2010/06/20

隘門(台北・萬華)

隘門(台北・萬華)
 龍山寺から歩いて2~3分、観光客が山ほど行き交う広州街から間近な場所だが、全くといっていいほど気付く人のいない門がある。
 何を隠そう、我々もここは2009年に一度通っている。もちろんその存在は知らなかったので、改めて訪問することになった。

 というか、この写真を見ても「何も写ってないじゃないか」と思う人の方が多いのではなかろうか。

隘門(台北・萬華)
 しかし、反対側に立てば明らかに門であり、廟である。
 これは隘門と呼ばれ、清の時代の艋舺の街の名残りの古蹟なのだ。

隘門(台北・萬華)
 門の上には土地公が祀られる。土地公の塞の神としての性格を考えれば、なるほどという感じだ。

 隘門はいわゆる城に設けられる門とは違い、町が自衛のために造るものらしい。
 かつて、この門の南は龍山寺池と湿地であり、まさにここは艋舺の南の口であった。そこに住み着いた三邑人は、他の移民と紛争を繰り返している。そこで、このような門で町を守らねばならなかった。

 外敵の攻撃を受けた時にはここが閉じられ、迷路のような街に人々が埋伏して戦ったらしい。日本の城下町でも迷路のような路地はあるけれど、一般人が武装して戦う世界というのは、あまりに殺伐としすぎだよなぁ。

※台湾映画『モンガに散る(艋舺/Monga)』の舞台となったので、観光客も増えるかな?

隘門(台北・萬華)
 土地公。

隘門(台北・萬華)
 虎爺もいる。
 近くには、病気の猫が何匹か集まっている。正直言って、清潔感のある場所ではない。無理に登らずに、ただ下をくぐって眺めるぐらいが無難かも。

2010/06/19

仁濟醫院(淡北育嬰堂址)

仁濟醫院(淡北育嬰堂址)
 華西街を抜け、広州街に出る。そこで龍山寺とは反対の西方向に仁済医院という病院がある。写真は南側の旧館で、北側には高層ビルの新館がある。
 この病院の地に、育嬰堂という孤児院があったらしい。広州街の旧称も育嬰堂辺街だった。

 で、この病院を載せているのは、その入口の壁に、清代の石碑を埋め込んであるからだ。残念ながら鉄格子が降りていて見えないが。
 同治9年(1870)に完成した育嬰堂が、どの程度機能したのかは分からない。日本統治時代には廃止されたようだ。日本は西洋的制度を持ち込んだから、育嬰堂の理念そのものをいったん解体する必要があったのかも知れない(適当に言ってるだけ)。

 なお、仁済医院は育嬰堂をその母体と称している。断絶の有無はともかく、理念を受け継いだ形をとっているのは確かなようである。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 この媽祖廟の名は啓天宮。そしてこの地は料館口という。
 華西街夜市の近くにあるので、料館というと何か料理旅館の略称のようだが、全く料理とは無関係。ここにあったのは貯木場で、福建から運んだ建築材や、淡水河上流から運ばれた造船材などの溜まり場であった。東京でいうところの木場である。
 『台北歴史深度旅遊』には19世紀のものと思われる写真が載っており、木材が山積みになっている。木場は海運の民の土地なので、媽祖が勧請されることは自然の成り行きだったと思われる。

 なお乾隆29年の『続修台湾府志』では、渡頭街の媽祖宮が乾隆11年の創建とあるらしい(『大日本地名辞書』)が、そちらは台北天后宮の前身の新興宮のことだろう。
 料館媽祖啓天宮は咸豊年間(1851~61)に建立され、当時は淡水河に面していた。

※追記
 啓天宮でもらった「簡介」によれば、福建の商人が船中に媽祖を奉じていたとある。そして、あるとき快晴で波も穏やかなのに、船が回転した。そこで占いをして神の意志を聞き、ここに媽祖を祀ることにした、と書かれているように思われる(原文がちょっと難しい)。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 主祭殿。
 中央はともかく、左右に目を疑うようなものが。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 未だかつてない造型の千里眼将軍。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 こちらは順風耳将軍。自己紹介の文字をかけているのが、何となく痛々しい。だいたい順風耳は耳が良いのだから、グラサンよりやるべきことがあるのではないか。いや、そんな真面目なツッコミを入れてる場合ではないか。
 
 まぁ日本でも「鬼」はどんどんデフォルメされていった歴史があるけれど、たとえば仁王門にこんな像が安置されたら、きっと苦情殺到だろう。
 もちろんデフォルメ路線は子どものイタズラではなく、特定の政治的意図をもってなされている。そしてこういう媽祖信仰が認められてしまうのは、「現在の」信仰であるという証拠にはなるんだろう。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 媽祖像そのものには、特にどうというコメントもない。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)池府王 爺
 こちらは奥に祀られている池府王爺。台北では王爺信仰をあまり見かけなかったが、我々がたまたまそういう廟に出会わなかっただけだろうか。

 さて、この王爺は別名「番王爺」というらしい。
 山中で木材を伐り出す人々は「番害」に遭うため、この神に祈って免れようというものだと『台北歴史深度旅遊』にある。料館口らしい祭神ということになろう。

※なお「簡介」によれば、大正6年にここに遷したとある。

料館媽祖啓天宮(台北・萬華)
 ここも媽祖の祭礼が行われていた(上の写真にも経典類や数珠などが写っている)。我々が訪れた時間には、この日の行事(たぶん読経)は終わっていたようだが、湯圓を振舞ってもらった。非常にシンプルな白玉団子のぜんざいだ。
 見た目以上にボリュームがあって、たぶんカロリーもあったに違いないが、お祭りの場に加えてもらえた気がして、ちょっと嬉しい時間だった。

大厝口から料館口へ(台北・萬華)

華西街(大厝口)
 華西街のアーケード街は、桂林路から南の方が「夜市」っぽい(そもそも北側は昼から営業している)。この南側は、かつて大厝口と呼ばれた。豪邸が多かったのがその由来だそうな。
 少し南に下ったところに、名前と中身が一致しない「台南坦仔麺」がある(写真の左奥)。立派な海鮮レストランだ。
 まぁ初心を忘れないためらしいので、一致しないことはどうでもいいが、ちょうどその店の前を西に折れると、媽祖廟の存在を示す看板が立っている。

大厝口
 看板に従って路地を歩く。
 写真は華西街に向けて撮ったものなので、ばあさんの奥の突き当たりが華西街ということになる。

料館口
 梧州街を渡る。
 これだけ立派なアーチがあれば、道を間違うことはないだろう。

料館口
 梧州街を渡るとさらに道は狭くなる。そしてなぜかカラオケの大音響が聞こえたりする。お店の前に若い女性が立っていたりする。あまり一人歩きには向いてない雰囲気の道である。

料館口
 ようやくそれらしい場所に到着した。
 もちろん、後ろの廃屋っぽい建物が媽祖廟ではなく、敷地が狭いのでここに出しているだけだ。この位置から後に振り返れば、目指す啓天宮が鎮座している。啓天宮およびこの辺の地名「料館口」については次の記事を待つべし。
 ちなみに、遠そうに書いてみたけど、せいぜい5分の距離。

 そういえば途中で、謎の黒シャツ集団(今話題の野球賭博の胴元みたいな方面じゃなくて、ただの学生だった)に遭遇した。
 遠目には怪しげな集団だったが、近くで見たら服装は黒いだけでバラバラ。何人かが日本語の書かれたTシャツを着ていたのはガッカリした。
 hashiは日本語Tシャツの人を見かけると、わざわざ写真を撮ったりするが、derorenは「そんなもの着るぐらいなら謝将軍シャツでも着てろ」と思うわけである(謝将軍シャツはありそうで無いよね)。
 この黒シャツ集団は、梧州街のアーケードで休んでいるところまでは確認した。その後は不明。誰も興味ないでしょ?

2010/06/18

西華街(凹月斗仔)と冬瓜茶

西華街(凹月斗 仔)
 華西街は桂林路を挟んで南北にアーケード街が続いている。一般に華西街夜市と呼ばれる場所だが、別に夜だけ営業しているわけでもない。
 写真は桂林路の北側。この辺はかつて「凹月斗仔(「月斗」で一文字)」と呼ばれていた。すれ違うのにへそがこすれるほど狭いという意味のようだが、日本時代に拡幅された。

 それにしても「月斗」は、日文フォントはともかく中文フォントにも存在しない。まぁ異体字の類なんだろうが。

西華街(凹月斗仔)
 この辺は清代の末期には、既に娼婦の街として名を馳せていたという。
 日本もここを遊郭として整備し、国民党政権もそのまま引き継いだ。1998年に台北市政府が娼婦の排除をうち出してから13年ほど経った現在も、どことなくその名残りは感じる。客層がちょっと違うし、あからさまに同伴と分かる男女もいるし。

 まぁともかく、未だに台湾旅行=買春ツアーだと思っている人たちには、懐かしさを感じる場所なんでしょうな。そういう人たちは基本的に台湾を見下しているから、そもそもこのブログの読者にはならないだろうが。

西華街(凹月斗仔)
 毒を吐くのはほどほどにしておこう。 
 ともかく、腹は減ってないしイマイチな雰囲気だったので、飲み物だけ購入。店の名前は不明だ。
 台北では珍しく冬瓜茶とあるので買ってみたが、今まで飲んだ冬瓜茶の中でも微妙な部類。黙って青草茶でも選べば良かったのかも知れない。

番藷市街と華西街北端(台北・萬華)

番藷市街(台北・萬華)
 青山宮の前の貴陽街は、台北の起源というべき古い街である。
 元々は原住民(平埔族)の居住する地であった艋舺。吉田東伍『大日本地名辞書』では艋舺について、原住民の用いる丸木舟の名ヴァンカァが語源と説明している(吉田東伍説はけっこう眉唾な内容も多いが、一応ここでは紹介しておく)。
 18世紀に福建から渡って来た人々は、そんなヴァンカァに上陸して街を造った。この通りで交易が行われ、その主力商品は番藷(サツマイモ)であったという。番藷市街の名はそこに始まっている。

番藷市街(台北・萬華)
 この写真の奥が淡水河である。従って、ここがまさに発祥の地……なのだが、見ての通りで全く何の面影もない。左に折れる華西街の方が、まだ多少それっぽい風情がある。

 日本時代の写真を見ると、この街はちょっとだけ京都の祇園や島原を思わせる景色である。『大日本地名辞書』によれば、番藷市は音が似て(当時の現地音はホアヌツウチイらしい)おめでたい文字の「歓慈市」と改名、やがて遊郭となった。
 以後、日本から国民党に政権が移っても、ここはそういう街であり続けた。その名残りが華西街夜市ということになる。

華西街北端(台北・萬華)
 華西街のいちばん北端の様子。
 もしかして日本時代の?、と思わせる建築で、中央右の「入船町会館」も注目される。以前に紹介したように、興直街や番藷市街の辺りは、日本時代は入船町だった。

※旅旅台北で番藷市街の記事を見つけたが、紹介されている写真は新興宮付近より東側のみなので、興直街、あるいは草店尾街と考えられる。
 もちろん初期の番藷市街は、細かく分かれてはいなかっただろう。しかし清代の末期には、既にこれらの街は区別されていたはずだ。

華西街の小廟(台北・萬華)
 そんな通りに小さなお堂があった。対聯の一番上の文字が「萬華」である(対聯の一番上は、その廟宇の名になっている場合が多い)。
 祀られてる両側は仁王像っぽいし、対聯にも仏教色が感じられるが、金玉満堂が垂れ下がっている。ある意味で台湾らしい謎なお堂である。

艋舺青山宮(台北・萬華) (三)鳳音社の神々

艋舺青山宮(台北・萬華)
 鳳音社は青山宮に奉仕する団体の一つらしい。そこの文判官の生誕ということで、門には花が飾られ、中にこんな形で安置されていた。
 なお、この写真は主役の文判官と、武判官が切れている。あしゅら男爵陰陽爺側の端に文判官、反対の左端に武判官がいた。

艋舺青山宮(台北・萬華)
艋舺青山宮(台北・萬華)
 こちらが文判官と思われる。上の写真だけでは分からなかったが、下の写真に見えるように、筆を持っている。
 文判官は基本的に武判官とセットで、城隍廟にいる神だ。要するに書記官ですな。

艋舺青山宮(台北・萬華)
 こちらも文判官かも。
 非常に味わい深い顔である。

艋舺青山宮(台北・萬華)
 武判官?
 すぐ上の像と一対の造型で、ここに鎮座する中では最も古そうだ。

艋舺青山宮(台北・萬華)
 これは間違いなく武判官。

 youtubeに暗訪の様子が上がっていた。一度見てみたいものだが、新暦だとだいたい12月なので、なかなか難しい。