2012/05/29

大人廟と鄭成功伝承

東門路高架下
 台鐵の線路を地下通路でくぐり、東門円環に向かう。
 どうということのない高架下の道だが、暑い。deroren独りだから、まぁどうにでもなるが。

藍雪花
 ルリマツリ(藍雪花)が咲いていた。日本名はマツリカ、要するにジャスミンに似ているという意味だが、分類上は全く関係ないので、台湾名の方が良い感じだ。
 ちなみにこの花は熱帯植物というほどではなく、日本でも普通に栽培されている。ただし、日本の露地で3月に咲かせるのは難しい。

大人廟
 そうして東門円環の外れに出ると、小さな廟があった。正確にいえば、閉鎖されているので廟「だった」建物を発見したというべきか。
 大人廟という、ちょっと珍しい名である。

大人廟 在臺灣縣保大里,其神聰明正直,亦是代天巡狩之神。(蔣毓英編『台湾府誌』)

大人廟在臺灣縣保大里。廟宇最為弘敞。(高拱乾編『台湾府志』)


 17世紀の資料には、既に「大人廟」が載っている。「代天巡狩」とあるので、いわゆる王爺系の神とみられるが、とりあえず場所が全く異なるので、ここのことではない(保大里は帰仁区の地名との説がある)。
 現在の祭神は朱府千歳ら三神なので、間違いなく王爺廟だが、台南市の案内板では、1716年の創建とされる。やはり、上の大人廟とは別という認識のようだ。

 しかし清代の末期、市街の自衛組織を廟単位で作り上げた際には、この大人廟が、八協境の主廟となっている。あの東嶽殿をおさえてである。19世紀のここは相当な大廟だったらしい。
 その後、東門円環を造る際に敷地が削られ、お金がなく廟宇の修復もままならない状況が続いたらしいことは、大人廟を取り上げたブログ記事で追うことができる。雨漏りがひどいと貼り紙がされている写真もある。
 従って、このように閉鎖状態になったのも、神像を安置できる状況にないからだろうという想像がつく。


 ……と、ここまでは無難な話題。
 ここからはやや眉唾な話題。


 この「大人」が何を意味するか諸説あるが、実は鄭成功を指すという伝承がある。王浩一編『在廟口説書』は、その説に乗って面白おかしく廟の由来を語っている。
 まぁ日本でいうところの「隠れキリシタン」みたいな話だ。「隠れキリシタン」は本当にあったから、比較するのもどうかと思うが。

※隠れキリシタン:17世紀,在日本基督教的信仰被禁止了。在那裡為佛教寺院的身姿偽裝教會,他們隱約地隱藏保持了信仰。「隱藏切支丹」,是那樣的基督教徒的名稱。


 同書の言い分はこうだ。
 鄭成功の軍は、普羅民遮城(プロヴィンシャ城、後の赤嵌楼のこと)のオランダ軍を降伏させたわけだが、両軍が交渉した場所は、崙子頂という地域であった。
 なので人々は鄭成功を讃えて、崙子頂に彼を祀った。しかし清代になって、鄭成功を祀ることがはばかられるようになったため、王爺廟にカモフラージュした。それが、この大人廟なのである、と。
 具体的に、朱府千歳は鄭成功(国性爺だから「朱」姓)、李府千歳は鄭経(「李」は「二」と音が近いから、二代目)、池府千歳は鄭克臧/土(鄭経の子。正しくは臧の下に土)だとも記してある。

 鄭克臧/土は、弟の鄭克塽との跡目争いに敗れて殺された者。鄭克臧/土は有能な若者だったが殺され、無能な鄭克塽が政権を滅ぼしたという物語が、台湾ではよく語られている。日本でいうところの判官びいきである(延平郡王祠にも祀られている)。
 なお、彼が池府千歳なのは、殺害後に彼の首が海に捨てられ、やがて水中から引き揚げられたから。つまり池=水+也だそうな。こじつけにも程があるゾ。

※判官びいき:12世紀末,比勝者源賴朝,同情集聚了在敗者源義經(判官)。「對弱者(判官)表示同情」,是從那裡產生的諺語。

東門円環
 ともかく、台南市政府は最近になって、東門円環に石碑を建てた。それはまさに、ここで鄭成功がオランダ軍を説得して降伏させたという碑である。
 derorenはそこまで知らなかったし、あの円環の中心に行く気もなかったので確認していない。が、上の写真を見ると、右側に石柱が建っている。大きさから考えても、たぶんあれだろう。

 日本には源義経の古蹟がたくさん存在する。義経が訪問していない地域にも点在している。ここは、そんな感じで生まれた「伝承の地」なのかなぁと思うderorenである。
 どうせなら、鄭成功の霊が誰かに寄り憑いて語ったという話でもあればいいのに。


※日本,也有這樣的口傳。
 源義經,在與源賴朝(哥哥)作戰的末了,渡行了蒙古。並且改變了名字。那個名,是「成吉思汗」。
 台灣的諸位,是不是能相信這個話?

2012/05/27

台鐵東門駅跡

台鐵東門駅跡
 東門路の高架下側道を歩き続けると、台鐵の線路で行き止まりになる。
 線路沿いには狭い道路が続いており、これが非常に交通量が多く危険だった(南北の抜け道というだけでなく、大きな病院があるため)。

 従って、tomopeeを連れていたら泣く泣く通り過ぎたかも知れない目的地だが、deroren独りの身軽な状態なので、無事に見ることができた。
 ま、見ることができたなんて言うほどの価値もないけどね。ホームの残骸のようなものが見えるのは、台鐵東門駅の跡だ。この反対側が病院だ(長老教会の経営)。

台鐵東門駅跡
 東門駅は貨物専用駅だったらしい。東門路という動脈に接した地に、貨物駅を置いたわけだ。
 ただし、ここは台南駅から歩ける距離だし、道路が発達すれば用なしになるのも、これまた当然。現在、台鐵捷運化計画が進んでいて、同じく廃駅となった南台南駅などは復活の方向らしいが、東門駅復活の噂はもちろん存在しない。

祝三多廟

東門路
 台南神学院を過ぎ、東門路の側道を歩く。既にこんな感じになっていて、高架からは全く見えない位置にある。
 写真の奥で、側道は行き止まり。その先は台鐵の線路ということになる。ただ、歩行者用の地下道はあるのでご心配なく。

 ともあれ、観光客ならなるべく歩きたくないこの側道に、小さな廟を見つけた。

祝三多廟
 八協境祝三多廟。ちゃんと観光案内板も立っているゾ。
 ここは土地公廟で、まさしくこの地域の地主神といったところ。案内板によれば、1717年の創建で、1843年にここに遷ったそうな。

 しかし、こんな地味な廟だが、derorenは一応廟の名前だけは知っていた。どういう経緯で知ったのか全く思い出せないけれど、名前が特徴的なので、一度聞いたら忘れないよね。

祝三多廟
 非常に小さな廟。拝拝中のじいさんの頭が写ってしまった。申し訳ない。

 祝三多とは、三つの何かが多いことを祝福する、という意味。その三つとは多福、多寿、多子、つまり福が多く、寿命が長く、子だくさん。従って、日本のマスコミが使う決まり文句、「無病息災を願って」みたいなものだ。
 土地公は人々にとって最も近い神だから、剥き出しの現世利益の対象となるのは必然といえる。ただ、土地公廟に臨水夫人が祀られたりする理由は、やっぱり「多子」なんだろうなと、今さらのように気付かされた。

台南神学院

台南神学院
 彌陀寺から側道を進むこと数十秒で、台南神学院に着く。案内板もあるし、通りに面した建物には、大きく「台南神學院」と書かれているから、見落とすことはないだろう。
 ただし、通りに面しているのは鉄筋コンクリートのありふれた建物で、知らなければ確実に通過するはず。というか、入っていいのかと躊躇するはずだ。

 本当に入っていいのかと聞かれれば、ここは学校なのだからどうだろうという部分もある。まぁその辺は深く考えずにズンズン歩いていくと、いきなりこんな景色が広がる。

 台南神学院は、長老教会の宣教師養成学校で、その始まりは1876年と伝えられる。関わったのは巴克禮で、独立した校舎ができたのは1870年である。当初は台南大学(府城大学?)とか名乗ったらしく、すぐに台南神学校となった。
 日本統治時期、長老教会の勢力が拡大すると、神学校の規模もあわせて拡大した。そこで1903年に建てられた校舎が、写真に見えるものだという。

 ちなみに、この写真は裏側なのだが、表側は撮影していない。tomopeeがいろいろ大変で、ガイドブックを確認する暇がなかったこともあり、肝心な箇所を多数見落としている。
 もっとも、授業中の校庭をうろうろすることに気がひけたのも、また事実である。

台南神学院
 ここは三つの建物が組み合わさり、中庭が造られている。三合院だ。
 長老教会系の学校では、他にもこんな感じで三合院的な配置の例があるようだ。まぁ中庭は日本の学校でもよくあるけど、日本では四方を囲んでしまったりするよね。あとは、三方にあるにはあるけど、うち一方は単なる渡り廊下とか。

台南神学院
 中央の建物。ここは特に古蹟扱いされていないが、中洋折衷の意匠をヤシの木が目隠ししていて、なかなかの雰囲気。

台南神学院
 三方の最後の一つは、礼拝堂。中庭側からは、特にそれとも見えないが、これは裏口なので仕方がない。
 向かい合う校舎と並んで、ここは古蹟指定されている。ただし建築は1950年代で、比較的新しい。

 ちなみに台南神学校は、第二次世界大戦が激化すると、いったん閉鎖を余儀なくされた。台湾人を戦争に狩り出すための皇民化教育の邪魔だからである。
 そして日本が負けた後、台南神学院と名を改めて再興された。

台南神学院
 礼拝堂を横から見る。ぐっと礼拝堂っぽい。本当は表側も見なきゃいけないのだが、そこは余所様の写真でも見て我慢していただきたい。

羊蹄甲
 そばで咲いていたフイリソシンカ。
 前日ほどではないが、外は暑い。

tomopee
 中庭付近にはちょっとした木陰があって、石造りのテーブルと椅子も用意されている。とりあえずそこで彼にバナナ(龍山寺でもらったもの)を食べさせたり、お茶を飲ませたりした。
 しかしまぁ、いずれにせよそろそろ限界のようで、derorenの亡き祖母のような顔で、彼は泣き続けた。
 通りがかりの人に、蚊に刺されたのではないかと心配されるほどだった(幸い、台南では蚊に刺されていない)。
 

 バナナをあげたのは、休憩してもう少し頑張ってもらうためだったが、結局はあきらめ、ここでタクシーを拾った。hashiとtomopeeはこれにてホテル帰還だ。
 ここからはderorenの単独行動。終わりそうで終わらない19日午前の日記は、もう少し続く。

2012/05/26

彌陀寺

彌陀寺
 東門教会のすぐ隣にある彌陀寺。いかにも最近建てましたという雰囲気で、しかも台南的な建物でもないので、知らなければ通り過ぎてしまうかも知れない。
 しかし、現在の姿はともかく、ここは台南最古とも言われる仏教寺院なのである。

彌陀寺
 門をくぐるとこんな感じで、狭い境内いっぱいに北方様式の仏殿を建てている。このような姿になったのは1971年らしい。第二次世界大戦で空襲に遭ったり、いろいろ受難の果てのようだが、北方様式ではねぇ……というのが正直なところ。
 台南の七寺八廟どころか、四大名刹の一つに数えられるこの寺院を、今まで積極的に訪問しなかったのも、こんな変り果てた姿を知っていたためであった。

※ちなみに台南四大名刹は、開元寺法華寺、彌陀寺、竹渓寺。

 伝承によれば、彌陀寺の創建は鄭氏政権の頃らしい。鄭経は、台湾に仏教寺院がないことを歎き、承天府の東安坊に阿弥陀仏を祀った。それがこの寺の始まりだという。
 ちなみに鄭経といえば、開元寺の始まりも彼の別荘だが、寺院になったのは鄭氏政権が滅んだ後である。伝承が本当ならば、確かに最古といえる。

 鄭氏政権の頃を記す文献といえば蒋毓英『台湾府志』(1685)だが、ざっと眺めた限りでは記載がない。17世紀の文献としては、次のような記述を見ることができる。

彌陀室在附郭之東。庭宇幽静、仏像荘厳。傍植檳篁、名花芬馥、可供遊詠。(高拱乾『台湾府志』 康煕35(1696)年刊)


 まぁ正直、存在したという以上の有用な情報はない。何を祀ったのかすら記述がない……のは、「彌陀」だから不要とも言えるが、寺号と本尊は必ずしも一致しないわけで。
 遙かに時代が下って、日本統治時期の記述は次のような感じ。ちなみに、連横(連雅堂)は、やや脚色が混じるという評価があるゾ。

彌陀寺 在大東門内。明延平郡王鄭経建。康熙五十七年、里人董大彩修。五十八年、武夷僧一峰募建西堂、里人陳仕俊復増建之、殿宇寬敞、花木幽邃、為郡治冠。(連横『台湾通史』 大正9(1920)年刊)


 字数の割にはたいした情報はない。とりあえず「殿宇寬敞、花木幽邃」が現在と全く合わないことだけは確かだ。連横の生きていた頃はまだ広かったとも解釈できるが、現況を自身で確認したのか怪しい。
 ともかく、台南市政府が建てた案内板も、この連雅堂説を下敷きにしているようだ。

弥陀寺
彌陀寺
 金剛力士像。これは一応、阿吽になるのかな。

弥陀寺
 釈迦牟尼を祀る大雄宝殿。
 ここは三層になっていて、他に地蔵や観音が祀られているらしいが、我々は一階しか拝んでいない。というか、道仏折衷ではない仏教寺院なので、物見遊山で眺めるような雰囲気ではなかった。
 その意味では、四大名刹の名は伊達ではないと思ったのも事実。


 さて、旧東門美術館前でタクシーを降りてから、そろそろ2時間である。tomopeeがそろそろ限界を迎えつつある状況もあって、ここも長居はしなかった。
 そして次の見学地で、tomopeeはホテル帰還となった。もちろんhashiも帰還。derorenが一人残って、昼食を外帯で調達する任務を負うことになる。まぁその辺は、この先の記事で徐々に記していくので、奇特な方は楽しみにしてくだされ。

2012/05/25

台南東門巴克禮紀念教会

東門巴克禮紀念教會
 大東門から東門円環へ向かう。要するに台南中心部へと向かうわけだが、やがて東門路の車道部分は高架となり、窮屈な側道側の歩道を進むことになる。
 しかし、その側道にはいくつかの見所がある。

 最初に現れるのが、この教会。現在は台南東門巴克禮紀念教会という名になっている。2003年まではただの東門教会だったので、ガイドブックによっては今もそのままである。少なくとも上旗文化『in hand台南』は東門教会のままだ。
 まぁ地元でも、東門教会と言わないと通じないのでは、と思う。しかしそのことと、巴克禮の知名度はまた別だ。


 巴克禮(カタカナ表記ならバークレー)とは、長老教会(カルヴァン派)のイギリス人宣教師。清朝末期から日本統治時期の台南で、長老教会の勢力を拡大させた立役者である。
 長老教会は台南神学校、大平境教会などの宗教施設だけでなく、長栄中学、長栄女中など私立学校も設立しており、それらの大半は大東門周辺に点在する。
 まぁその辺のことは、この後で台南神学院の記事を書くので、そちらで触れる予定。

 なお、巴克禮は台南の近代史における最重要人物の一人で、特に日本軍との交渉にあたったことで知られている。
 下関会議において台湾の日本帰属が決まった後、台湾では激しい抵抗が起きた。そこで日本軍は、いくつもの師団を追加してその弾圧にあたりつつ南下、やがて台南が戦火にさらされることとなった。
 台湾独立国を掲げた抵抗軍は、結局指導者が大陸に逃げてしまい瓦解。台南の支配階層は、日本軍との交渉を行うことを決め、そこで選ばれたのが巴克禮だった。
 そして巴克禮の交渉のおかげもあって、台南は無血開城。日本統治時代が幕を開けることとなった……との話。

 前にも書いたけど、交渉においてはできるだけ対等に近い立場を演出する必要がある。なので台南土着の士紳ではなく、日本の同盟国イギリスの人間を立てたのだろう。
 いずれにせよこの一件が、台南における長老派の地位を決定づけたことも、また間違いない。


 derorenは残念ながらキリスト関係にあまり詳しくないので、教会などの記事は表面的にならざるを得ないことをお断りしておく。

2012/05/24

大東門

台南大東門
 台湾府(後の台南府)の東にあった最大の門が、大東門である。
 現在もこの門は、東門路を通れば嫌でも目にすることができる。あえて訪れたのは初めてだが、我々もタクシーで何度か通過していた。

 上の写真は東側、つまり城の外側を向いている。

大東門
 こちらは内側。城門の周辺だけが切り取られて、道路に囲まれている様子が分かるだろう。
 門前は清代には非常に栄えていたらしいが、日本時代に城壁が壊された時点で、ここはその役割を終えた。そして今や、まさしく道路交通のじゃま者扱いだ。
 同じような立場にあった小西門が、あえなく破壊されたことを思えば、まだこれでもマシかも知れない。が、通行できない門ほど空しいものはない。

 なお、この門は旧三級古蹟(現在の市定古蹟)で、歴史的重要度の割には評価が低い。その理由は、近年に大規模な改修が行われ、ほぼ新築といっていい状況になったためではないかと思われる。
 日本統治時期、大南門小西門とともに残されたこの門は、やがて朽ちていき、1954年の台風で大きなダメージを負ったという。
 そこで1975年に、かつての姿を再現したのが、我々の見た大東門なのである。

 ま、どっちにしろ、あんまり面白い門ではないよね。

迎春門
 内側にある「迎春門」の額。大東門の別称である。
 この名前は、台湾府における立春の儀礼が、この門で挙行されたことに由来する。

 清代の台南(台湾府)では、立春になると、この門の郊外に春牛亭という建物を造り、そこに春牛と芒神を祀ったと、『台南歴史深度旅遊』には書かれている。
 春牛と芒神(牧童、要するに牛飼い)は、耕作の象徴として中国各地で今も祀られるもの。門神画のように、神に描いて貼るようなこともあるようだが、本来の春牛は張りぼてである。
 ともかく、そうして春牛亭で官僚たちによる祭祀が行われた後は、張りぼての牛が城内を練り歩いたそうな。

 なお、春牛亭があったのは、現在の長栄中学付近らしい。

大東門
 アーチ部分に埋め込まれた石版。これは小西門と全く同じものだ。


 tomopeeは休憩中。ここは道路を渡って訪れるしかないのだが、道路も門の周辺も、日陰が全くない。唯一あるとすればここである。


 門の外側は、こんな感じで小さな公園になっている。しかし、これも見れば分かるように、日陰なし。台南の陽射しの元では、とても憩える場所ではない。
 結局のところ、我々が残した感想は、ただ「暑いなぁ」だけであった。

2012/05/23

光華街から代天府龍山殿

修禅院
 巽方砲台をあとにした我々は、そのまま光華街を歩く。
 この光華街は、砲台との位置関係でも想像できるように、大東門外街の城壁址である。砲台……というか修禅院の近くはマンションが立ち並ぶが、長栄路を過ぎるといきなり鄙びた雰囲気に変わる。近隣の町並が新しくなるなかで、ぽっかり取り残されたような空間だ。

 そんな感じで、砲台とは離れて存在する修禅院の施設。いささか廃墟然としている。
 ちなみに、奥に見える高層ビルは、なんと誠品書店である。

代天府龍山殿
 そうして光華街が府連路と交わる地点に、また廟が建っている。
 代天府龍山殿というらしい。もちろん全く予備知識なし。北極殿の神である玄天上帝の提灯が下がっているけど、代天府だから主祭神ではなかろう。

代天府龍山殿
 主祭神は白府千歳のようだ。

 tomopeeの連続稼働時間を考えると、こういう廟ではあまり長居ができない。もしかしたら、中に何か面白いものがあったかも知れないが、我々はちょっと覗いて手を合わせただけである。

2012/05/21

金環日食を見た(特別編)


 台湾とは何の関係もないが、今朝はたまたま東京にいたので、金環日食を見てしまった。ホテルの部屋の窓から観察できてしまったぜ。

 上は日本時間7:06。
 東京はかなり曇っていたが、逆にそのおかげで写真も撮れた。


 7:16。
 なお、日本のテレビニュースでは、7:10頃に台北からの中継を流していた。台北は結局、雲で見えなかったようだ。
 そんなわけで台湾の皆さん、見えちゃってごめんなさい。


 7:17。


 7:36。金環食になった。
 しかし金環日食は撮影難易度が高い。何せ、光の弱い時だけ狙っているけど、光が弱いと金環食は写らない。で、肉眼でじゅうぶん見える時に撮影すると、光が強すぎて飛んでしまう。
 そこで、レンズの一部が窓のカーテンにかかるようにして光量を調節した上で、動画を撮ってみたら、こんな感じになった。


 こっちは動画ではない。7:37。


 7:38。そろそろ金環日食は終わり。


 ともかく台湾とは概ね無関係だが、撮れて嬉しかったので載せておくぜハッハッハ。

2012/05/19

しばらく更新停滞

tomopee
 deroren多忙につき、あと一週間ぐらいは更新が滞る予定。この後は大東門や弥陀寺、台南神学院などを紹介するので、よろしく。
 写真は先週のtomopee。梅小路公園でお弁当を食べて、京都水族館を見物した。ありきたりだなぁと思うが、まぁ彼は楽しんでいたのでいいや。

※拍手コメント返事
 台中もいいですが台南はいいでしょう? 街に歴史があるし、飯はうまいし、楽しいですよ!
 台湾に行かれる際には、蚊に気をつけてくださいね。マラリアもデング熱も蚊が媒介します。我々の経験からすると、赤ん坊には暑くとも長ズボンが安心です。外を歩かないなら、上も長袖で。建物内は、どうせ冷房がガンガン効いてますからね。

2012/05/14

巽方砲台(台南市東区)

巽方砲台(台南市東区)
 さて、謎だらけの修禅院を我々が訪問した理由は、ここにトンデモな古蹟が存在するからだ。
 見よ、この要塞を!

 とにかく、いろいろツッコミ所が多いので、写真たっぷりで紹介する。なんと総数14枚だ。

巽方砲台(台南市東区)
 修禅院の入口から見えるのは、こんな感じ。
 石壁にくっきりと屋根の痕がついている。もちろん石造物の来歴から考えて、こんな屋根だったはずはない。手前にこんな屋根の建物があって、取り壊された痕跡だろう。

巽方砲台(台南市東区)
 正面。上部の目立たない額には「巽方靖鎮」とある。一方、その下の目立つ方は「修禅院」だ。砲台に無理矢理寺院の額を嵌めたわけだ。
 ここは一般に巽方砲台と呼ばれる。文字通り、台南府城の巽の方角にある砲台だ。完全な内陸の砲台は、非常に珍しいという。

 元々、ここは府城の外部である。しかし大東門周辺が商業地域として発展すると、城門の外側にも人家が建ち並ぶようになる。これを大東門外街と呼んだ。
 やがて19世紀になり、台南では反乱が相次ぎ、特に1813年に張丙が起こした乱は、外街の住人に恐怖を与えた。そこで住人たちの請願もあり、1816年に外街を囲む城壁が造られた。
 ただし新造の城壁は、三和土で固めた本格的なものではなかった。そこで不安を解消するため、二箇所に砲台を築いたのだ。
 一箇所は現在の長栄中学付近だが、これは現存しない。そしてもう一つの砲台が、こうしてなぜか寺院の一部となっている。

巽方砲台(台南市東区)
 砲台は、老古石(サンゴ)と切り出した石を組み合わせ、カキ殻セメントで固めてある。安平に来たような雰囲気だ。
 それにしても、「古蹟」ってはめ込む意味は何だろう、と思う。まぁ反対側の「銃楼」も、寺院に全く似つかわしくない言葉だが。

巽方砲台(台南市東区)
 これは反対側から。要するに、敵が攻めてくる方向である。
 ただの壁に見えるかも知れないが、もちろん近づけば命はないぞ。

巽方砲台(台南市東区)
 外側にはセメントで化粧がされているようだ。これは本来の姿なのかは分からない。
 『台南歴史深度旅遊』によれば、荒れ放題だった砲台を修禅院が買い取って、かなりの改造を施したとある。
 とにかく、寺院の堂宇として整備したのだから、中には何か祀られているのだろう、と入ってみた。すると……。

巽方砲台(台南市東区)
 どぉぉぉーーん。
 な、なんだこれは。

 内部はがらんどうだ。西城秀樹はギャランドゥだ。

巽方砲台(台南市東区)
 円みを帯びた屋根。
 そりゃまぁ砲台に装飾は不要だけど、それにしてもねぇ。あまりの雰囲気に、hashiはそそくさと逃げ出してしまったゾ。

巽方砲台(台南市東区)
 さっきの「古蹟」窓を内側から見ると、こんな感じである。
 独房ごっこができそうだ。そんな「ごっこ」いらねぇや。

巽方砲台(台南市東区)
 問題は反対側だ。
 そう、さっき紹介した敵に面した方向にも、こんな空間がある。窓はないが、よーく見ると……。

巽方砲台(台南市東区)
 なんと銃口があいている。ものすごく生々しい古蹟である。
 地元の小学生が見学に行きそうな場所だけど、見せたらトラウマになりそう。

巽方砲台(台南市東区)
 さて、最初の写真で確認できるように、砲台の右側には階段がついている。これが当時のものかは分からないが、ともかく昇れるようなので昇ってみた。

巽方砲台(台南市東区)
 なんとそこには、砲台には全く似つかわしくない休憩場所が設けられていた。どうやら修禅院はここを展望台に仕立てたらしい。
 ただし、目の前には修禅院の高層ビルが建っているし、もともと大した高さでもないから、展望するほどの景色はない。だいたい、あんな砲台の上で楽しくかたらいながら休憩するヤツもいないだろう。

巽方砲台(台南市東区)
 hashiとtomopeeも昇ってはみたが、椅子に座ることもなく早々に退散した。
 ちなみに『台南歴史深度旅遊』の写真では、この位置に屋根が架かっている。かつては屋根付きの東屋だったようだ。現在の姿は、恐らくはこれでもだいぶマシなのだろう。

 まぁ正直、ここは観光地としては薦められない。写真を見て、それでも興味があるというならば、止めはしないけど。
 現在の台湾では、金門島とかの軍事要塞を観光客に見せているわけで、そういうものと比べたら大したことはない。ただ、derorenは要塞見学などしたいとも思わないので、ここの評価も微妙である。