2012/08/22
伍徳宮
妙寿宮の東寄りの路地をしばらくさまよったら、廟があった。
目の前には船の姿が見える立地で、海を向いて建っている。とりあえず伍徳宮というらしい。
ちなみに、右側の小さな建物には「伍徳宮 代天巡狩 金徳安」とある。内部は見えないが、王船が安置されているようだ。
この廟に関して、derorenに予備知識は一切ない。ただし、事細かに由来を記した石碑が建っているので、以下はその碑文に依拠する。
現在の廟宇は1969年に建て替えたという。
特筆するようなものではないが、それ相応の建物である。
中心壇。見ての通りで、奥の様子はよく分からない。
碑文によれば、伍徳宮という名は、伍位千歳を祀ることに由来するらしい。日本時代、宗教弾圧で廃廟となるのを避けるために王爺館と改名、民国になって元に戻したとあるから、それ以前から廟名はあったという説明になる。
ただし同じ碑文には、主祭神は蘇府千歳だとも書かれてあったりする。derorenにはなかなかその辺の意味が理解出来なかったが、どうやら伍位千歳=蘇府千歳のようだ。
その蘇府千歳が手前にいた。中央壇の隠れた部分にも、別の像がいるのか、それともこの像が主祭神そのものかは分からない。というか、日本なら絶対ここに主祭神はいないけど、台湾ならありそうなのよね。
さて、碑文によれば、康煕36年(1697)に福建省泉州の軍隊が将来したとある。
これは清朝に、台湾防衛のために福建から安平に駐留した軍のことで、近所の妙寿宮とも同様の関係だ。
そして伍位千歳の名は、ここから生じたと思われる。伍長という語に名残りを留めるように、伍とは軍隊を指す文字である。つまり軍の関係の王爺で、その名は蘇府千歳という話。
広利尊王。碑文によれば、元は烽火館に祀られていたものを、1900年に遷したという。烽火館は、清代の駐留兵士のために建てられた会館の一つで、現存する海山館などと同様のものだったと見られる。
1900年は既に日本統治時代で、清軍の関連施設がそのまま存続することはできない時期だ。清軍と関連する神は遷して、会館を集会所に……といった事情があったのかも知れない。
なお、同時に金門館の神々も遷されたという。媽祖や水仙尊王らしいが、どこに居たのだろう。
以上、全面的に依拠している石碑だが、その内容は乩童がまとめたものだという。碑文の前半に、「私が王爺の小法(童乩)となって五十年になるが……」と、自身の半生を振り返る文面があったりして、なかなか珍しい内容だ。
またそこには、金門島の同名廟との関係が記されている。
泉州から安平に向かった船は、嵐に遭って破損し、やむなく途中の金門島に停泊、修理することになった。修理は二十六日にも及び、その縁で金門島と安平の双方に、将来した蘇府千歳を祀ることとなったそうな。
ただし実際には、両廟の交流は皆無だという。
上の由来話は、民国88年正月に神を迎えて初めて知った内容と記されている。
童乩がいる限り、常に新たな神話は生まれ続ける。そんな当たり前のことを感じさせてくれる碑文だ。読みづらいけど楽しい。
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deroren さん
返信削除全家都好嗎?
宇治好嗎?
從新聞上看到大雨的消息
希望你們一切都好
>gini sama
返信削除謝謝。
像每天一樣地遭受雷雨。可是,我們平安^^