2012/08/26
陳家蚵捲 三訪
妙寿宮とその周辺を巡ったら、時刻は既に13時40分。陳家蚵捲の行列はなくなっていたので、遅い昼食となった。
なお、タイトルにある通り、我々は過去2度ここで食べている。多少の変化はあるけど、だいたい同じものを食っている。暇な人と興味のある人は、そちらの記事もどうぞ。
・初回訪問時の記事
・再訪時の記事
今回はこんな感じ。過去2回とは若干違う。
空心菜は、とにかく青い野菜が欲しいという要望から。
台南最後の名残りの肉燥飯もあるぜ。肉燥飯、あぁ肉燥飯、肉燥飯(松尾芭蕉)。
青い野菜はhashiがいつも言ってることだが、この時点では完全には母乳断ちしていなかったので、栄養素の不足がないように心掛ける必要もあった。
ちなみに、tomopeeは既に離乳食後期で、母乳は栄養源というよりも精神安定剤という状況だ(この記事を書いてる時点では卒業済)。
もちろん蚵仔煎も。毎度の注記だが、これは時間がかかるので別のトレイになっている。
注文関係は過去の記事を参照のこと。蚵仔煎の受け取り以外は大したことはないけどね。
蚵捲。やはりエビよりカキが好きだなぁ。
蚵仔酥。カキだけを揚げたもの。日本のカキフライとはまた違うけど、カキ好きなら頼むべきだ。
台湾のカキは基本的に小さいので、カキフライには向いていないと思う。逆に、日本のカキは蚵仔煎に向いていない。そういう違いもあるから、やはり台南を旅したらカキを食べて欲しい。今さらだが、おすすめだ。
※公式サイトはこちら。そこに地図も載っているけど、安平古堡や延平街に行けば、嫌でも目にとまるはず。それでも迷うかも…という人は、下の地図で確認してくだされ。
より大きな地図で derorenのホ~ムペ~ジ を表示
2012/08/23
歐姓宗祠(安平文化資産館)
伍徳宮のすぐそばの路地に、いかにも安平という感じの門を発見。
これは見ておかなければ、と近づいてみる。
劔獅のある門は開け放たれていて、中に入ることができる。
もちろんこんな機会を逃す我々ではない。さっそく内部を見学することにした。
ちなみに、この入口部分は一段高くなっているので、ベビーカーを持ち上げねばならない。狭いので、これが意外に面倒だった。赤子連れはどこで引っかかるか分からないものだ。
内部はこんな様子。壁は基本的に新しい。どういう建物なのだろう、という疑問が湧く。
ここは現在、安平文化資産館という観光施設として管理されている。安平に関するパネル展示があったりするけれど、わざわざ見に行く価値はない。この建物そのものが価値である。
本来の名は歐姓宗祠。全国の歐さんが集まる場所だ。
小さな建物で、台南によくある民家にしか見えない。民家としては立派だけど。
文化資産保護協会のブログによれば、この建物は1991年の新造らしい。台南市大厝内歐姓族親会が、あえて伝統的建築によって建てたという。
その族親会と保護協会が2007年に協定を結び、安平文化資産館の機能を移転させたのが、現在の姿ということになる。
我々は廟ばかり巡っているので、あまり感動を覚えたりはしなかったが、このレベルの建物を造るのはけっこう大変なのだろう。
信仰の場を見るという目的には合わないけれど、伝統建築をじっくり見たい人には最適だ。
屋根も柱が太くて立派だ。
無理矢理なパネル展示。エアコンもない部屋だし、同程度の内容ならネットでいくらでも読めると思う。民具の展示もあったけど、これも狭すぎて微妙。
ここは安平古堡から歩いても5分ぐらいの場所なので、ツアー客が自由時間に訪問することもできるだろう。見るべきものはこの建物だけ。興味があればどうぞ。
ちなみに大台湾旅遊網の日本語版に記事がある。残念ながら翻訳者の語学力に難があるので、おすすめしない。
2012/08/22
伍徳宮
妙寿宮の東寄りの路地をしばらくさまよったら、廟があった。
目の前には船の姿が見える立地で、海を向いて建っている。とりあえず伍徳宮というらしい。
ちなみに、右側の小さな建物には「伍徳宮 代天巡狩 金徳安」とある。内部は見えないが、王船が安置されているようだ。
この廟に関して、derorenに予備知識は一切ない。ただし、事細かに由来を記した石碑が建っているので、以下はその碑文に依拠する。
現在の廟宇は1969年に建て替えたという。
特筆するようなものではないが、それ相応の建物である。
中心壇。見ての通りで、奥の様子はよく分からない。
碑文によれば、伍徳宮という名は、伍位千歳を祀ることに由来するらしい。日本時代、宗教弾圧で廃廟となるのを避けるために王爺館と改名、民国になって元に戻したとあるから、それ以前から廟名はあったという説明になる。
ただし同じ碑文には、主祭神は蘇府千歳だとも書かれてあったりする。derorenにはなかなかその辺の意味が理解出来なかったが、どうやら伍位千歳=蘇府千歳のようだ。
その蘇府千歳が手前にいた。中央壇の隠れた部分にも、別の像がいるのか、それともこの像が主祭神そのものかは分からない。というか、日本なら絶対ここに主祭神はいないけど、台湾ならありそうなのよね。
さて、碑文によれば、康煕36年(1697)に福建省泉州の軍隊が将来したとある。
これは清朝に、台湾防衛のために福建から安平に駐留した軍のことで、近所の妙寿宮とも同様の関係だ。
そして伍位千歳の名は、ここから生じたと思われる。伍長という語に名残りを留めるように、伍とは軍隊を指す文字である。つまり軍の関係の王爺で、その名は蘇府千歳という話。
広利尊王。碑文によれば、元は烽火館に祀られていたものを、1900年に遷したという。烽火館は、清代の駐留兵士のために建てられた会館の一つで、現存する海山館などと同様のものだったと見られる。
1900年は既に日本統治時代で、清軍の関連施設がそのまま存続することはできない時期だ。清軍と関連する神は遷して、会館を集会所に……といった事情があったのかも知れない。
なお、同時に金門館の神々も遷されたという。媽祖や水仙尊王らしいが、どこに居たのだろう。
以上、全面的に依拠している石碑だが、その内容は乩童がまとめたものだという。碑文の前半に、「私が王爺の小法(童乩)となって五十年になるが……」と、自身の半生を振り返る文面があったりして、なかなか珍しい内容だ。
またそこには、金門島の同名廟との関係が記されている。
泉州から安平に向かった船は、嵐に遭って破損し、やむなく途中の金門島に停泊、修理することになった。修理は二十六日にも及び、その縁で金門島と安平の双方に、将来した蘇府千歳を祀ることとなったそうな。
ただし実際には、両廟の交流は皆無だという。
上の由来話は、民国88年正月に神を迎えて初めて知った内容と記されている。
童乩がいる限り、常に新たな神話は生まれ続ける。そんな当たり前のことを感じさせてくれる碑文だ。読みづらいけど楽しい。
2012/08/18
妙寿宮(二) 朱府千歳の王船
上の写真は妙寿宮前を通る道である。写真の左側に妙寿宮がある。
derorenがこの写真を撮った時は、ただ単に町並の記録に過ぎなかった。
が、実はここに、妙寿宮で最も有名な遺物が安置されていたのだ。
ありふれた店舗の並ぶ上の階が、まさか廟の一部だとは思うまい。
入口に立つ。このように階段を昇らなければならない。
正直、昇るだけでも暑さでかなりの消耗がある。tomopeeを下に留めて、大人二人が交互に見ようかと思った……けれど、二度手間だ。どうせなら短時間に済ませようということで、三人で昇る。
どぉぉーーーーん。
中には船である。オモチャではない、正真正銘の船がある。
この船は「王船」と呼ばれるもの。王爺(千歳神)が乗る船だから王船と呼ぶ。台湾はもちろん、本来は福建など大陸側で盛んに流された船である。
一応の建前としては、代天巡狩、つまり天の代理で国内を巡視する役目を与えられた王爺を乗せた船であり、流れ着いた場所では新たに王爺を迎えて祀るという形になる。
日本統治時代の記録で、苗栗に流れ着いた王船の話を読んだことがあるけど、その人の記録によれば、村人は神の来訪を喜び、新廟を建てて祀ったそうな。
ただ、その人自身は信仰にあまり理解がなさそうだから、果たして額面通りに受け取って良いのかどうか。
龍の目玉が描かれ、その後ろに「朱府千歳」とある。この船に乗って来た王爺は、この朱府千歳であった。
後ろから。帆船で、ちゃんと舵もある。何度も言うが、これは船のようなものではなく、ちゃんと航行可能だ。
日本でも、神を川や海に流すことはあるけれど、乗り物がここまで本格的な例はあまり聞かない。そもそも、厄介な神を海や川に祓う場合は、無事に航行しないことが望ましいわけだし。
まぁ少なくとも、海の藻屑と消えて欲しいわけではないようだ。
後ろ。「金萬安」の文字が見える。
『台南歴史深度旅遊』、また現地案内板によれば、明代の末期に朱府千歳が船に乗ってやってきたという。人々はこの神を祀り、厄除けの神として信仰を集めた。そして1755年に妙寿宮の廟宇を建てるにあたって、保生大帝とともに祀ることとした。
1867年(同治6年)、廟宇のそばに王船室を造ることとなった。そこには古式に則った壮麗な船が置かれ、金萬安號と命名された。こうして朱府千歳の神威はさらに高まり、台南から高雄(打狗)、屏東(阿猴)に至る広い地域の信仰を集めた。
で、最近になって道路拡張のために移転したわけである。
船の内部はこんな感じ。動くホテルならぬ、動く廟である。
もっとも、動く廟という意味では、神輿や輦と基本的には変わらないものだ。唯一異なるのは、神輿や輦と違って、人手で動かすわけではない点。まぁそれが大きな違いだけどね。
反対側から。龍の目が目立つ。この船そのものが龍ということだろう。
小舟も用意されている。木龍光彩の文字が見える。
なんというか、正直な感想を言うならば、神威を感じるというよりも薄気味悪さが先立ってしまう。この船が実際に航海したわけではない点を差し引いても、恐ろしい神が乗るべき場所なのだし。
もちろんここには空調もない。窓は開け放たれているので、息苦しいとまでは言わないけど、暑い日中に長居は難しいと思われる。
いやまぁ、一般人は5分もあれば十分だろうけどね。
2012/08/05
妙寿宮(一) 蝙蝠石柱と保生大帝
この日は台南最終日。なので安平古堡と安平樹屋を見学した我々は、再び古堡の入口まで戻って、タクシーをつかまえた。首相大飯店に戻ってシャワーを浴び、12時にチェックアウトである。
ちなみに、安平で流しのタクシーを拾うのは極めて困難だ。なので、古堡に客を乗せて来たタクシーをつかまえるのが合理的。たいていのタクシーは陳家蚵捲前の交差点を通過するので、その辺で待ち構える手もある。
それはさておき、午前中の日程を決めた時点では、午後は未定だった。しかし、久々に安平を歩いたら、やはり楽しいのだ。このまま帰るなんて勿体ない。陳家の蚵仔煎も食べたい。そんな欲望がふつふつと湧いて来た。
結局、首相大飯店に荷物を預けて、再びタクシーで安平へ戻った。これを金の無駄と思う人もいるだろうが、千円払って休息したと考えればいい。暑い台南の街歩きなのだし。
タクシー往復なんて600円ぐらい。外帯して部屋で飲んだ鑫昇鮮饗茶の波霸奶茶の値段を足しても、大人二人で800円に達しないぜ。
前振りが長くなった。
こうして安平に戻った我々は、とりあえず陳家で飯を食おうと思ったわけだが、ちょうど昼飯時とあって行列ができていた。赤子連れで炎天下に行列などあり得ないので、先に近所を歩くことにする。
陳家の十字路からは、延平街もすぐだし、もちろん古堡も目の前。しかし我々が向かったのは、それらとは反対側だ。徒歩1~2分で、この廟に着く。妙寿宮という。
この宮の建物は三連式というやや特殊な構造だと『台南歴史深度旅遊』にある。その辺は(二)以降で紹介する予定。
三川門部分に立つ石柱は、龍柱ではなく蝙蝠石柱である。実は台湾で唯一だとか。
これも蝙蝠石柱。
内部はガランとしているように見える。これは三川殿から正殿までが、わずかな段差だけでそのまま続いているからだろう。中庭がないのが三連式の特徴らしい。
主祭神は保生大帝。例によって、奥に隠れて見えない。
日本の寺廟は、わざと隠すことで神秘性を高めるが、台湾の場合は単に他の神像に隠れている。もちろん、主祭神を隠すように前に陣取る神は、それなりに重要な存在なのも事実だけどね。
妙寿宮は、伝承によれば鄭氏政権の頃に遡るとされ、清代には安平六部社の一つとして栄えたという。清代の安平は、福建の人々が台湾防衛のために駐屯していた。その六つの集団が、それぞれ故郷の神を祀ったのが六部社で、妙寿宮も泉州の人々が信仰した宮であった。
ちなみに、清代にはここが安平の港口にあたり、台湾にやって来た商船の積荷は、必ずこの宮の前を通ったらしい。またこの宮の前庭は広く、子どもたちが遊ぶ場だったので、通称は囝仔宮だった。
李府千歳。医術の神である保生大帝の他に、千歳神(王爺)も祀られている。
妙寿宮と王爺の関係は、(二)以降で紹介する。
蘇府千歳。
説明がなく不明。保生大帝かとも思ったが、悪鬼を踏みつけているから守護神かな。
他にも沢山の神々がいる。玉皇も祀られているぞ。
こうして紹介しても、一部の廟マニアしか興味をもたないかも知れない。しかし妙寿宮には、とっておきの秘密兵器が隠されている。その辺の紹介は(二)以降で。たぶん(三)まで書くだろう。
お盆の帰省などいろいろあるので、いつになるかは分からないが、気長にお待ちくだされ。
2012/08/01
安平樹屋 再訪
およそ3年振りの訪問となった安平樹屋。もちろんtomopeeは初訪問だ。
今さら断わるまでもなく、1歳のtomopeeがこうして旅した記憶は、残りはしないだろう。しかし異国での様々な刺激が、彼の心の発達に何らかの影響は与えてくれたはずだ……と思うがどうだろう。
安平樹屋の概要は、以前の記事に書いたのでそちらを参照願いたい。
ここはイギリスの商社、徳記洋行の跡地である。白亜のコロニアル建築も残っていて、そちらも展示スペースとなっているが、正直海外から訪問するような内容ではない。
現在のメイン展示は安平樹屋、つまり商社の倉庫群である。
ここは有料施設で、大人は一人50元を払う。
そこから進んだ先の建物は、上の写真のように休憩スペースとなっている。売店もあり、台南土産はある程度揃っている。飲み物もある。トイレもある。
エアコンの効いたスペースは、赤子連れにとっては貴重だ。その気になれば、おむつ交換も出来るよ。
tomopeeもひとまず涼んでいる。この間に、hashiがお土産を買っていた。台湾にしては高めの玉井干しマンゴーや、樹屋の絵はがきなどを購入したと思われる(さすがにすべては把握していない)。
一通り買い物を済ませた後に、探険に出発だ。ベビーカーは売店のお姉さん(恐らく)に預けた。普通は入場券売り場の方がいいと思うぜ。
外に出ると、3年前とほぼ変わらない景色だ。
ちなみにこの先は、写真のように一部は木道になっているけれど、概ね地面を歩く。上から見下ろせるようにもなっていて、そこは階段ののぼりおりがある。ベビーカーでは難しいので、受付か売店に預けよう。
骨組となった倉庫に幹が絡み付き、気根が垂れ下がる。これが安平樹屋の基本である。
朽ちていない倉庫も一部にある。使用時期などの差もあろう。
ちなみに徳記洋行は現存する企業だったりする。ただし安平での営業は、日本統治時代に終了。ここの建物は製塩会社の手に渡り、そのまま戦後は台塩の所有となった。
安平を去った理由は、新支配者の日本が、貿易収入を得るために圧迫を加えたからである。徳記洋行自体が東インド会社の傘下にあった以上、追い出されるのは当然であったろう。
もちろん安平港が土砂で埋まって、使い物にならなくなったことも大きい。製塩会社が持て余した理由は、そちらが主要因かもしれない。
骨組だけになった側。
補強はしてあるけど、ガジュマルは今も生きているので、いずれは敗北するだろう。ガジュマルはそういう生き物なのだから仕方がない。
壁を覆い尽くす。
上から見る景色もなかなかいい。
というか、下は廃墟となった倉庫なので、基本的には暗い。それに対して、開放感があってとても良い。
見上げると、こんな感じで幹が絡まっている。いい景色でしょ。
煉瓦の壁にはり付く幹。
ただはり付いているわけではないぞ。
見所の一つがこれだ。壁を突き抜けてのびている。細いうちにすき間を通れば、やがてこうなって、将来は壁を破壊するわけだ。
tomopeeは何を思ったのか。両親は未だに彼のおしゃべりを解読できないので、詳細は不明である(だいぶ日本語っぽくなってきたけど)。
将来、何かの間違いで某ジ●リの映画でも観た時に、この記憶が蘇ったりするだろうか。「ぬぅ、初めて見た気がしないなぁ」とか。
その後、資料館となっている建物内も一応は見物して、何となく記念写真を撮ったりした。
安平古堡からここまでは徒歩5分程度。途中の道は日陰がなく、5分とはいえ嫌になるけど、安平でタクシーをつかまえるのは難しいので、歩くしかない。
でもまぁ、歩いただけの価値はある。子どもの教育にもいいと思う。たぶん。
より大きな地図で derorenのホ~ムペ~ジ を表示
登録:
投稿 (Atom)