当ブログの一番人気記事で、未だに定期的に問い合わせが来るのが、博客來網路書店の通販情報である。
正直、その当時の投稿目的――リアルな知り合いの購入便宜――という意味では、あまり役に立った形跡がなかったりする。もちろん、公開記事にした以上は、不特定多数向けに書いているけどね。
我がブログが、台湾書籍の日本流通に多少なりとも貢献できたことは確かな模様である(鼻高々)。
とはいえ、何せ記事が古いのが気になっていた。
以前とはいろいろ画面も変わっている。その一方で、一時のようにderorenは本を買わなくなった。……というか、既に数十冊は買っているのだから、ペースが落ちるのは当たり前である。円安問題もあるけど。
最後に購入ボタンを押したのは、一昨年ぐらいだった気がする。
で、久々に5冊ほど買うことにした。
まだ届いていない段階なので、まだ紹介はできないが、遠足文化の本がセールス期間だったので、集中的に購入したのである。
購入画面は、すべてキャプチャーしてある。時間とやる気があれば、通販記事のリニューアルといきたいところだ。
まぁ、リニューアルするならば会員登録もキャプチャーし直さなければなるまい。面倒なので、当面は質問への回答用に保存しておく予定。
2016/04/30
微風台南を訪問してみた
すっかり更新が止まって、そのうちにbloggerの仕様もいろいろ変わって、ますます更新が遠ざかる日々。
そんな日々ではあったが、数ヶ月後のとある仕事で台湾に触れる可能性が高くなった。そこで自分のブログを読み返してみると、「なんだこのブログ、面白いじゃねーか」と、非常に生産性の乏しい感想を抱いたわけである。
そして、面白くなって読みふけってしまったから、台南熱も再燃。とりあえず飯を食おう、と調べてみたら、京都に「微風台南」という台南料理の店があるそうな(その代わり、大阪の宝島は閉店してたのね)。
思い立ったが吉日、ということで仕事帰りに寄ってみた。もちろんhashiとtomopeeと三人である。場所は河原町丸太町をあがった東側だ。
魯肉飯とあったが、肉燥飯。ただし、台南ではこの高菜みたいなヤツが乗らないから、魯肉飯なのかも。
この高菜みたいなヤツは、その昔、東京歌舞伎町にあった台湾料理屋でよく食べた。その店では食べ放題だったので、排骨飯や牛肉麺と一緒に食べたものだ。derorenの台湾メシのルーツみたいな味なので、それはそれで懐かしい。
味はばっちり台湾。tomopeeもこれは喜んで食べた。ただし高菜みたいなヤツは、子どもにはまだ早い。
蛋餅は思ったより厚みがあり、これはこれでうまい。hashiは、もう少しカリッとした方が好みだった模様。
まぁこれは作ろうと思えば家で作れるので、またチャレンジしようかなぁ。
なんと棺材板。某台南の本家同様に、揚げた食パンに安っぽいシチューだが、食パンの厚みとこぼれるシチューは、本家より豪華だぜ。tomopeeもお気に入り。
そんなわけで、とても台南な店で、derorenとhashiは大いに満足した。しかし、5歳となったtomopeeには、苦手な料理だらけだった模様。何せ、知らないものを食べたがらない年頃なので、蛋餅すら食べない。珍珠奶茶の珍珠を気味悪がって食べないのには閉口した。
tomopeeを連れて台南を食べ歩くのは、今は至難のわざなのかもなぁ、という現実を知った気分である。
久々の更新で、いろいろ記事が雑である。
たぶん、この店には遠からず再訪するので、その際にもうちょっとマシな記事を書きたい。
そんな日々ではあったが、数ヶ月後のとある仕事で台湾に触れる可能性が高くなった。そこで自分のブログを読み返してみると、「なんだこのブログ、面白いじゃねーか」と、非常に生産性の乏しい感想を抱いたわけである。
そして、面白くなって読みふけってしまったから、台南熱も再燃。とりあえず飯を食おう、と調べてみたら、京都に「微風台南」という台南料理の店があるそうな(その代わり、大阪の宝島は閉店してたのね)。
思い立ったが吉日、ということで仕事帰りに寄ってみた。もちろんhashiとtomopeeと三人である。場所は河原町丸太町をあがった東側だ。
魯肉飯とあったが、肉燥飯。ただし、台南ではこの高菜みたいなヤツが乗らないから、魯肉飯なのかも。
この高菜みたいなヤツは、その昔、東京歌舞伎町にあった台湾料理屋でよく食べた。その店では食べ放題だったので、排骨飯や牛肉麺と一緒に食べたものだ。derorenの台湾メシのルーツみたいな味なので、それはそれで懐かしい。
味はばっちり台湾。tomopeeもこれは喜んで食べた。ただし高菜みたいなヤツは、子どもにはまだ早い。
蛋餅は思ったより厚みがあり、これはこれでうまい。hashiは、もう少しカリッとした方が好みだった模様。
まぁこれは作ろうと思えば家で作れるので、またチャレンジしようかなぁ。
なんと棺材板。某台南の本家同様に、揚げた食パンに安っぽいシチューだが、食パンの厚みとこぼれるシチューは、本家より豪華だぜ。tomopeeもお気に入り。
そんなわけで、とても台南な店で、derorenとhashiは大いに満足した。しかし、5歳となったtomopeeには、苦手な料理だらけだった模様。何せ、知らないものを食べたがらない年頃なので、蛋餅すら食べない。珍珠奶茶の珍珠を気味悪がって食べないのには閉口した。
tomopeeを連れて台南を食べ歩くのは、今は至難のわざなのかもなぁ、という現実を知った気分である。
久々の更新で、いろいろ記事が雑である。
たぶん、この店には遠からず再訪するので、その際にもうちょっとマシな記事を書きたい。
2015/09/08
台南歴史年表(その4)
その3を書いた時点で、その4もほぼ現状まで書き終えていた。が、どこで区切るべきか考えているうちに多忙となり中断。その後、多忙じゃなくなっても、一度中断した作業を再開できずに現在に至る。
とりあえず、書いたものは公開しようと思う。たった4年分だけど。
1871年(清・同治10年 日本・明治4年)
牡丹社事件が起きる。
この年、琉球国の船が台風に遭い、台湾の屏東付近に漂着した。総勢60名ほどいた彼らは、当地の集落「牡丹社」に向かい、54名が殺害されてしまう。
殺害に至った経緯は、日本側と台湾側の主張が異なるので、はっきりしないと記しておく。明確なのは、日本政府が事件の責任を原住民のみに被せた点である。
生き残った琉球人は、福建省に送られた上で琉球国へと還された。
ここまでの表現でも分かるように、清側はこの件を、あくまで清と琉球国の問題として処理した。
当時の琉球国は、清と日本の双方に従属する王国であり、日本領土ではない。ただし、生存者が帰還した1872年には「琉球藩」が布告され、日本の領土化がすすめられていた。
日本政府は、この事件を「日本と台湾の事件」と主張することで、琉球国の併合を認めさせようとしたわけだ。もちろん、政府の思惑は他にもあったわけだが。
1873年(清・同治12年 日本・明治6年)
日本軍、台湾の侵略を図る。
先の牡丹社事件に対する報復として、日本軍が台湾を襲撃、原住民を殺害した。
既に述べたように、この出兵の第一の意図は、琉球国の日本領有を清に認めさせることである。
ただし実際には、兵士の中には開拓民とおぼしき層が混じっていた。つまり、そのまま台湾を日本領土にする意図も有していたのだ。
そもそもこの出兵には、明治政府下の政情不安が絡んでいた。幕府の廃止に伴い、失業した武士たちが不満をつのらせ、やがて佐賀の乱や西南戦争などを引き起こしたことはご存じだろうが、そうした層に職を与えるための手段の一つが海外出兵なのである。
侵略先の第一候補は朝鮮。しかし征韓論はそう簡単には通らない。そんな時に牡丹社事件が起きたので、これを好機と戦争に乗りだした。というか、台湾襲撃もやめるよう押し留められたのだが、強引に攻め込んだのである。
そうして行われた台湾襲撃は、植民地化という意味では失敗する。日本軍にとっての最大の敵は、短期的にいえば台湾原住民ではなく病気だった。マラリアやデング熱など、熱帯特有の病気に対して、日本軍の軍医は適切な処置ができず、多くの死者を出した。
そこで清政府との交渉が行われ、原住民の行為に非を認めた清が、日本に賠償金を払うことで決着。日本軍は半年ほどで撤退した。
この賠償金は、派兵費用には全く見合わない額だったが、琉球が日本、台湾が清にそれぞれ属することの証明となった。少なくとも、琉球国の位置づけに関しては、日本側の意図が実現したことになる。
また、日本軍はこの派兵の際に、気象観測を行うなど、台湾の把握につとめた。後の台湾併合に、多少なりとも役には立ったものと思われる。
1875年(清・光緒元年)
台南の開山王廟、延平郡王祠に改められる。当時は閩南式の廟宇であった。
鄭成功を祀り、日本の観光ツアー客にはおなじみの延平郡王祠。しかし、鄭成功は清政府の大敵であり、表立って祀ることなど許されるはずもなかった。そこで「開山王」としてひっそりと祀られていたという。
ところが1875年、台湾統治を委ねられた沈葆楨は、「鄭成功は反逆者ではなく忠義の臣である」と清政府に訴えた。
これまでの主張をひっくり返した上で、大々的な廟の整備を行ったのである。
ちなみに、 台湾の「開山」がすべて鄭成功というわけではない。台南市の開基開山宮は保生大帝を祀る。開元寺の開山堂には、鄭成功も祀られている(開元寺は鄭成功の子、鄭経の別邸址)。また、同じく台南市にある大人廟の「大人」を鄭成功とする説も。
これらは、秘密結社「天地会」との絡みで、さまざまに物語られる鄭成功である。
沈葆楨は、牡丹社事件と日本軍の台湾侵略という事態の中で、台湾を護るために送られた人物である。
具体的には、日本の軍に備えて西洋式の億載金城を造り(1876)、移民の禁令を完全に撤廃して、中国人による植民をすすめた。また、台南中心であった行政を、より日本に近い台北に移す方向性も定めた。
鄭成功の再評価も、もちろん対日本という目的である。つまり、台湾で人気のあった鄭成功を政府公認とすることで、住民の反清感情を抑えようとしたのだ。
なお、台湾初心者向けにその後について簡単に記しておこう。
1895年に台湾の日本領有が確定すると、鄭成功は日本の血を引く者であり、日本軍の先駆者とされた。そこで閩南式の廟は日本神社建築に改められ、開山神社となった。
台湾の神社は、基本的に日本の神を持ち込んだものだが、ほぼ唯一の在地神が鄭成功だった。
ただし『台湾事情』などによれば、現地の子どもを台南神社(北白川宮を祀る)に連れて行く一方で、開山神社が重んじられていた様子はあまり読み取れない。公学校向けの教科書でも、台南で触れられるのは台南神社のみ。
所詮は余所者という意識があったのではないか、とも思う。
国民党政権下では、再び延平郡王祠となる。ただし建物は北京風。
台湾に脱出した国民党にとって、大陸反攻を夢見た鄭成功は、党の先駆者という扱いになった。そこで現在のような社殿が建てられた。
北京風なのは、中国の正統王朝の様式にならったもの。台北の旧城門のいくつかも、閩南風から北京風に改築された。故宮博物院など新規の建物も同様である。
まぁ要するに鄭成功という人物は、時々の為政者に都合よく利用されて、現在に至っている。
ポジティブに捉えれば、いろんな意味で境界線上の存在なのである。
延平郡王祠
開基開山宮
開元寺開山堂
大人廟と鄭成功伝承
鄭成功を書くと長くなったので、ここで一区切り。
初心者向けを意図しているので、当ブログの読者には分かりきったことも書いた。
とりあえず、書いたものは公開しようと思う。たった4年分だけど。
1871年(清・同治10年 日本・明治4年)
牡丹社事件が起きる。
この年、琉球国の船が台風に遭い、台湾の屏東付近に漂着した。総勢60名ほどいた彼らは、当地の集落「牡丹社」に向かい、54名が殺害されてしまう。
殺害に至った経緯は、日本側と台湾側の主張が異なるので、はっきりしないと記しておく。明確なのは、日本政府が事件の責任を原住民のみに被せた点である。
生き残った琉球人は、福建省に送られた上で琉球国へと還された。
ここまでの表現でも分かるように、清側はこの件を、あくまで清と琉球国の問題として処理した。
当時の琉球国は、清と日本の双方に従属する王国であり、日本領土ではない。ただし、生存者が帰還した1872年には「琉球藩」が布告され、日本の領土化がすすめられていた。
日本政府は、この事件を「日本と台湾の事件」と主張することで、琉球国の併合を認めさせようとしたわけだ。もちろん、政府の思惑は他にもあったわけだが。
1873年(清・同治12年 日本・明治6年)
日本軍、台湾の侵略を図る。
先の牡丹社事件に対する報復として、日本軍が台湾を襲撃、原住民を殺害した。
既に述べたように、この出兵の第一の意図は、琉球国の日本領有を清に認めさせることである。
ただし実際には、兵士の中には開拓民とおぼしき層が混じっていた。つまり、そのまま台湾を日本領土にする意図も有していたのだ。
そもそもこの出兵には、明治政府下の政情不安が絡んでいた。幕府の廃止に伴い、失業した武士たちが不満をつのらせ、やがて佐賀の乱や西南戦争などを引き起こしたことはご存じだろうが、そうした層に職を与えるための手段の一つが海外出兵なのである。
侵略先の第一候補は朝鮮。しかし征韓論はそう簡単には通らない。そんな時に牡丹社事件が起きたので、これを好機と戦争に乗りだした。というか、台湾襲撃もやめるよう押し留められたのだが、強引に攻め込んだのである。
そうして行われた台湾襲撃は、植民地化という意味では失敗する。日本軍にとっての最大の敵は、短期的にいえば台湾原住民ではなく病気だった。マラリアやデング熱など、熱帯特有の病気に対して、日本軍の軍医は適切な処置ができず、多くの死者を出した。
そこで清政府との交渉が行われ、原住民の行為に非を認めた清が、日本に賠償金を払うことで決着。日本軍は半年ほどで撤退した。
この賠償金は、派兵費用には全く見合わない額だったが、琉球が日本、台湾が清にそれぞれ属することの証明となった。少なくとも、琉球国の位置づけに関しては、日本側の意図が実現したことになる。
また、日本軍はこの派兵の際に、気象観測を行うなど、台湾の把握につとめた。後の台湾併合に、多少なりとも役には立ったものと思われる。
1875年(清・光緒元年)
台南の開山王廟、延平郡王祠に改められる。当時は閩南式の廟宇であった。
鄭成功を祀り、日本の観光ツアー客にはおなじみの延平郡王祠。しかし、鄭成功は清政府の大敵であり、表立って祀ることなど許されるはずもなかった。そこで「開山王」としてひっそりと祀られていたという。
ところが1875年、台湾統治を委ねられた沈葆楨は、「鄭成功は反逆者ではなく忠義の臣である」と清政府に訴えた。
これまでの主張をひっくり返した上で、大々的な廟の整備を行ったのである。
ちなみに、 台湾の「開山」がすべて鄭成功というわけではない。台南市の開基開山宮は保生大帝を祀る。開元寺の開山堂には、鄭成功も祀られている(開元寺は鄭成功の子、鄭経の別邸址)。また、同じく台南市にある大人廟の「大人」を鄭成功とする説も。
これらは、秘密結社「天地会」との絡みで、さまざまに物語られる鄭成功である。
沈葆楨は、牡丹社事件と日本軍の台湾侵略という事態の中で、台湾を護るために送られた人物である。
具体的には、日本の軍に備えて西洋式の億載金城を造り(1876)、移民の禁令を完全に撤廃して、中国人による植民をすすめた。また、台南中心であった行政を、より日本に近い台北に移す方向性も定めた。
鄭成功の再評価も、もちろん対日本という目的である。つまり、台湾で人気のあった鄭成功を政府公認とすることで、住民の反清感情を抑えようとしたのだ。
なお、台湾初心者向けにその後について簡単に記しておこう。
1895年に台湾の日本領有が確定すると、鄭成功は日本の血を引く者であり、日本軍の先駆者とされた。そこで閩南式の廟は日本神社建築に改められ、開山神社となった。
台湾の神社は、基本的に日本の神を持ち込んだものだが、ほぼ唯一の在地神が鄭成功だった。
ただし『台湾事情』などによれば、現地の子どもを台南神社(北白川宮を祀る)に連れて行く一方で、開山神社が重んじられていた様子はあまり読み取れない。公学校向けの教科書でも、台南で触れられるのは台南神社のみ。
所詮は余所者という意識があったのではないか、とも思う。
国民党政権下では、再び延平郡王祠となる。ただし建物は北京風。
台湾に脱出した国民党にとって、大陸反攻を夢見た鄭成功は、党の先駆者という扱いになった。そこで現在のような社殿が建てられた。
北京風なのは、中国の正統王朝の様式にならったもの。台北の旧城門のいくつかも、閩南風から北京風に改築された。故宮博物院など新規の建物も同様である。
まぁ要するに鄭成功という人物は、時々の為政者に都合よく利用されて、現在に至っている。
ポジティブに捉えれば、いろんな意味で境界線上の存在なのである。
延平郡王祠
開基開山宮
開元寺開山堂
大人廟と鄭成功伝承
鄭成功を書くと長くなったので、ここで一区切り。
初心者向けを意図しているので、当ブログの読者には分かりきったことも書いた。
2015/01/06
年始

そんなわけで2015年。このブログももうすぐ丸6年。すっかり開店休業だけど、今も一応は台湾情報を集めている。
それにしても円安だ。台湾への航空便が増えて、運賃は下がったのかも知れないけれど、そもそも人数が増えたからねぇ。
店の情報もそろそろ古くなったのよね。
情報源も、無名ブログのサービス停止で減ってしまった。だいたいはpixnetに移ったようだが、ゴッソリ消えてしまった先も多い。
ちなみに、鷄排を作った記事へのアクセスが地味に多い。何と、日式鷄排で台湾から検索されている模様。あんなしょうもない記事では申し訳ないし、作り直して新しいのを書こうかなぁ。幸い、地瓜粉は常備しているし。
tomopeeは、もう中辛のカレーが食えるようになった。排骨飯にもチャレンジしたいところだ。
すっかり写真の説明を忘れていた。
昨年末、tomopeeは舞台に出演してしまった。保育園のお遊戯会ではない(いや、そっちも出たけど)。まさかの有料舞台。
もちろん、どこかの事務所に所属したとか、子役タレントを目指すとか、そんな話ではないので念のため。
2014/10/30
最近のtomopee

開店休業状態の当ブログ。しかし、tomopeeは彼なりに成長している。
tomopeeには、台湾旅行の記憶はない。さすがに1歳の旅行を憶えてくれはしない。その代わり、台南で撮影した沢山の写真を見せたりして、お前はここに行ったことがあるんだぜ、と教えている。
おかげで、台湾新幹線の映像を見ると、「乗ったことある」と口にするようになった。実感が伴っているわけではないけれど、彼は彼なりに台湾を記憶したというべきか。まぁ、derorenのワガママを、derorenが摺り込んだだけなのだが。
deroren自身のことを思い返せば、3歳の記憶だってほとんど残っていない。だから、tomopeeが近所を散歩した(上の写真)記憶も、きっとこの先の無数の出来事のなかで消えて行くのだろう。
親となったderorenは、どうにかして、一つでも多くの記憶を留めておきたいと願うようになった。おかげで最近は、写真より動画がメインになりつつある。恐らく、次に台南に行くとしたら、やはりビデオを撮り続けるだろう。

いつの間にか日本に入り込んだhalloween。保育園や幼稚園が率先して取り入れたと思われる。
ちなみにこの写真は、某遊園地で撮影。仮装するとお菓子がもらえるというので、hashiが作った黒衣を纏っている。derorenは関心がないけれど、まぁtomopeeは楽しそうだったのでいいか、という感じでござる。
2014/09/28
『台湾鉄道旅行案内』より台南市の地図

1934年9月刊『台湾鉄道旅行案内』は、台湾総督府鉄道の公式ガイドブック。当時の日本人向け台湾の歴史、そして基隆から順に各地方の案内となっている。
まぁ特筆するほどの内容ではない。総督府の息がかかっているので、当然『台湾事情』の内容とも重なる。
ちなみに、単独項が立てられているのは以下。ただし台南駅のみであり、前後の駅それぞれにも項がある。
・孔子廟(楽器について解説あり)
・開山神社(現:延平郡王祠。鄭成功の解説あり)
・五妃廟
・台南神社(もちろん廃絶)
・安平港
・台湾精糖会社(精糖法の解説あり)
・ゼーランヂヤ城趾(現:安平古堡)
・媽祖廟(現:祀典大天后宮)
・関帝廟(現:祀典武廟)
・赤崁楼
・台南公園(中山公園を経て現在はこの名)
・開元寺
・鹹水養殖試験所
・水仙宮
・法華寺
・竹渓寺
・西市場(大菜市)
・府署趾(鄭成功の邸宅址。たぶん鄭氏家廟)
・億載金城
ついでに、飲食店、劇場、土産品店(伴手禮)は以下の通り。台南銀座(現:中正路)のカピタンと林デパート(林百貨)、あとは宮古座ぐらいしかピンとこないが、当時の職業別地図に載ってるような店だろうと思われる。要するに日本人向け。
飲食店:鶯遷閣、小梅園、一筆、鶯、魚源、台湾楼、滋養軒、ホーライ、サロン銀座、カピタン、天国、明星、招仙閣、新宝美楼、酔仙閣
劇場:宮古座、大舞台、世界館、戎館
土産品店:国姓爺、金義興、錦昌、金足成、山本、林デパート
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