 複数の日本人観光客を見かけた迪化街。一般的に観光客が歩くのは、北は帰綏街までのようだ。
 上の写真は城隍廟のすぐ北側で、漢方の問屋が並ぶ南街エリア。以前に紹介した乾元行もここにある。狭い道の両側に背の高い建物が並ぶので、落ち着かない景色だった(人も多いし)。

迪化街の中街
 こちらは民生西路から帰綏街の間の中街エリア。建築的には、ここが一番の見所となっている。
 なお、このエリアはだいたい乾物中心なので、観光客にとっては蜜餞の類とからすみがメインと言える。我々が蜜餞を買った勝益食品公司もこのエリア。「からすみ」はどこも日本語で書いてある。

迪化街の中街
 上二枚は、バロック式建築が並ぶ有名ポイント。左から「建發」が坤樹薬材公司、「東泰」は漢誠堂(鴻川行)、右は百勝堂である。

迪化街の中街
 その少し先にある二軒続きは、日本統治時代の米屋だったという怡和泰。この三字を日本の漢字音で読めば「IWATAI」になる。イワタニに見えたのは私だけではあるまい。

迪化街
 改装中の建物。昔ながらの街並みと言いつつ、実はけっこう店の入れ替わりは激しいようだ。
 今回の旅では『台北歴史深度旅遊』と、旅旅台北「迪化街ガイド」を参考としたが、この二つでもかなり違いがある。そして、新しい方の旅旅台北(2006年)から4年経った現在は、これまた変化が多い。
 かつて台北の再開発計画として、この通りの拡幅が計画されたという。しかし、こういう「ちょっと古い」建築が再評価され、現在はこの通り自体が観光地として整備されつつある。店の入れ替わりも、この通りで商売することに魅力があるからだろう。
 2010年5月時点では、そこら中が改修中の迪化街は、整備が終わるとどうなっているだろう。また新たな店が増えて、雰囲気が変わっているだろうか。
 
 それにしても日本人が多いなぁ。
 去年、台南の街ではただ歩いてるだけで「アナタ日本人でしょ」と呼び止められることがあった。その時はちょっと不思議だったけれど、この通りで我々は、見た瞬間に「あ、日本人だ」と見分けてしまうことが何度かあった。きっとそうに違いない、と思って聞き耳を立てたら、日本語が聞こえて来るわけだ。
 からすみの冷蔵棚の前で「このために日本から来たんですよ」とか言ってる日本人も見かけた。そうか、本当にそんな人がいるのか、とある意味で感心した。
 まぁともかく、言葉がしゃべれなくとも全く問題はなさそうだ。さすが台北だ。

2010/05/13

モダン建築の乾元行(大稲埕・迪化街)

乾元行(大稲埕・迪化街)
 霞海城隍廟からすぐ近くにある乾元行。まさしく絵に描いたようなモダン(現代主義)建築である。
 なお、当ブログでは建築関係の「モダン」は、現代主義建築だけに限定している。本来はそれが当たり前のはずだが、なぜか日本では新しそうなものを何でも「モダン」と呼んでいる。バロックやルネサンスは決して「モダン」ではない。まして、ポストモダン建築まで「モダン」呼ばわりされてはねぇ。

乾元行(大稲埕・迪化街)
 直線的で簡潔なデザインがモダンの特性だとしたら、本当にびっくりするぐらい典型的である。もちろん装飾がないわけではない。見たら分かるだろうし、それ以上の知識はないので詳しい説明は出来ないが(ダメじゃん)。
 柱の感じは港町文化講座旧蹟を思い出させるなぁ。

乾元行(大稲埕・迪化街)
 ある意味では一番の見所が、朝鮮人参の意匠であろう。漢方の店であるという証である。
 まぁ旅行者にとってはあまり縁のない店なので、外観のみ紹介しておく。

2010/05/12

迪化街南段と永楽市場

迪化街南段
 貴徳街方面の見学は終わったので、あらためて迪化街を巡る。
 霞海城隍廟より南の南段は、布業専門区だったという。その割に印象に残っていないのは、そもそもそういう店が一般売りしていないからというのもある。しかしそれ以上に、方々が工事中で覆いを掛けられていたのが大きい。

 そして修復が終わると、なんだか新築みたいでちょっと風情がない。
 写真の左は、かつての仏具店が漢方の店に代わった慶源薬行。しかし右半分は、余所で紹介されているものを見る限り、こういう感じの建物ではなかったようだ。修復といいつつ、案外建物の装飾に手を入れているのかも。

迪化街南段
 上の写真の続き。左は上と重複。右の角の店は『台北歴史深度旅遊』では水果の卸し売り店だと紹介されているが、現在は乾物屋らしい。これは古い建築だ。

永楽市場
 向かいは永楽市場。中には入らなかったが、単なる市場機能だけではなく、いろいろ展示も行っているようだ。

永楽市場
 市場の建物は鉄筋コンクリートの新しいもの。それでも迪化街っぽくデザインされ、そこに入っている店もなるほどという感じである。
 この生首の数々、いいねぇ。動いてるのを見ると、ちょっと感動するんだよ(いずれ山ほど紹介するぞ)。

栄星幼稚園(辜顕栄旧宅)

栄星幼稚園(辜顕栄旧宅)
 貴徳街の北に残る巨大な洋館。
 この道は知っていなければまず辿り着けないが、手前が駐車場になっていて、環河北路からもこの建物は見えている。不安な人はそちらから行けば大丈夫。

栄星幼稚園(辜顕栄旧宅)
 現在は栄星幼稚園として利用されている(この日、内部はシロアリ駆除中だった)。
 もちろん最初から幼稚園だったはずもなく、ここは辜顕栄という豪商の邸宅だった。

栄星幼稚園(辜顕栄旧宅)
栄星幼稚園(辜顕栄旧宅)
 陳天來宅と同様に、いかにも「俺は金儲けしたぞー」的な感じで建っている。

 ちなみに辜顕栄は、台湾占領のためにやって来た日本軍を、台北に無血入城させてしまった人物として知られる。
 平凡社刊『図説台湾の歴史』(台湾の副読本『認識台湾』の日本語訳)では、その結果として総督府に取り入って、豪商となった彼を、控え目に皮肉っている(台湾独立派は、もちろんそんな穏やかな言い方はしない)。

 街中で戦争されるぐらいなら、無血入城の方がマシだ、というのも一つの真理ではある。従って、ここで彼についてどうこう批評する気はない。
 ただ良くも悪しくも、台湾の歴史に名を残した人物が、こういう洋館を建てたわけである。