2009/06/01

金華府

三協境金華府
 神農街の中心にある三協境金華府。港に揚がった荷物を運んだ許姓苦力の守護神だという。
 我々が訪れた時は廟の改築中で、向かいの家に仮住まいであった。本物は台南でも際立って古風な廟らしいので、改築後に見てみたいものである。

三協境金華府
 内部。いかにも仮安置である。

三協境金華府
 しかし、仮安置のおかげで思わぬものを見ることが出来た。
 神輿に乗っているのは関帝だが、注目は手前のお二人だ。関平と周倉なんだろうけど、まさかこんな形の「同乗」があろうとは。あまりに画期的で驚いた。

神農街

神農街
 水仙宮付近は今では海から遠く離れているが、かつては台南の港湾エリアであった。そこには五つの港があり、五條港と呼ばれたという。
 神農街はその五つの港の一つ、南勢港の北側にあったので北勢街の名がある。神農街という現在の名は当然のように神農氏に由来する。この通りの突き当たり、薬王廟に神農氏が祀られたのが理由らしい。

 都市の中心部に残された街並は、今やレトロを売りにした台南きっての文化エリアとなりつつある。まぁ、この通り自体にはたいした変化はなく、交差する海安路がえらいことになっているわけだが。

神農街
 まぁしかし、そもそも建物が和洋中の折衷って感じなのよね。
 無理すればヨーロッパのどこかと言っても騙せるんじゃないか。やっぱり無理?

長楽市場(一) 果物と野菜


 海安路と民族路の交差点にある市場は、長楽市場だったり永楽市場だったり水仙宮市場だったりする……と「台南・ダイアリー」にある。まぁ名前はどうでもいいや……と思ってはいけない。なぜなら、道を尋ねる時に困るからだ。
 今回、江水號に行きそびれてしまったのだが、その一因は、あの店のある市場の名が通じなかったからである。市場の行政名でしか行動出来ない旅行者の限界を感じた。

 それはともかく、果物がいっぱいだ。トマトもいいけど、やっぱりスイカだなぁ。


 手前にはナス、カボチャ、サツマイモ。青い葉っぱはA菜かな?
 右手にはパイナップル、パパイヤ、バナナが見える。小さいのはライチ?


 ヤシの実の隣の黄色いのは、ハミウリ、つまりはメロンと思われる。 


 ドリアンもあった。
 しかしそれ以上に気になるのは、後ろの発泡スチロール箱だ。左端の箱には「青森県産りんご」と書いてあるぞ。まぁ実際、リンゴは日本から輸入しているらしいので、驚くようなものではないのだが。

聚福宮


 玄天上帝を祀っているという以外は不明(調べていない)。
 屋台の方が目立っていそうだ。

2009/05/31

大竹林汾陽殿パレード


 タクシーで移動した海安路と民族路の交差点。昨日に続いて行列に遭遇した。
 しかし今度は我が目を疑う光景に出くわし、二人興奮しながら撮影したわけである。
 千里眼将軍と順風耳将軍謝将軍と范将軍が歩いてるぜ!
※相方より指摘があった。確かにそうだった。


 なお、一行はここでトラックに乗ってどこかへ去って行った。大量の爆竹を鳴らしたのは言うまでもないぞ。

※一行は西羅殿で祭事を行った模様。この前なのか後なのかは不明だが、パレードの方向から考えると終了後だろうか。

開元寺(八) 開山堂

 ながらく続いてきた開元寺シリーズも最終回。トリにふさわしく開山堂である。
 ………全然ふさわしくないだろうって?
 我々の旅の目的からすれば、ここが原点なのだ。

開元寺開山堂
 外観は既に彌勒殿の記事で載せたので省略。小さなお堂の中には小さな祭壇がある。
 しかしこの祭壇がなかなかあなどれない。中央の背後に星座のように並ぶ位牌は、歴代の住持たちのものであって、特に不思議というわけではないが、中央の大きなのには、こう書いてある。 「延平郡王神位」だ。
 開元寺は鄭経の別邸であったのだから、この王は鄭経か?、とも思う。しかしこの堂の名は開山堂だ。それはいわゆる寺院の開山堂と似ているようで、実は鄭成功(開山王)の堂という意味なのではないか。
 どうですか皆さん、あなどれないでしょう? しかしもっと意外な存在に、もう気づいている人もいるだろう。

開元寺開山堂
 弘法大師だ。この寺院は基本的に禅宗だったと聞いているが、日本中に井戸を掘った聖人は宗派を超えた信仰を集めていたに違いない(思いつきで書いています)。
 なお、左の金色像は悟慈禅師、右は志中禅師である。どちらも「台南・ダイアリー」の記事に登場する住持だ。ただし志中は「開元寺」初代、悟慈はわりと最近の住持だ。なぜこの二人を選ぶのかは謎である(悟慈の代に寄贈されたのかな?)。

開元寺開山堂
 なお、悟慈和尚はこの写真の右から二人目である。なかなか怖そうな顔だ。まぁこういう所に笑顔っていうのもアレだろうけど。

開元寺開山堂
 祭壇の下にも写っている猫。背中をケガしていたらしく、動きは緩慢だった。

開元寺開山堂
 長い長い開元寺の最後は、やはりこの二人。
 日本統治時代に訪れた寺院の危機を救ったという住持、玄精と伝芳である。

 二人の足跡については「台南・ダイアリー」に譲るが、ここにも伝記が記されている。どちらも簡略なものである……が、玄精上人の説明に気になる箇所があった。
 説明文によると、事件に巻き込まれて心ならずも開元寺を去った玄精は、日本に向かう途中で遁術を使い、泉州の海印寺に飛んでいったとある。そして後に旱魃に見舞われた時に、玄精は炎の中で座禅をして雨乞いを行い、光緒辛酉年二月一一日に亡くなった。その示寂と同時に雨が降り注いだ……そうな。

 実は、光緒に辛酉年は存在しないという問題もある。辛酉は1921年で、これは中華民国10年にあたるわけである。
 1921年はまだ紫禁城に溥儀がいて、一部で清の年号が使われ続けていたという話もあるが、それなら光緒ではなく宣統となる。ただし溥儀は廃帝でしかも国民党の敵でもあるので、宣統を使わなかった可能性もある。単なるミスの可能性もあるけれど、ともかく謎は謎のまま残る。

 なんとなくすっきりしないけれど、まぁ年号なんて今回の旅では些末な問題である。憧れの開元寺に約一時間滞在した我々は、もう少しいたいのをぐっとこらえて次の目的地へ向かったわけである。
 もう少し滞在していたら、もしかしたら素食のほどこしがあったかも知れないなぁ、なんて不純な動機は……、なかったとは言い切れない我々であった。

2009/05/29

開元寺(七) 左右の護龍と大士殿


 釈迦三尊から見て左側なので、我々の進路からは右にある左護龍。1932年建築である。


 父母堂はいわゆる祖霊を祀る所らしい。


 床は禅宗の雰囲気だけど、お堂全体はどうにも違和感がある。境内でもひときわ異彩を放つ空間である。



 対して右護龍はありがちな作り。一番奥の一角は禅堂とある。ここは祖師堂であり、禅宗の祖である達磨大師を祀っているという。
 つまり、写真の中央で金色に輝く存在が達磨である。確かに左右に描かれた絵は達磨そのものなのだが……(台湾の達磨像は全般に恐ろしそうなものが多いようだ)。


 境内のもっとも奥に建つ大士殿。左に南山堂、右に功徳堂となっている。功徳堂には鄭経が掘らせた井戸があるようだが、中には入らなかった。
 この時間はどこもお祈りタイムで、あまり観光客がうろうろする雰囲気ではなかった。