2012/05/26

彌陀寺

彌陀寺
 東門教会のすぐ隣にある彌陀寺。いかにも最近建てましたという雰囲気で、しかも台南的な建物でもないので、知らなければ通り過ぎてしまうかも知れない。
 しかし、現在の姿はともかく、ここは台南最古とも言われる仏教寺院なのである。

彌陀寺
 門をくぐるとこんな感じで、狭い境内いっぱいに北方様式の仏殿を建てている。このような姿になったのは1971年らしい。第二次世界大戦で空襲に遭ったり、いろいろ受難の果てのようだが、北方様式ではねぇ……というのが正直なところ。
 台南の七寺八廟どころか、四大名刹の一つに数えられるこの寺院を、今まで積極的に訪問しなかったのも、こんな変り果てた姿を知っていたためであった。

※ちなみに台南四大名刹は、開元寺法華寺、彌陀寺、竹渓寺。

 伝承によれば、彌陀寺の創建は鄭氏政権の頃らしい。鄭経は、台湾に仏教寺院がないことを歎き、承天府の東安坊に阿弥陀仏を祀った。それがこの寺の始まりだという。
 ちなみに鄭経といえば、開元寺の始まりも彼の別荘だが、寺院になったのは鄭氏政権が滅んだ後である。伝承が本当ならば、確かに最古といえる。

 鄭氏政権の頃を記す文献といえば蒋毓英『台湾府志』(1685)だが、ざっと眺めた限りでは記載がない。17世紀の文献としては、次のような記述を見ることができる。

彌陀室在附郭之東。庭宇幽静、仏像荘厳。傍植檳篁、名花芬馥、可供遊詠。(高拱乾『台湾府志』 康煕35(1696)年刊)


 まぁ正直、存在したという以上の有用な情報はない。何を祀ったのかすら記述がない……のは、「彌陀」だから不要とも言えるが、寺号と本尊は必ずしも一致しないわけで。
 遙かに時代が下って、日本統治時期の記述は次のような感じ。ちなみに、連横(連雅堂)は、やや脚色が混じるという評価があるゾ。

彌陀寺 在大東門内。明延平郡王鄭経建。康熙五十七年、里人董大彩修。五十八年、武夷僧一峰募建西堂、里人陳仕俊復増建之、殿宇寬敞、花木幽邃、為郡治冠。(連横『台湾通史』 大正9(1920)年刊)


 字数の割にはたいした情報はない。とりあえず「殿宇寬敞、花木幽邃」が現在と全く合わないことだけは確かだ。連横の生きていた頃はまだ広かったとも解釈できるが、現況を自身で確認したのか怪しい。
 ともかく、台南市政府が建てた案内板も、この連雅堂説を下敷きにしているようだ。

弥陀寺
彌陀寺
 金剛力士像。これは一応、阿吽になるのかな。

弥陀寺
 釈迦牟尼を祀る大雄宝殿。
 ここは三層になっていて、他に地蔵や観音が祀られているらしいが、我々は一階しか拝んでいない。というか、道仏折衷ではない仏教寺院なので、物見遊山で眺めるような雰囲気ではなかった。
 その意味では、四大名刹の名は伊達ではないと思ったのも事実。


 さて、旧東門美術館前でタクシーを降りてから、そろそろ2時間である。tomopeeがそろそろ限界を迎えつつある状況もあって、ここも長居はしなかった。
 そして次の見学地で、tomopeeはホテル帰還となった。もちろんhashiも帰還。derorenが一人残って、昼食を外帯で調達する任務を負うことになる。まぁその辺は、この先の記事で徐々に記していくので、奇特な方は楽しみにしてくだされ。

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