2009/05/07
赤崁楼(赤嵌楼)
台南でもっとも有名な観光地、赤崁(嵌)楼。プロビンシャ(紅毛)城の址であることは有名で、日本語のガイドにすら普通に載っているから省略。
……まぁしかし、台南観光ブログを自称する以上、少しは書いてみるべ(2011.3追加)。
その昔、まだオランダ軍が台湾にやって来る前のこの地には、原住民(台湾政府は先住民族を「原住民」と呼ぶので、当ブログも従う)の集落があった。その集落が赤崁社と呼ばれたことが、現在の名の起源である(建物が赤っぽいからではない)。
17世紀にオランダ軍が台湾を支配すると、ここにはプロビンシャ(普羅民遮)城が造られた。ゼーランジャ城(安平古堡)が軍事拠点であったのに対して、ここはどちらかと言えば行政拠点であった。そもそもプロビンシャ(英語のpro・vin・cial)の意味は「地方」といった行政単位である(田舎という意味もあるが)。
贔屭石碑が並ぶ。贔屭(ひき)とは亀に似た龍の子どもであって、ご贔屓(ひいき)の語源となった存在である。だからこれは亀ではないぞ。
※この石碑については、生き別れの兄弟も参照あれ。
プロビンシャ城の遺構は、一番奥にある。ここで記念写真を撮る人は少ない。というか、何の由緒もなさそうな人工滝が撮影名所になっていた。台湾の人の感覚はよく判らない。
プロビンシャ城は日本の平城みたいなものなので、長期間にわたって外敵の攻撃に晒されれば落城するしかない。1661年に鄭成功は、まずこの城を攻撃し、ゼーランジャ城を孤立させた(ちなみにゼーランジャ城は、それから半年近くも持ちこたえた)。
その後、鄭氏政権はここを承天府と名づけ、引き続き行政府とされる。この承天府は清代には台湾府と名を変えて引き継がれるが、その場所は移転したらしく、やがて廃墟となった。
手前が海神廟、奥が文昌閣だ。どちらももちろんオランダ時代の建物ではない。
清代の19世紀になって、廃墟だったこの地に中国式の楼閣が建てられるようになった。とりわけ、知府の沈受謙はここを文教地区とする政策を進め、蓬壺書院を開設。文神を祀る文昌閣はそんな時代に建てられた(海神廟も同時期)。
文昌閣の基部。オランダ時代の煉瓦が見えるが、これはプロビンシャ城の大門だった場所らしい。
日本統治時代になると、日本軍はここを軍の病院として利用する。
しかし1935年になって史蹟となり、修復工事がなされた。その計画は、オランダ時代の遺蹟と清代の建物を半々に残すもので、結果として大士殿や五子祠などは破壊された。
その後、1965年に大きな修復工事があり、庭園ができた。そして、本来は西側にあった入口が南に移されて現在に至る。
上の写真のすぐそばに立つ石馬。元々は、清朝からの独立を図った(ことになっている)林爽文の軍に殺された、鄭其仁の墓前に掘られたもの。上で紹介した贔屭石碑も、林爽文絡みのものが含まれているらしい。
なお、馬の前脚が補修されているのは、この馬が夜になると近隣の村に悪さをするので、罰として脚を斬られてしまったのだとか。たとえばこれが、住民が必ずしも鄭其仁に好感をもっていなかったことのあらわれなのだとすれば、ちょっと面白い。
海神廟の内部は展示室となっている。
この人はまぁ、鄭成功である。
一方の文昌閣には、この妙な格好の爺さんがいる。魁星爺である。レレレのおじさんは拝んでもしょうがないが、この爺さんは学問の神様なので、拝んでおくと良いらしい。もちろん我々も拝拝しておいた。
壁には願事を書いた紙がびっしり貼られていた。日本なら「文化財」指定されると出来なくなってしまうが、台湾の信仰はまだまだ現役だなぁと感じた。身分証明のコピーが貼り付けてあって、プライバシーも何もあったもんじゃないのに驚いたものであった(この文は2010年2月に書いている)。
特に見る価値もなさそうな井戸だが、一応これが伝説の井戸ということになっている。
つまり、オランダがここに城を造った際に、ゼーランジャ城に通じる秘密の抜穴を掘ったという。この井戸はその入口なのである………そうな。
まぁともかく日本人観光客にとっては、手っ取り早く異国情緒を感じることの出来る得がたい空間だ。オランダ、鄭氏、清、日本と重層的なのも、今となっては深みを与えていると思う。
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昨日 ここと ゼーランディアに行ってまいりました 歴史の重みを感じました
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