2009/10/04

普済殿(一) 観音寺の面影

普済殿
 郡緯街、慈聖街、そして斜めに伸びる普済街の角に建つ普済殿。
 郡緯街側ははっきり言って裏口である。

普済殿
 しかし歴史的にはこちらから訪問するべきなのかも知れない。
 何せ、「普済」だ。

普濟殿
 この廟宇の名は、衆生済度の菩薩、観音に由来する。その意味では善光寺なんぞと本来的には変わらないわけである。
 しかしこの観音堂は廟宇の脇に追いやられて、さらに例によって手前に別の神さんがいるので、上の写真では完全に隠れてしまっている。

普濟殿
 その隠してる方の神。「張府聖君」である。
 普済殿の祭礼では観音とほぼ同格のようなので、主祭神の一人なのは間違いない。どういう神かと聞かれてもちょっと分からないのだが。

普済殿
 奥の「観世音仏祖」。
 普く済度するのは、何も航海の安全という意味ではないはずだが、台湾における観音にはそういう意味合いが深いらしい。その辺は大観音亭で触れた。実際、ここは大観音亭と興済宮の関係によく似ている。

 ただ、ここはそもそも台南市街を鳳凰に見立てた時の嘴の位置だとか、ここで集まる街道が八卦の網状だったとか、いろいろ曰くのある土地らしい。普済殿の「殿」は、寧靖王がしばしばここにやって来たからだという説明もある。
 ともかくここは鄭氏政権の頃に存在した観音寺だ。そして比較的すぐに、池氏千歳が祀られた。台南最古の王爺廟とされる廟宇の中心については、次の記事にて。

2 コメント:

  1. 張府聖君
    道教の天師派(天師道・正一教の一派)開祖「張道陵」の神格化。別名張公法主、法主公ほか。窪徳忠氏(道教研究家)の著作によれば、第63代天師張恩薄は中華人民共和国成立直前に香港経由で台湾に逃れ、台北の覚修宮の近くに隠遁していたようですが、1969年に彼が死去した後、後継争いが勃発。甥の張源先が後を継ぎ、彼は2008年に没したようです。

    http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%BC%B5%E6%BA%90%E5%85%88
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%80%E6%95%99

    現在の天師道がどうなっているかは、ちょっと調べきれていないです。実際どの程度台湾に天師派が伝わったかは非常に微妙なところだと思います。ただ、窪氏は「道教の世界(学生社刊)」の中(p.132)で「けれども、台湾、シンガポール、マレーシア、インドネシアなどと香港の一部は、みな正一教の勢力圏といってさしつかえありません。」と述べています。

    また、下記サイトによれば日本統治時代の爆撃により神像が破壊されたため、現在の普濟殿にある神像は光復後(国民党来台後)慈聖殿に寄贈され、普濟殿に移ってきたものと記しています。聖君廟にある像は普濟殿からの分祀で、この聖君廟は臨安路と西門路にはさまれたあたりの成功路にある、とありますが、詳しい地点は不明。
    http://tw.myblog.yahoo.com/west35a4/article?mid=9506&prev=9530&next=9471

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  2. >Matさん
    またありがとうございます。
    なるほど張陵ですか。『道教の世界』は私も読んでいたのですが、イマイチ結びつきませんでした。ああ『三國志演義』では扱いの悪い張魯の一派だよなぁ……てな感じで。

    張源先の後継はまだ決まってないみたいですねぇ。

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