伝聞記事だけで終わらすと、ただのデマ拡大になりかねないので、台南市政府のサイトを紹介。
6月2日現在、サイトのトップ画面からリンクが張られている。
・順丁烯二酸酐化製澱粉專區
特設ページトップ。ちなみに「順丁烯二酸酐」が「無水マレイン酸」のこと。
・本局相關新聞稿
台南市政府が新聞に出稿した記事一覧。ワードのファイルで配布されている(台湾のサイトでは、ワードやエクセルのファイルをそのまま配布する例が多い)。
・順丁烯二酸酐化製澱粉之Q&A
無水マレイン酸についてQ&A集。粘度を増す(QQにする)目的で混ぜられたらしいこと、一般人の推定摂取量では健康被害のおそれはないことなどが記されている。
・本市澱粉工廠稽查資訊
台南市内のデンプン工場の調査結果。
・行政院衛生署食品藥物管理局「順丁烯二酸酐化製澱粉」專區
台湾政府の特設ページ。気になる人はあわせて読んでほしい。
これらの資料をざっと見る限り、食品そのものの毒性は、あまり深刻に考えなくとも良いように思われる。該当する食品ばかりを毎食食べ続けた場合は分からないが、カロリー過多や栄養の偏りの影響が先にあらわれそうだ。
ただ問題はこの「毒澱粉」が、あらゆるジャンルの料理に拡大していた点にある。この粉は、近年の台湾人が求める食感を生み出すために利用された。「QQ」だ。
台湾で飯を食ったことがあれば、「QQ」や「香Q」といった文字を知っているだろう。日本でいうならば、「グミ」のようにほどよい弾力のある食感だ。
日本でも、さぬきうどんブームの中で、やたらに麺の弾力が喧伝されたりした。そもそも、お菓子としての「グミ」自体、そう古い歴史はない(本来のグミが果実であることを知らない人が増えたよね)。ああいう食感を求める層が、近年激増している点では、日本も台湾も本質的には大差がないと思う。
もっとも、テレビ番組の「食尚玩家」で必ず「QQ」と叫ばれるように、台湾のQQ信仰は日本の比ではない。QQであらずは食べ物にあらず、みたいな空気が根底にあるのなら、事件を機にうまく冷却できればいいなぁ。
似通った食感ばかりじゃつまらないでしょ。
2013/05/30
いわゆる毒澱粉問題を追う
現在、「毒澱粉」が台湾で大問題となっている。
具体的にいえば、食品の原料となるデンプンの中に、工業用で毒性のある無水マレイン酸(馬來酸)が使われていたという。台湾で好まれる「QQ」な食感を出すのに効果があったらしい。
数年前にはメラミンで揺れた台湾だが、今回はある意味、それ以上に深刻かもしれない。
健康被害のレベルは、メラミンが圧倒的に上。乳児が腎不全を起こしたメラミンミルクに対して、無水マレイン酸使用食品自体は毒性が低く、自然排出させればいいとの説もある(台湾保健食品学会の江さん談)。
しかし、無水マレイン酸使用食品は、台湾観光の目玉といえる小吃のあらゆるジャンルに広がっている。つまり、台湾の食べ物の信頼性が、総体として揺らぐ事態が起きたことになる。
新聞報道によれば、下記の食品で無水マレイン酸が含まれたものが発見されたという。
あくまで一部の企業の製品に含まれているのであって、下記食品がすべて汚染されているわけではない。が、屋台の小吃など、原料を確認できない食品が多いことも事実である。
粉圓(芋圓・地瓜圓)…台湾スイーツの定番。QQな食感で人気。
豆花…これも定番。豆腐に似ているが、デンプンを混ぜてぷるぷるの食感を出す。
肉圓…バーワン。台湾小吃の定番。これもQQ。
黑輪…おでんのこと。具体的には、QQが求められる練り物だろう。
板條…きしめん風の麺。
個別の食品の生産過程で混じったのではなく、使用した米粉や地瓜粉、番薯粉が汚染されていた。従って、該当する企業の粉を使わなければ問題ないし、使っていれば他の食品にも混じることになる。
台南市の調査では、市内の製粉業者15件のうち、7件の製品に無水マレイン酸が含まれていたという(5/30時点の話)。
コンビニの商品などは検査が進んでいるので、今から食べる分には大丈夫ではないかと思われる。屋台は……、現段階では微妙。
台南に関しては調査が進められているし、気になる人はその辺を確認しておきたい(台南市のホームページはこちら)。
なお、豚の皮や鶏の足を食えば解毒できるという噂が広がっているそうな。食べ過ぎるとかえって健康を害する可能性が高いが。
derorenが食べた食品にも、きっと無水マレイン酸は含まれていたのだろうな、と思う。我が家において、毒澱粉被害らしき現象は報告されていないけどね。
無水マレイン酸拡散の大元はある程度判明しているようだし(現時点で確定的な話ではないので企業名は載せない)、混入開始の時期をはっきりさせてほしい。
※この記事は現在進行中の内容をまとめているので、後日読んだ場合は信頼性に欠ける可能性があります。
次の記事でリンク集を紹介したので、そちらを御覧ください。
具体的にいえば、食品の原料となるデンプンの中に、工業用で毒性のある無水マレイン酸(馬來酸)が使われていたという。台湾で好まれる「QQ」な食感を出すのに効果があったらしい。
数年前にはメラミンで揺れた台湾だが、今回はある意味、それ以上に深刻かもしれない。
健康被害のレベルは、メラミンが圧倒的に上。乳児が腎不全を起こしたメラミンミルクに対して、無水マレイン酸使用食品自体は毒性が低く、自然排出させればいいとの説もある(台湾保健食品学会の江さん談)。
しかし、無水マレイン酸使用食品は、台湾観光の目玉といえる小吃のあらゆるジャンルに広がっている。つまり、台湾の食べ物の信頼性が、総体として揺らぐ事態が起きたことになる。
新聞報道によれば、下記の食品で無水マレイン酸が含まれたものが発見されたという。
あくまで一部の企業の製品に含まれているのであって、下記食品がすべて汚染されているわけではない。が、屋台の小吃など、原料を確認できない食品が多いことも事実である。
粉圓(芋圓・地瓜圓)…台湾スイーツの定番。QQな食感で人気。
豆花…これも定番。豆腐に似ているが、デンプンを混ぜてぷるぷるの食感を出す。
肉圓…バーワン。台湾小吃の定番。これもQQ。
黑輪…おでんのこと。具体的には、QQが求められる練り物だろう。
板條…きしめん風の麺。
個別の食品の生産過程で混じったのではなく、使用した米粉や地瓜粉、番薯粉が汚染されていた。従って、該当する企業の粉を使わなければ問題ないし、使っていれば他の食品にも混じることになる。
台南市の調査では、市内の製粉業者15件のうち、7件の製品に無水マレイン酸が含まれていたという(5/30時点の話)。
コンビニの商品などは検査が進んでいるので、今から食べる分には大丈夫ではないかと思われる。屋台は……、現段階では微妙。
台南に関しては調査が進められているし、気になる人はその辺を確認しておきたい(台南市のホームページはこちら)。
なお、豚の皮や鶏の足を食えば解毒できるという噂が広がっているそうな。食べ過ぎるとかえって健康を害する可能性が高いが。
derorenが食べた食品にも、きっと無水マレイン酸は含まれていたのだろうな、と思う。我が家において、毒澱粉被害らしき現象は報告されていないけどね。
無水マレイン酸拡散の大元はある程度判明しているようだし(現時点で確定的な話ではないので企業名は載せない)、混入開始の時期をはっきりさせてほしい。
※この記事は現在進行中の内容をまとめているので、後日読んだ場合は信頼性に欠ける可能性があります。
次の記事でリンク集を紹介したので、そちらを御覧ください。
2013/04/26
台南歴史年表(その3)
需要があるのか不明のシリーズ。19世紀は面倒くさい。現代が近づくにつれて、事象が増えていくのだから仕方がないのだが。
もちろん「歴史年表」は、所詮は書き手の意図に基づく物語に過ぎない。derorenが拾い上げた特定の事象の接続を、読者がそのまま尊重する必要はない。教科書の年表が恣意的であるように、ここに書いた内容も恣意的なものだ。
というか、歴史なんて常に恣意的なもの。作り上げる当事者の現在を、過去に投影させた上で、そんな都合のいい物語が壊されないように「正しい」とか言い訳を並べるものでしょ?、と無意味に毒を吐いてスタート。
1800年(清・嘉慶5年)
蔡牽の乱、台湾に波及(~1806)。
蔡牽は福建省の人で、いわゆる同安(厦門近辺)人。同安人は台湾に多数移住しており、有名な所では台北の大稲埕(現在の迪化街周辺)が挙げられるが、彼は移民ではなく、あくまで同安に本拠を置きつつ活動した。
蔡牽の活動そのものは、要するに「海賊王におれはなる!」であって、たまたまその対象の一部が台湾だったに過ぎない。従って、過去の人びとのように台湾独立に動くとか、同士が各地に現れるといったこともなく、ただ台湾(台南や高雄)が災難にあっただけ。
もちろん中国的な海賊王は、結局は皇帝を志向するはずなので、福建と台湾の独立が実現された可能性は高い(実際、彼は鎮海王を名乗った)。たちまち瓦解すると傍目には分かりそうなものだが、それなりの地位に就くと、途端に権力志向を剥き出しにする人間は今も少なくないのではあるまいか(自分の周囲には何人もいるゾ)。
こういっては何だけど、蔡牽の活動は鄭成功と大差ないのよね。鄭成功の軍隊も、元々は海賊なのだし、台湾側に要請されて攻め込んだわけでもないし。
唯一違うのは、名目のみの存在とはいえ、鄭成功は明の皇帝及び王族を奉じた点。蔡牽には奉じるべき者がいない。一番近所の琉球王を引っ張ってくるという奇策は、さすがになかったようだ(それ以前に、琉球王は皇帝じゃないから、名目にならない)。
蔡牽の軍はかなり手強く、鎮圧に派遣された清の提督を敗死に追い込んでいる。鹿耳門から台南に侵入し、台南の府城を包囲したこともあった。
が、やがて台湾からは手を引き、1809年に清軍に敗れて自害。なんと、船ごと爆破して死んだと伝えられている。
日本でいうところの松永久秀みたいな奴だが、こちらは部下200名以上を巻き込んだという話。勝手に殉死させられた者は浮かばれないよね。
1823年(清・道光3年)
台南の北側を流れる曾文渓が大氾濫を起こす。
地味な話に思えるだろうが、現在の台南を語る上では重要な事案だ。鹿耳門から船で台南に入ることが出来なくなっただけでなく、台江内海が干拓されるきっかけでもあった。
曾文渓は2009年の88水災でも氾濫した河川。それなりに堤防があり、上流に巨大ダムがあったにも関わらず、周囲が広範囲にわたって水没したことは記憶に新しい(我々は水がひいた直後に訪れている)。
1823年の水災は、鹿耳門にあった港を砂で埋めてしまった。また、流れが変わったことで、安平の港などにも砂が溜まりやすくなった。台南そのものの地位が低下するきっかけであった。
なお曾文渓の氾濫はこの後も起きており、1871年の氾濫では、鹿耳門近くにあった天后宮が土砂に埋もれている。
・土城正統鹿耳門聖母廟(1871年に埋没した天后宮の後身を名乗る)
・鹿耳門天后宮(同じく、後身を名乗る)

1835~40年(清・道光15~20年)
兌悦門や巽方砲台(外城)、安平小砲台、四草砲台などが建設される。一緒くたにしたが、実は少し目的が異なるようだ。
「外城」とは、日本でいうところの内堀・外堀みたいな響きだが、実際は全く異なる。そもそも、日本の城は城主や兵が籠る場所だが、中国の城は生活空間全体、つまり街そのものを城壁で囲む。従って、城壁で囲まれた城の外部に、新たに出来た街を、さらに囲んで城内とした部分が外城である。
都市が発展すると、郊外に街が広がるのは万国共通だが、そうしてはみ出した部分も、中国の場合は再び城の一部に取り込む。なので城がどんどん拡大することになる。こうした発想の究極形が万里の長城だろう。
現存する兌悦門は、西北にはみ出した部分に設けられた外城の城門。対して南東の大東門の外側にも外城が作られた。巽方砲台はそのなごり。
これらは、台湾内部の反乱や、蔡牽のような海賊対策であった。
安平小砲台と、鹽水渓を挟んで対峙する四草砲台の両者は、1840年に造られた。これも海賊除けに効果があるが、直接の要因ではない。1840年という年号は、世界史を習っていれば分かるはずだ。そう、アヘン戦争の起きた年である。
アヘン戦争の直接の舞台は、もちろん台湾ではない。しかし香港と台南は、近接した主要港であり、対岸の火事のはずもない。慌てて造りあげて備えたわけだ。
ちなみに、イギリス軍が台南に攻め込んだという話はないようだが、基隆などの占領を企てている。また、後に安平にはイギリスの商社が軒を連ねるようになった(後述)。
・兌悦門
・巽方砲台
・安平小砲台
1864~67年(清・同治2~5年)
1864年、安平港が欧米諸国に開港される。
アヘン戦争に続いて、1856年に始まったアロー戦争(アロー号事件)の結果、清はイギリスやフランスとの間に不平等条約を結ばされた。天津条約と北京条約である。
その条約のうちに、主要な港の開港が含まれていた。まぁ日本における(日米)修好通商条約と同じだが、台湾では淡水、基隆、打狗(高雄)、そして安平が対象となった。
それから3年後の1867年、徳記洋行(と和記洋行)が安平に支店を開設した。徳記洋行は、今では安平きっての観光地となった安平樹屋の主であった。その後も安平には次々と欧米の商社が支店を作り、植民地化が進められていく。
なお、これらの商社は、日本統治時代にほぼ撤退した。貿易を独占したい日本側が圧力をかけた結果である。
さて、この間の1865年に、イギリスの長老派教会の宣教師が台湾に渡り、布教を開始している。現在も台南に多くの教会や学校をもつ一派である。
長老派が台南に勢力を拡大したのは、抗日戦争時に日本軍との交渉にあたったバークレーの力によるところも大きい。もちろん、元々台南でそれなりの地位を得ていたからこそ、交渉役を委ねられたわけだが。
この時期に布教が始まった理由は、イギリスなどとの条約に「キリスト教の布教を妨げるな」という一項があったことによる。
キリスト教の布教は、もちろん植民地化の一環である。本国の宗教を布教することで、同様の価値観を与え、本国に対する主従関係を植え付けていく。これは日本による神道や日本仏教の強制も含め、あらゆる植民地で普遍的に行われた行為だ。
・徳記洋行と安平樹屋(ガジュマルに覆われ廃墟化した倉庫を、現在は安平樹屋と呼んでいる)
・安平樹屋再訪(2012年の記録。樹屋の様子はこちらのほうが詳しい)
・東興洋行(ドイツの商社。現在は喫茶スペースとして活用される)
・台南神学院(1876年創立。現役の宣教師養成施設)
・台南東門巴克禮紀念教会(近年改称された。巴克禮=バークレー)

とりあえず以上。どうにも書き辛くて放置してしまった。約2ヶ月かけて、力尽きた感じで公開する。
まぁ、何か思いついたら追加すればいいや。
もちろん「歴史年表」は、所詮は書き手の意図に基づく物語に過ぎない。derorenが拾い上げた特定の事象の接続を、読者がそのまま尊重する必要はない。教科書の年表が恣意的であるように、ここに書いた内容も恣意的なものだ。
というか、歴史なんて常に恣意的なもの。作り上げる当事者の現在を、過去に投影させた上で、そんな都合のいい物語が壊されないように「正しい」とか言い訳を並べるものでしょ?、と無意味に毒を吐いてスタート。
1800年(清・嘉慶5年)
蔡牽の乱、台湾に波及(~1806)。
蔡牽は福建省の人で、いわゆる同安(厦門近辺)人。同安人は台湾に多数移住しており、有名な所では台北の大稲埕(現在の迪化街周辺)が挙げられるが、彼は移民ではなく、あくまで同安に本拠を置きつつ活動した。
蔡牽の活動そのものは、要するに「海賊王におれはなる!」であって、たまたまその対象の一部が台湾だったに過ぎない。従って、過去の人びとのように台湾独立に動くとか、同士が各地に現れるといったこともなく、ただ台湾(台南や高雄)が災難にあっただけ。
もちろん中国的な海賊王は、結局は皇帝を志向するはずなので、福建と台湾の独立が実現された可能性は高い(実際、彼は鎮海王を名乗った)。たちまち瓦解すると傍目には分かりそうなものだが、それなりの地位に就くと、途端に権力志向を剥き出しにする人間は今も少なくないのではあるまいか(自分の周囲には何人もいるゾ)。
こういっては何だけど、蔡牽の活動は鄭成功と大差ないのよね。鄭成功の軍隊も、元々は海賊なのだし、台湾側に要請されて攻め込んだわけでもないし。
唯一違うのは、名目のみの存在とはいえ、鄭成功は明の皇帝及び王族を奉じた点。蔡牽には奉じるべき者がいない。一番近所の琉球王を引っ張ってくるという奇策は、さすがになかったようだ(それ以前に、琉球王は皇帝じゃないから、名目にならない)。
蔡牽の軍はかなり手強く、鎮圧に派遣された清の提督を敗死に追い込んでいる。鹿耳門から台南に侵入し、台南の府城を包囲したこともあった。
が、やがて台湾からは手を引き、1809年に清軍に敗れて自害。なんと、船ごと爆破して死んだと伝えられている。
日本でいうところの松永久秀みたいな奴だが、こちらは部下200名以上を巻き込んだという話。勝手に殉死させられた者は浮かばれないよね。
1823年(清・道光3年)
台南の北側を流れる曾文渓が大氾濫を起こす。
地味な話に思えるだろうが、現在の台南を語る上では重要な事案だ。鹿耳門から船で台南に入ることが出来なくなっただけでなく、台江内海が干拓されるきっかけでもあった。
曾文渓は2009年の88水災でも氾濫した河川。それなりに堤防があり、上流に巨大ダムがあったにも関わらず、周囲が広範囲にわたって水没したことは記憶に新しい(我々は水がひいた直後に訪れている)。
1823年の水災は、鹿耳門にあった港を砂で埋めてしまった。また、流れが変わったことで、安平の港などにも砂が溜まりやすくなった。台南そのものの地位が低下するきっかけであった。
なお曾文渓の氾濫はこの後も起きており、1871年の氾濫では、鹿耳門近くにあった天后宮が土砂に埋もれている。
・土城正統鹿耳門聖母廟(1871年に埋没した天后宮の後身を名乗る)
・鹿耳門天后宮(同じく、後身を名乗る)

1835~40年(清・道光15~20年)
兌悦門や巽方砲台(外城)、安平小砲台、四草砲台などが建設される。一緒くたにしたが、実は少し目的が異なるようだ。
「外城」とは、日本でいうところの内堀・外堀みたいな響きだが、実際は全く異なる。そもそも、日本の城は城主や兵が籠る場所だが、中国の城は生活空間全体、つまり街そのものを城壁で囲む。従って、城壁で囲まれた城の外部に、新たに出来た街を、さらに囲んで城内とした部分が外城である。
都市が発展すると、郊外に街が広がるのは万国共通だが、そうしてはみ出した部分も、中国の場合は再び城の一部に取り込む。なので城がどんどん拡大することになる。こうした発想の究極形が万里の長城だろう。
現存する兌悦門は、西北にはみ出した部分に設けられた外城の城門。対して南東の大東門の外側にも外城が作られた。巽方砲台はそのなごり。
これらは、台湾内部の反乱や、蔡牽のような海賊対策であった。
安平小砲台と、鹽水渓を挟んで対峙する四草砲台の両者は、1840年に造られた。これも海賊除けに効果があるが、直接の要因ではない。1840年という年号は、世界史を習っていれば分かるはずだ。そう、アヘン戦争の起きた年である。
アヘン戦争の直接の舞台は、もちろん台湾ではない。しかし香港と台南は、近接した主要港であり、対岸の火事のはずもない。慌てて造りあげて備えたわけだ。
ちなみに、イギリス軍が台南に攻め込んだという話はないようだが、基隆などの占領を企てている。また、後に安平にはイギリスの商社が軒を連ねるようになった(後述)。
・兌悦門
・巽方砲台
・安平小砲台
1864~67年(清・同治2~5年)
1864年、安平港が欧米諸国に開港される。
アヘン戦争に続いて、1856年に始まったアロー戦争(アロー号事件)の結果、清はイギリスやフランスとの間に不平等条約を結ばされた。天津条約と北京条約である。
その条約のうちに、主要な港の開港が含まれていた。まぁ日本における(日米)修好通商条約と同じだが、台湾では淡水、基隆、打狗(高雄)、そして安平が対象となった。
それから3年後の1867年、徳記洋行(と和記洋行)が安平に支店を開設した。徳記洋行は、今では安平きっての観光地となった安平樹屋の主であった。その後も安平には次々と欧米の商社が支店を作り、植民地化が進められていく。
なお、これらの商社は、日本統治時代にほぼ撤退した。貿易を独占したい日本側が圧力をかけた結果である。
さて、この間の1865年に、イギリスの長老派教会の宣教師が台湾に渡り、布教を開始している。現在も台南に多くの教会や学校をもつ一派である。
長老派が台南に勢力を拡大したのは、抗日戦争時に日本軍との交渉にあたったバークレーの力によるところも大きい。もちろん、元々台南でそれなりの地位を得ていたからこそ、交渉役を委ねられたわけだが。
この時期に布教が始まった理由は、イギリスなどとの条約に「キリスト教の布教を妨げるな」という一項があったことによる。
キリスト教の布教は、もちろん植民地化の一環である。本国の宗教を布教することで、同様の価値観を与え、本国に対する主従関係を植え付けていく。これは日本による神道や日本仏教の強制も含め、あらゆる植民地で普遍的に行われた行為だ。
・徳記洋行と安平樹屋(ガジュマルに覆われ廃墟化した倉庫を、現在は安平樹屋と呼んでいる)
・安平樹屋再訪(2012年の記録。樹屋の様子はこちらのほうが詳しい)
・東興洋行(ドイツの商社。現在は喫茶スペースとして活用される)
・台南神学院(1876年創立。現役の宣教師養成施設)
・台南東門巴克禮紀念教会(近年改称された。巴克禮=バークレー)

とりあえず以上。どうにも書き辛くて放置してしまった。約2ヶ月かけて、力尽きた感じで公開する。
まぁ、何か思いついたら追加すればいいや。
2013/03/10
2013/02/26
新年快樂(農民曆)
2013/01/08
2012/12/28
台南歴史年表(その2)
前記事の続き。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。
1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。
先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。
中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。
約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。
・大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
・安平延平街(大員街)
・海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
・妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
・広済宮(同上)
・文朱殿(同上)
・台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
・台湾県城隍廟(台湾県に由来)
・台北隘門(残念ながら破壊された)
1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。
鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水や諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
……が、すぐに大陸から施世驃(施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。
この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。
もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。
なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府城という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。
・大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)
1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。
日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。
蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮や祀典武廟など)の修復に努めたという。
また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。
法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。
・法華寺
・大天后宮
・祀典武廟
1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
原住民抑圧策としての屯田などを推進している。
彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。
・三官廟(元は彼の屋敷だったという)
・接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
・開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
・大天后宮観音殿(観音像を寄進)
・開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
・祀典武廟(観音像を寄進)
・台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
・成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)
1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。
彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
呼応した勢力によって淡水や鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅、鹿港などごくわずかであった。
朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。
鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。
この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。
まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。
ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。
林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。
ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。
・北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
・赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
・代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
・台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
・成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)
さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。
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