当ブログで頻繁に登場する歴史上の人物としては、寧靖王、鄭経、陳永華、施琅、蒋元枢あたりが挙げられるが、いずれも日本ではなじみのない名前ばかりだ。これに加えてディープな台南に迫るには、玉皇上帝など道教系の神々、天上聖母や保生大帝などの地方神、王爺、土地公など、日本とは全く異なる信仰の知識も必須である。かくいう私自身も、まださっぱり分かっていない。
とりあえず、有名だけどよく分からない人物の代表格として、今回は寧靖王を取り上げようと思う。当ブログで、寧靖王に関係する記事は、少なくともこれぐらいはある。
・祀典大天后宮(一) 天上聖母の宮概説
・祀典大天后宮(二) 寧靖王府の俤(前編)
・祀典大天后宮(三) 寧靖王府の俤(後編)
・大天后宮梳妝樓と寶來冬瓜茶舖
・祀典大天后宮(六) 寧靖王の観音信仰
・祀典武廟
・台湾首廟天壇(一)(台南市中西区)
・北極殿(一) 明の守護神
・東嶽殿(一) 概説
・五妃廟
・普済殿(一) 観音寺の面影
・小南天土地公廟(一) 寧靖王ゆかりの土地公廟
上の写真は大天后宮の後殿。並ぶ位牌の中で、中央は前後に二つ重なった状態なのが分かるだろう(見辛ければ写真をクリックしてね)。重なった手前の低いものが、寧靖王の神位である。
さて、ひとしきりブログの宣伝をした上で、本題に入ろう。
寧靖王は台湾にとっての重要人物であるが、明や清にとってはそうでもない。日本の学校で明の滅亡を勉強する際にも、寧靖王の名前はまず出ない。その意味では、エアポケットに入ったような存在である。
そんな人物を知るために、陳文達『臺灣縣志』を読んでみる。清代の1720年に成立した同書には「明寧靖王傳」が立てられ、かなりきちんとした伝が記されている。台湾文献叢刊本を引用しつつ、解説してみた。
浙江、福建、広州あたりの地理が頭に入っていないと読みづらい記述であり、間違いがあるかも知れない。原文と照らし合わせて、問題があればご指摘いただければと思う。
明寧靖王傳
寧靖王、名術桂、字天球、別號一元子。明太祖九世孫。始授輔國將軍。娶公安羅氏女、早逝。
最初のパートは訳すまでもない。朱術桂(字は天球)という名で、朱元璋(太祖)の九世の孫。まだ明が健在だった頃に、まず輔國將軍となった。最初の妻には先立たれた。
崇禎壬午寇亂、王避湖中。甲申京師陷、崇禎帝殉社稷。福王嗣立於建業、王入朝、晉鎮國將軍、守浙之寧海縣。乙酉、浙郡邑盡歸本朝、監國封王為長陽王。鄭芝龍據閩、尊唐王為帝、建號隆武。王奉表稱賀、改封寧靖。
崇禎壬午寇亂とは、1642年に後金(後の清)や李自成らによって起こされた兵乱である。1644年に京師(ここでは北京のこと)が陥落して崇禎帝が殺され、明帝国は滅亡する。その時、寧靖王は湖中(浙江省湖州?)にいたため難を逃れた。
その後、福王(朱常洵)の子が建業(南京)において皇帝に擁立され(弘光帝)、一般には「南明」と呼ばれる政権が誕生する。朱術桂は南明の晉鎮國將軍に任じられ寧波(ニンポー)の辺りの守護を担当した。
ただし弘光帝はたった一年で清軍に捕えられて殺されている。敗北や皇帝の死は文面に書かれないので、補足しながら読む必要がある。
ついで、浙江州を平定した功により、監國の朱以海(魯王)は彼を長陽王に任じた。なお、監國はほぼ皇帝と等しい存在。ただしこの監國も、すぐに浙江を追われる。
続いて、閩南(福建)を本拠地とする鄭芝龍(鄭成功の父)が、唐王(朱聿鍵)を隆武帝として即位させる。この皇帝が、朱術桂に寧靖王という名を与えた。ついでに言えば、鄭成功に「國姓」を与えたのもこの皇帝である。
南明は名目上は明の後継だが、実際には何の力もない地方勢力に過ぎない。寧靖王は、一族の中で遠縁だったおかげで、神輿を担がれずに済んだわけだ。
まぁこの期に及んでも監國と隆武帝が争ったりして、明の皇帝という地位に魅力を感じる王族は少なくなかったようだが、即位すれば清軍の攻撃対象になって殺されてしまうという、負のスパイラルにはまっている。
そして重要なのは、鄭芝龍が登場すること。後に息子とは袂を分かつ父だが、ともかく福建の地方勢力(というか海賊の頭)の鄭氏と寧靖王が出会ったわけである。
丙戌五月、大師渡錢塘、王奔避寧海、乘舟南下。歲杪、抵廈門。值粵東故將李承棟奉桂王之子稱帝肇慶、改元永曆、王因入揭陽。庚寅冬、粵事又潰。辛卯春、王旋閩、處金門。及鄭成功取臺灣、王遂東渡。成功事王、禮意有加。成功死、授餐之典廢、乃就竹滬墾田數十甲以資身。
1646年5月に大軍が銭塘江を渡り、寧靖王は寧波付近から船で南へ逃げる。そして年末には廈門(アモイ)に至った。なおこの間に監國朱以海は鄭成功とともに逃亡、隆武帝は清軍に捕えられて自害している。鄭芝龍が清に寝返ったのもこの年である。
そこで粵東(広東)で桂王の子(朱由榔)を帝肇慶と称して即位させる。これが永暦帝である。寧靖王は広東の揭陽に拠った。永暦帝は鄭成功を延平(郡)王に任じている。なお、この頃まで鄭成功の配下だったのが、後に鄭氏政権を滅ぼす施琅である。
しかし1650年に広東も清に奪われ、1651年に寧靖王は閩南の金門島に渡った(永暦帝は雲南からビルマまで逃げたが、1661年に捕えられて殺害)。ここから十年間、鄭成功らの抵抗が続いたわけだが、その辺は割愛されており、やがて台湾攻略に伴って1662年に台南へ遷った。
鄭成功は寧靖王に仕えたが、彼が亡くなって鄭経が後を継ぐと、王に対して食事を奉ることをやめた。その代わりに竹滬(現在の高雄市路竹区)の田をもらうことになる。これは鄭経が崇敬の念を捨てたのではなく、王が自立を志向したという記述だろう。
清に攻め込まれて絶対的劣勢にありながら、まとまることもなく身内で争い続けた南明は、結局は1661年に永暦帝が死んで滅亡する。その中で、争いに巻き込まれずに生き延びた寧靖王をどう評価すべきなのかは、私には分からない。
ただし同じく鄭成功を頼っていた監國朱以海は、1662年に亡くなったが、これは病死である。寧靖王の幸運も、清軍の弱みである水軍を握っていた鄭成功とうまく関係を保てたからなのだろう。
そうして寧靖王の王宮が、現在の台南中心部に造られた。
王宮の中心は大天后宮であり、祀典武廟もその一部にあたる。
戊午、聞靖海將軍侯施琅調集水軍進討、王獨憂之。癸亥六月、克澎湖。王乃大書曰「自壬午流賊陷荊州、攜家南下。甲申、避亂閩海。總為幾莖頭髮、保全遺體、遠潛外國。今四十餘年、六十有六歲、時逢大難、全髮冠裳而死、不負高皇、不負父母。生事畢矣、無愧無怍。」
伝記は台南在住時のことを何も語らず、いきなり最期の時の物語となる。
1678年に、施琅が水軍を組織していることを知り、寧靖王は憂えた。そして1683年6月、澎湖諸島が施琅に攻め落とされる。王はこのように記す。
「1642年以降、賊軍は荊州を陥落させたので、家族を連れて南下した。1644年には閩南に向かい、乱を避けた。いつの間にか頭髪も少なくなり、遺された身体を全うして、遠く外国に潜んでいる。今、乱が始まって四十数年、六十六歳になって大難に遭うが、きちんとした身なりで死に、天の神に背かず、父母に背くこともない。私の生涯はこれで終わるが、恥じるところは何もない。」
次日、校役昇主人柩、王視之、無他言。但曰「未時」。即加翼善冠、服四團龍袍、束玉帶、佩印綬、將寧靖王麟鈕印送歸鄭克塽、拜辭天地祖宗。又書絕命詞曰「艱辛避海外、總為幾根髮。而今事畢矣、祖宗應容納。」 書罷、結帛於樑自經。且曰「我去」、逐絕。眾扶之下、顏色如生。藁葬於鳳山縣長治里竹滬、與元妃羅氏合焉。
翌日、王宮の者が寧靖王を納める棺を造ってくると、王はそれを見て「未の時だ」とだけ告げた。それから王は正装に着替え、寧靖王の印を鄭克塽(鄭経の子。この当時の鄭氏政権の主)の元へ送り返し、神々を拝んだ。そして死に臨んで詩を詠み、絹を結んで梁で首を吊った。「私は行くぞ」と言って息絶えた。
王無嗣,以益王裔宗位之子儼鉁為後。時年七歲、安置河南開封府杞縣。
寧靖王には子どもがいなかったので、儼鉁という一族の者に杞県(河南省)の廟墓を祀らせた。以上で伝記は終わりである。
澎湖諸島の陥落が死の契機になったというのは、だいたいどの書物も一致するようだ。寧靖王は施琅がどんな武将かを知っている。鄭克塽が台湾を守れるとは思わなかっただろう。そこで、屈辱を受ける前に立派な死を選んだわけである。
この際に五妃が王とともに死ぬことを選び、五妃廟に祀られた。寧靖王自身は、自分の王宮(後の大天后宮)で辞世の句を遺し、首を吊って果てた。
ちなみに鄭克塽は降服して許され、天寿を全うしている。ならば寧靖王も……とはいかないだろう。鄭克塽は責任を親や祖父に押しつければ生きる道もあるが、寧靖王は、たとえ当人にその気がなくとも復明の象徴として利用されるのだ(現に三藩の乱に鄭経が加わった際には、寧靖王の存在を誇示していた)。
いずれにせよ、寧靖王は66年とされる生涯のうち20年以上を台南で過ごした。皇帝を自称しては殺される同族のなかで、平穏な時をおくることもできたのだから、それなりに幸せだったという感懐になるのだろう。
寧靖王の遺蹟は、基本的にはすべて排除されている。五妃廟の他には、この北極殿の扁額(見辛くてすまん)が唯一である。
それでも台南には、寧靖王の伝承に彩られた廟や史蹟があちこちにある。上の伝記に抜けている台南時代を、いろいろ想像しながら街歩きすれば、台南観光はぐっと深みを増すはずだ。
なお(一)と題してみたが、(二)があるかは未定。
しんどい企画なので、そうそう続編を、というわけにはいかないので御座候。
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