2012/06/25

鄭記土魠魚焿はうまい!(台南市中西区 大菜市)

開基武廟を出た我々三名は、そのまま民生路まで進む。二日目に台南の友人たちと食事をした辺りも過ぎたので、せっかくなのでまた写真を撮っておいた。載せないけど。
 derorenとしては、せっかくだから水果でも食ったらどうかと思っていた(民生路は水果店の密集エリア)。しかしhashiはそんな気分ではないらしい。tomopeeの夕食で気が気でなくなっている。

 そうして民生路から、なぜか國華街に移動、そのまま南下する。
 当時の記憶が既に定かではないが、もしかしたら保安宮方面に向かっていたのかも知れない。はっきり言って、迷走していた。

鄭記土魠魚焿
 やがて浅草新天地、要するに大菜市が見えてくる。そこでderorenは思い当たった。
 土魠魚焿の店はもう閉まったかなぁ……と、新天地ではない真っ暗な市場に潜り込んでみる。するとそこには、閉店間近な雰囲気の老店があった。

 鄭記土魠魚焿は1936年創業。江水號などと並んで、大菜市の生き証人的な老店である。
 以前食べた阿川土魠魚焿も、ここの分家だったりするので、一度は本家でも食べてみたかったのだ。

 とはいえ時刻は20時。無理だろうなぁ…と眺めていたら、大丈夫とジェスチャーがあった。ちょっと躊躇はしたけれど、これ以上は歩けそうにないので、椅子に腰掛けて土魠魚焿をオーダーした。

鄭記土魠魚焿
 そうして土魠魚焿がやってきた。阿川土魠魚焿と基本的にはそっくりだ。まぁ当たり前だが。
 味は、さすがに閉店前という状況なので、揚げたてが食えた阿川の方が上。ただ、同じ条件だったら遜色はないだろう。親切にしていただいたし、この店は宣伝しなければならない。うまい! なんてうまいんだっ!!


 というのも、結局、ここでtomopeeの食事もすることになったのだ。
 離乳食の準備は、そこそこ手慣れたものだ。しかし、常に機嫌良く食べてくれるtomopeeではない。水を飲ませ、なだめすかしながら、どうにか食べさせていく。時には遅遅として食事が進まないこともあるが、それも仕方のない話。
 だが、ここは我々が最後の客という状況だ。それも、既に閉店時間を過ぎていて、帰り次第店を閉めるはずなのだ。とりわけhashiにとっては、大きなプレッシャーとなった。
 実際のところ、それほど時間をくったわけではない(滞在時間は15分ほど)。とはいえ、恐縮して何度も頭を下げた我々には、永遠にも等しい時間であった。

 ………永遠には等しくないな。さすがに嘘はいけないぜ。


 なお、中正路に出たところで、ベビー用品の麗嬰房があったので、せっかくなので入店。そうして購入したズボンが、以前紹介したこれである。保育所でも可愛いと評判である。評判が良くても、日本では購入する術がないけどね。

2012/06/24

修復された開基武廟

開基武廟
 なんだかんだと、ここも毎回訪問している開基武廟。大天后宮を出てどこかに行こうとすれば、必ず通りかかるのだから仕方がない。
 しかし今回は、これまでとは異なっている。そう、長らく続いていた社殿の修復工事が終わったのである。

 ガレージをすり抜けていた過去と、写真のような立派な入口をくぐるのでは、同じ廟といっても全然印象が違う。台湾最古の関帝廟としては、やはり小さいけれど、格式のある門だ。

開基武廟
 門には門神がいない。祀典武廟や大天后宮もそうだが、社格が高いとこういう形になるそうな。

開基武廟
 ともかく、全体的には新築みたいになった。古びた建築が好きな人はがっかりだろうが、装飾を剥がれ落ちたままで放置するなんて、神仏に失礼ではないか、と思うべきだ。

 なお、扁額には光緒丙子年(1876)とある。これとは別に、再建の寄付者が掘られた碑があったが、そちらも同年だ。この年に大規模な修復がなされたのは確かだろう。
 ただし、現在の姿はもっと新しいものではないかと思われる。第二次世界大戦で、連合軍の空襲に遭ったらしいので。

開基武廟
 初めて足を踏み入れた、正殿の内陣。
 狭くて奥行きのある、一般的な廟の構造だ。

開基武廟
 赤ら顔の関帝は、なかなかいい表情だ。『三国志演義』の関羽って感じだ。
 というかまぁ、神像を元にビジュアルが考えられて流通しているってのも不思議な話だよね。


開基武廟
 馬使爺と馬。これを見ても、赤兎馬は連想できない。

 我々が訪問した時、西洋系の外国人男性が、この像を写真に撮っていた。そこそこマニアックな廟にやってくるほどだから、きっとあの男性は、日本と台湾の区別もついてるに違いない。
 ……現在はインターネットでたやすく他国の情報が手に入る時代。
 それこそSteely Dan"Aja"みたいに、東アジア各国がごちゃ混ぜになった「アジア」なんて、もう笑い話だよね。おそらくは。

開基武廟
 下壇将軍(虎爺)。後ろのお面も気になる。

開基武廟
 おまけで、後殿の虎爺。過去の訪問では、後殿しか見ていないので、初めて比較検討する栄誉を得たぞ。比較する意味もないけど。

 それにしても、台南の(あるいは台湾の)関帝廟は、財神の要素が希薄だと思うのは私だけだろうか。守護神、そして学問の神という印象が強い。
 日本で流通する一般常識は、特に道教関係では全く役に立たないと、今さらのように思う。

2012/06/21

米街廣安宮

米街広安宮
 何度も通り過ぎているが、初めて拝んでみようと思った広安宮。
 赤嵌楼からすぐ、写真でも分かるように小吃街で有名な場所だ。

 この辺の旧称は米街という。清の時代に、その名の通り米を扱う店が並んでいたことに由来する。ただし、日本統治時代に新たな都市計画道路、つまり民族路がつくられたので、清代の面影はたぶん残っていないと思われる。
 民族路の建設では、広安宮も移転を余儀なくされたが、他にも被害に遭った宮は多かったようで、特に共善堂はいったん廃絶したらしい(共善堂については過去の記事を参照)。

 その代わりと言ってはなんだが、広安宮の廟前広場は、屋台エリアに変貌した。現在も隣に存在する、石精臼点心城(写真の左側)の原型である。
 ちなみに、以前に紹介した石精臼蚵仔煎阿憨鹹粥は、ここからビッグになって巣立ったわけだ。

米街廣安宮
 ともあれ、現在の広安宮はとても簡素だ。廟というより物置だ。小吃店の繁盛が還元されていないのだろうか、とも思うが、そもそも現在の点心城本体はイマイチ流行ってる印象がない(ちなみに、赤嵌楼前の度小月もここの一員である)。

 まぁともかく、ここの主祭神は池府千歳。例によって、正面で邪魔をする線香立ての奥に鎮座している。
 子連れでちょろっと覗こうとした我々だが、親切にもパンフレットをいただいたので、それを元に説明すると、池府千歳は池名然という明代の官僚で、民に慕われていた。やがて福建の漳州に転任したが、疫病を除くために自らの身を犠牲にして、顔が真っ黒になって死ぬ。その姿を見た玉皇上帝が、彼を疫病を払う神とした。
 で、鄭成功に従った人々がこの神を奉じて台湾に渡ったとある。

 ちなみに、米街に廟を建てたのは1723年とされ、鄭氏政権下ではない。そもそもこの辺には、寧靖王府の鼓楼があったと伝承されているらしい。まぁその辺はパンフを読んでもよく分からないので、そのままにしておく。

 パンフによれば、池府千歳の左奥の像は、池府夫人像のようだ。パンフでは白い顔なのだが、煤けて真っ黒になっている。
 同じくパンフの「広安宮伝奇」によれば、女性の崇拝が厚いという。「できる男の背後にはできる女がいる」的な話らしい。日本ではなかなかない発想だ。

米街広安宮
 王爺廟につき、もちろん謝将軍。ベロ出し正統派だ。
 唐突に思い出したが、ベロといえばスピッツ「テレビ」だね。なんだかいろいろ危ういネタだね。

米街廣安宮
 范将軍。
 中央の池府千歳らも含め、王爺廟は異常死者の集団だ。文字にしてみると、恐ろしい廟である。

米街廣安宮
 虎爺もどこか垢抜けない。さらに五営将軍はもっとアレだったので、こちらは載せないでおく。

 なんにせよ、死に様を神像に表現するという発想はすごいと、今さらのように思うわけである。

2012/06/17

祀典大天后宮でいろいろ祈る

祀典大天后宮
 赤嵌楼を出て担仔麺を食べ、ついで我々3名は祀典武廟を拝拝した。ただし祀典武廟は過去に何度も紹介したので、ここでは割愛する。
 さて、祀典武廟を拝んだとなれば、当然のように大天后宮も…ということになる。こちらは武廟以上に詳しく紹介済みだが、tomopeeに絞って書こう。

 なお、民権路の記事を書いた時にはすっかり忘れていたが、考えてみれば祀典武廟と大天后宮も、4回すべて訪問している。まぁなんたって、台南の中心だからね。
 初心者向けに説明すると、写真のような電飾は、何か祭事がある時のみの特別なもの。この場合は、媽祖の誕生日(旧暦3月23日)を祝っている。
 台湾の神々は、節電にはどう対処するのかなぁ。地面を杖でついたら電気が湧いたりしたらいいのにね。

祀典大天后宮
 一応、記念撮影もしてみた。tomopeeは余所を向いているが。

祀典大天后宮
 この日はごく普通の月曜日なので、廟内は静かである。
 とりあえず我々は、いつも通り帰国の無事などを拝拝した。無事に帰国したので、御利益があったと思われる。

 なお、写真に見える人々は、我々ではないので念のため。

祀典大天后宮
 一通りの拝拝を済ませ、最後に釈迦三尊の前に来ると、そこにはいかにもな像があった。
 これはtomopeeにも拝拝させねば、と手をのばさせている。

 この像は、「元宝」を手にした麒麟童子。元宝を撫でながら、大金持ちになることを願うものである(日本にもあるよね)。
 やがて大金持ちになって、日々遊んで暮らせる日が来た時には、あーこれって台南の童子像のおかげだったよなー……っと、しみじみ思い出す予定である。
 あ、もちろん奥に見える金鶏にも願ったゾ。ああ欲深い。

2012/06/14

度小月擔仔麺(赤嵌楼前)再訪

度小月擔仔麺(赤嵌楼前)
 赤嵌楼のそば、赤嵌街の交差点にある度小月擔仔麺。初回の旅で食べた時に、なかなか美味しかったので再訪してみた。

 ちなみに、台北などにも支店がある「中正路の度小月」とは別の店である。もちろん無関係ではないらしいが、イマイチどういう関係なのかよく分からない(中正路の度小月と洪芋頭擔仔麺は姉妹が分家した関係らしい)。
 大台湾旅遊網のホームページでは、1895年に洪芋頭が開いたとある。これは「中正路の度小月」と同じだ。

度小月担仔麺(赤嵌楼前)
 まぁ追求したところで無意味なので、おしまい。
 店内は奥行きがない。通りから見えるまんまなので、特筆することもないな。

度小月擔仔麺(赤嵌楼前)
 擔仔麺の卵入り。卵はオプションだが、まぁ普通は頼むだろう。
 ともかく久々に食べて、なぜ以前の旅で気に入ったのか、少し分かった気がする。麺が日本のラーメンに近いのだ。
 まぁ赤嵌楼のそばなので、興味があったらどうぞ。ちょっと高いけどね(卵込みで70元)。

度小月擔仔麺(赤嵌楼前)
 さぁしかし、良いことばかりは起こらない。擔仔麺の記憶が飛ぶほどの衝撃が、これだった。イカである。
 これがもう、マズイ!! 失神しそうなぐらい不味い!

 正式には川燙魷魚。魷魚はスルメイカのことで、文字通りイカを茹でたもの。しかしこのイカは、もう何日も水にさらしたんじゃないかというぐらい味が抜けていて、ただのゴムのようだ。正確にいえば、イカに似た食感のゴムだ。
 タレとワサビで食べようとしても、口の中でもちゃもちゃと噛みきれない食感だけが残る。もう本当に恐ろしい食べ物だった。

 台湾ではいろいろな食べ物に出会った。その中には、正直いえば評判ほどではないというものもあったけど、マズイと断言できる食事は初めてである。
 繰り返すが、擔仔麺は悪くない。欲張ってコイツを頼まないことをおすすめするぜ。

2012/06/12

蓬壺書院址(赤嵌楼内)

蓬壺書院址(赤嵌楼内)
 赤嵌楼の外れにある蓬壺書院の門。以前に訪問した時は工事中だったが、リニューアルオープンしていた。
 あえて説明するほどの内容でもないけど、赤嵌楼再訪の記事が長くなったので分離。

 ちなみに、蓬壺書院とは清朝の時代(1880年)に造られた教育施設である。
 赤嵌楼の区域は、オランダや鄭氏政権の頃はともかく、清朝の支配下ではほとんど利用されていなかった。そんな空き地も、アヘン戦争などで東アジアがきな臭くなると、戦勝祈願で海神廟が造られたりする。学問の施設を造るのも、要するに富国強兵政策の一環だ。

 ともかく、日本でいうところの藩校みたいなもの(藩校も孔子を祀る)。ただし、まともに稼働した期間は20年にも満たないらしい。

蓬壺書院址(赤嵌楼内)
 狭い内部には、こんな感じのパネル展示がある。
 この写真の手前側が書院と思われる。ちなみに奥の文昌閣も、学問の神を祀る付随施設のようなもの。台南孔子廟にも文昌閣がある。

蓬壺書院址(赤嵌楼内)
 無理矢理な展示だ。狭いところに巨大なパネルなので、撮影も難しい。いやまぁ、撮影するほどの価値もないので、適当に済ませたのだが。

 ともかくこの書院は、日本統治時代には役目を終え、1906年の地震で壊れた。その後、赤嵌楼の発掘と再整備の過程で、書院部分は復元されずに消えたわけである(同時に消えたのが大士殿)。

久々の赤嵌楼

赤嵌楼
 初回の旅で訪問して以来の赤嵌楼。寺廟と違って、中で何かが行われているわけではないから、何度も見学する必要性は感じなかったが、tomopeeは初台南だし、西華堂の尼さんに推薦されたし、せっかくだからと再訪。
 
赤嵌楼
 なお、ここの表記は赤嵌楼と赤崁楼の二種あるが、上の額に従って前者に統一しておく。
 日本語フォントで「崁」は使いづらいし、そもそもこだわって使い分けているとも思えないので。

※元々は、この地に住んでいた原住民の集落チイカムが語源。漢字では赤崁社と表記されていた。建物が赤いのは無関係でござる。

赤嵌楼
 膝をついて助けを乞う像を造って、オランダに抗議されたいわく付きのヤツだ。まぁ正直言って、わざわざ造る必要があったのか疑問。

 改めて訪問して気付いたが、ここの周囲はコノテガシワ(龍柏)だらけだ。
 この木は台湾自生ではなく、国民党が持ち込んだと『福爾摩沙植物記』にある。王の象徴である「龍」の名を持つコノテガシワを、国民党政権は要所要所に植えた(故宮博物院の周囲とか)。それは要するに、中国の正統な王は自分だという意思表示なのだ……と。
 鄭成功の大陸反抗を、国民党政権が利用したのは周知の通り。なるほどなぁ、と思う景色である。

赤嵌楼
 tomopeeはhashiがだっこひもで抱えて見学。ベビーカーは受付に預けた。台南の有料観光施設(他に孔子廟、安平古堡、安平樹屋、億載金城)なら、だいたい可能ではないかと思う。言葉がしゃべれなくとも、たたんだベビーカーを見せれば意志は通じる。

赤嵌楼
 文昌殿の魁星爺。まだお願いする年齢とは思えないが、一応tomopeeの今後などを願っておく。ついでに両親の頭の方も……。

 さすが赤嵌楼だけあって、ここでは何組もの日本人観光客を見かけた。その一組に、魁星爺をえらそうに説明したのは、他でもないderorenである。
 まぁしかし、自分たちが台南の人々に親切にされているから、自分も少しは貢献したいと思ったのは事実。京都でも、外国人観光客を見かけると声を掛けたくなってしまう。道案内と記念写真ぐらいなら、語学さっぱりなderorenにだってできるのだ。

赤嵌楼
 奥まった場所にある城壁址。オランダ時代を偲ぶならば、ここに来ないと値打ちがない。

赤嵌楼
 手をパチパチ叩いて、赤嵌楼に来た喜びをあらわすtomopee。まぁ叩いた理由は定かでないが、まだ言葉のしゃべれないtomopeeは、台南の人々にこうやって意思表示を続けていた。そしてderorenとhashiは、そんな息子をkawaiiと褒め続けていた。
 思い返しても、途方もない親バカだ。しかし我々は、全く後悔していないぜ。

2012/06/05

夕方の外出を目前に控えたtomopee(ついでに近況)

tomopee
 食事の後にしっかり昼寝したtomopee。そろそろ出掛けようぜ、とせがんでいるかは定かでないが、ホテルのロビーのソファーで遊んでいる。

tomopee
 どちらかというと、母親hashiの方がややぐったり気味だが、せっかくの台南、歩ける時には歩こう。
 そんなわけで、既に夕方となった台南の街に、再び繰り出す三人。とりあえずの行き先は、なんと赤嵌楼だぜ。

 台南四度目のderoren&hashiにとって、赤嵌楼なんて今さら……という部分もある。しかしtomopeeは初体験だし、たまには観光地っぽい観光地に行くのもいいのでは、と思ったわけである(翌日には安平古堡と安平樹屋にも行ったぜ)。

 それと、実は前日に西華堂を訪問した際に、尼さんに赤嵌楼を薦められたのだ。それも、ここ(西華堂)は三級、あそこは一級だと何度も念を押された。
 正直、古蹟指定なんて我々はアテにしていない。しかし、ものすごく親切にしてもらった上でのご推薦なので、ここは尊重すべきかなぁ……と思ったわけだ。
 ともかく、具体的な話は今後の記事をお待ちくだされ。


tomopee
 tomopeeついでに、現在の姿など。歯ブラシをくわえながら、部屋を歩き回っている。

 台南の時点で、すぐにも歩きそうだった(と言ってもらった)彼だが、実際にはなかなか一歩が出なかった。ようやく一歩を踏み出したのは5月中旬。
 しかし、いったん歩き出せば、上達は早い。ますます目が離せなくなる模様。


※tomopeeの近況は、いずれ別の形での紹介に移行する予定。まだ何も用意していないけど。

再發號から外帯ぢゃ!

再發號
 derorenは民権路を進み、青年路との交差点を過ぎ、呉園の前も通過、公園路まで辿り着く。文字にすると大層な距離に思えるが、東門円環からは徒歩25分。それも、東嶽殿などで寄り道しているから、実際にはもっと短かったはず。
 とはいえ、hashiとtomopeeがお腹を空かせて待っている状況だ。これ以上独り歩きを謳歌するわけにもいかない。というか、謳歌などしていない。

 時刻はちょうど正午をまわったところなので、当たり前だが店は混んでいる。行列なんだからうまいのかも知れないが、知らない店の行列に並ぶのは気乗りがしない。そもそも、現地人が望む味と、観光客が求めるものが同じとも限らないし。
 で、公園路の付近にはいろいろあった気がするので、そこまで歩いてきた。が、水餃の店は開いてなさそうだったし、奉茶で鍋をテイクアウトするわけにもいかない。そのまま公園路を渡り、気がつけばここにいた。

 そう、泣く子も黙る百年老店の再發號である(初心者向けに補足すると、右奥に写っている廟が北極殿)。

再發號
 もっとも、再發號には客がいなかった。12:15頃に店に行ったにも関わらず、食事をしている客が一名のみ。空いてて嬉しいというよりは、不安になる光景だ。
 しかし、既に他の店を探す気力を失っていたderorenは、迷わずここで注文した。まぁ粽は食べたことがあるし、ぶっちゃけ、客がいないのは今に始まったことではない。残念ながら、旅行の旅に何度も店の前を通っているが、流行っているのを見たことはない。
 その場で注文をメモって、外帯、外帯と何度も念押ししながら頼んだ。

 台湾初心者向けに断わっておくと、台湾の小吃店はたいてい外帯(テイクアウト)をやっている。汁物がビニール袋に入っていたりするので、初心者はびっくりするだろうが、だいたい何でも外帯可能だ。
 derorenはそれらを受け取ると、すぐに公園路の交差点に戻って、何とそこから首相大飯店までタクシーに乗った。台南現地人ならあり得ないと思うが、私は旅人である。生まれて初めて「釣りはいらねーぜ」とジェスチャーしながら降りたぜ。ここでの釣りは、日本円でせいぜい50円ほどなのは内緒だぜ。

再發號
 部屋に戻ると、hashiとtomopeeは涼んでいた。さっそくtomopeeの飯も準備して、外帯飯のはじまりはじまりだ。

 上の写真は言うまでもなく肉粽。一番高いヤツだ。前も同じことを書いたけど、粽は茹でたヤツが好きなので、これは十分に満足。
 日本の中華街の蒸した粽って、パサパサしてるよね。まぁそもそも、あれは冷凍モノが大半だけど。

再發號
 外帯でなければ頼みそうにないメニュー、肉燥飯。なぜ頼まないかといえば、名物以外のものは避け、他の店にハシゴする余力を残すためである。わざわざ説明する価値はないな。
 写真でも分かるように、ここの肉燥飯は、「肉燥」飯と呼んではいるが北部の魯肉飯に近い。期待してなかったけど、けっこううまかった。

再發號
 魚丸湯。とりあえず汁ものが欲しかったので注文。
 正直、何も感想はない。汁ものとして、食事にはちゃんと貢献した。

再發號
 燙青菜。野菜は大事よね。空心菜である。
 写真写りが悪いのは外帯の宿命だが、味は別に悪くない。

 実際にはこれらと一緒に、龍山寺でいただいた泡菜なども食べた。総じていえば、けっこう満足できた。私だけではなく、hashiもそうだった。
 せっかくの旅行なんだから、やはりできるだけ店で食べたい。しかし暑い日の正午に、車道に面したテーブルでせわしなく飯を食うぐらいなら、エアコンの効いたホテルに外帯ってのもアリかも知れないゾ。

2012/06/02

民権路を歩く

台南市民権路
 東門円環から先、derorenが進む道はいろいろあった。ぶっちゃけ、東門路を引き返す以外なら、どれでもアリだ。昼飯さえ調達できれば。
 しかしderorenは、迷いなく民権路を進んだ。確かに今は昼飯を調達する時間だが、旅の目的はそれだけではないんだぜ。

 上の写真は、なんだか古そうなので撮った。奥は古いだろう。手前は分からないが、シンプルなわりに装飾があるのが気になる。


 なお、台南初心者向けに断わっておくと、東門路~民権路というルートは、鄭氏政権から清代における、台南のメインストリートである。台南の歴史に興味があるなら、一度は歩いて損はない。
 derorenがここを歩くのは、実は初回の旅以来だけど。

台南市民権路
 ウッヘッヘー。映画館だぜ。新建国戯院なんてカッコイイ名前だけど、この雰囲気で想像がつくように、ピンク映画専門だぜ。
 この時は「女体征服記」とか「新潮女秘書」なんかをやっていたらしい。たまには駐在の皆さんにも役に立つ情報を載せておくぜ。

阿美鳳梨酥
 やがて市場の入口に着く。この市場については、前回の旅の時に記事にしようと思って、そのまま放置してしまった。まぁ正直、買い物もしていない市場を紹介しても、読者にたいしてメリットもなさそうだし。
 ただし、この入口だけは別だ。ここは 阿美鳳梨酥本店所在地である。

 今回は、台南の友人の一人から、ここの鳳凰酥(卵の黄身入り)をお土産にいただいた。そちらは我が家で有りがたくいただいたが、一方で余所に配るお土産も欲しい。それが民権路を選んだ一因であった。
 つまり、ここで買った鳳梨酥が、hashiの職場で配られたわけでござる。購入時にhashiがいなかったという事実もあるけど、まぁ食べた皆さんにはどうでもいい話。
 また食べたかったら、ぜひ台南へ!

東嶽殿
 その先には、言うまでもなく東嶽殿。一応、一通り中は見学して、神像の写真を撮り直したりはしたけれど、今回は単独記事にする予定なし。残念ながら打城法事も何もやっていなかったので。

 ちなみに、東嶽殿はderorenのみ四度訪問したことになる。
 四度の台南旅行で、deroren&hashiが揃って四度訪れたのは、関西国際空港と首相大飯店を除けば、開基玉皇宮ただ一箇所。ホテルのすぐ近所という立地もあるけど、あそこは何かしら祈禱や祭祀が見学できるので外せない。
 東嶽殿がホテルの近くにあったら良かったんだけどね(近くのホテルに泊まればいいのだ)。


 東嶽殿を過ぎて、振發茶行の前を通過。買い物しようかと一瞬迷ったが、後を継いだ孫は日本語がしゃべれないだろうなぁ、と思ったら盛り下がってしまった。
 ちなみに、本当にしゃべれないのか確認したわけではない。私が知っているのは、2010年5月の段階ではしゃべれなかったというだけ。
 日本人客が多いとメディアで紹介されるほどの店なのだから、猛勉強してもおかしくはないけれど、どう頑張ってもじいさんのような味わいにはならない。いつか来る日とはいえ、残念でならない。


台南市民権路
 そんなションボリ気分を吹き飛ばすナイスガイに遭遇。

台南市民権路
 ナイスガイというか、口紅付けてるわけだが、まぁ細かいことはどうでもいいのだ。
 京都の隠れた名所、北山杉資料館を彷彿とさせる素晴らしい姿に、derorenの心は浮き立った。さすがは民権路だネッ!

※北山杉資料館では、杉の手入れの様子が実物大で再現されているのだが、それらはすべて、作業着を着せられたマネキンであった。