2010/06/12

艋舺清水巖[祖師廟](台北・萬華)

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 長沙街、貴陽街、康定路に囲まれた艋舺清水巖。一般には祖師廟と呼ばれ、清水祖師を祀る。
 清水祖師の廟宇は台湾各地にあって、台南にも清水寺が存在する(いずれ別記事で紹介する予定)。福建の安渓人が移住した地域に祀られる神である。

 なお、今さらのことだが艋舺とは台北のこの地域の古名である。清代には「一府二鹿三艋舺」と称されるほどに舟運で繁栄した街だ。ちなみに「府」は府城=台南、「鹿」=鹿港(彰化県鹿港鎮)。後に艋舺と同音の「萬華」という表記が使われるようになり、現在に至る。
 余談になるが、本当はこのブログのラベルも「艋舺」を使いたかった。しかし、どちらの文字もJIS配列にないので「萬華」としてある。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 三川殿をくぐって、中を見る。中庭の向こうに正殿がある。
 ここは山門から三川殿(一番上の写真)までは長いが、伽藍の内部は狭い。正殿の後ろに堂宇はなく、あとは左右に護室があるのみ。
 『台湾廟宇図鑑』によれば、かつては後殿があり、媽祖が祀られていたという。しかし火事で燃えてしまい、以後は再建されていない。

 再建話のついでだが、現在の建物は基本的に1867年から1875年にかけての再建である(後殿はその再建後に焼けた)。これは1853年に艋舺で起きた大事件が絡んでいる(以下は『台湾廟宇図鑑』『台北歴史深度旅遊』などに拠る)。
 大稲埕(迪化街周辺)の成立を書いた際に多少触れたが、1853年の艋舺地区では、祖師廟の西の川沿いに三邑人、祖師廟付近に安渓人、東側に同安人が住んでいた。港湾は三邑人の地域にあり、同安人は著しく不利な条件にあったわけである。そこで「頂下郊拼」という戦争が起きた。
 戦力的には三邑人が勝っていたものの、祖師廟の南北にはそれぞれ大きな池があったため、攻めあぐねていた。そこで三邑人は安渓人にとんでもない提案をしたわけだ。つまり、戦争が終わったら再建するから、祖師廟を破壊させてくれ、というものだ。これを安渓人が呑んだのかどうかはともかく、実際に祖師廟は破壊され、攻め込んだ三邑人は同安人の居住地を焼き払った。そして同安人は仕方なく、下流の大稲埕に移住した。
 で、1867年からの再建に、三邑人は資金を出したという資料もあるが、詳細は不明。ちゃんと金を出していたのなら、10年以上も放置されないのでは、という気もする。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 正殿を望む。拝拝の人はそれなりにいるので、激しく煙っている。
 うっすら見える扁額「即是清水」は再建時(清の同治帝の時期)のもの。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 正殿の手前の様子。「佛」の帽子を被っている三名のうち、中央は清水祖師と思われる。
 祖師がかつて安渓の清水巖という洞窟で籠っていた時、鬼たちが七日七夜燻して殺そうとした。しかし祖師は死なず、鬼たちは悔い改めて祖師の守護神となったそうな。そして、このエピソードのために、清水祖師像は真っ黒なのだという。

清水巖祖師廟(台北・萬華)
 たぶんこの奥におられるのだろう、と思って撮ったが、もぬけの殻のようにも見える。
 もしかして、ここから手前に移して祀っているのだろうか?(『台湾廟宇図鑑』に載る清水祖師像は、上の写真の中央の像とソックリなのだ)
 ただ、清水祖師像の大きな特徴である「鼻」がどうなのか、イマイチその辺は分からなかった(天災などが起きそうな時は、像の鼻が落ちて知らせるので「落鼻祖師」と呼ばれる)。

 まぁ正直、この廟は観光客にはあまり面白みがない。ただ、三川殿の前には地元民御用達の小吃店が並ぶし、近くには市場もあるから、台北の下町を歩いてみたい人にとっては興味深いエリアであろう。
 もちろん、台北の歴史はここから始まったといっても過言ではないので、そういう興味があれば是非訪れるべき舞台である。

 なお、ここから青山宮→華西街(夜市)→龍山寺と歩いても、見学時間を除けば30分程度。康定路→広州街で龍山寺なら20分かな。下の地図で確認しておくれやす。


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