2010/06/30

寧夏路夜市(二) 知高飯を喰らう

寧夏路夜市「知高飯」
 台北の夜市については、ほとんど事前に調べていなかった。
 なので寧夏路の情報は、前夜にホテルでネット検索して、いくつかの紹介記事を見た程度。そのなかで「知高飯」というのが気になった。台南では見かけないし、そもそも名前が謎だ。

寧夏路夜市「知高飯」

 寧夏路の屋台街のほぼ中央部に、知高飯の店がある。許さんの店のようだが、特に屋号はない。メタボな豚の絵が可愛い。
 テーブルは2~3ある程度で、非常に混んでいる。席が空いた瞬間を狙わないといけない。客層はオッサンも多いけど、若いカップルもいたづら(我々もできれば若い方に入れてほしいづら)。

寧夏路夜市「知高飯」

 我々が頼んだのはこの三品。
 手前から知高飯、蛋包蝦仁湯、苦瓜排骨湯である。もちろん筆談で頼んだ。

寧夏路夜市「知高飯」知高飯

 写真がまずくて申し訳ないが、知高飯。
 豚足と卵、ふにゃふにゃ竹(筍絲、簡単に言えばメンマ)が載っている。要するに魯味の丼である。

 聯合報の記事によれば、知高飯とは豚足(豬腳)を載せた飯「豬哥」飯の台湾語音が「知高」と同じだったのが起源らしい。
 まぁとにかく見た目のまんまの高カロリー食。肉が食べたい人にはおすすめする。


寧夏路夜市「知高飯」蛋包蝦仁湯

 蛋包蝦仁湯。知高飯と並ぶ名物らしいので、一緒に頼む。
 これはエビの天ぷらの入ったスープに卵を落としたもの。なのでけっこうカロリーは高い。調子に乗って食べ過ぎると、大変なことになりますよ(エコーは各自の脳内でかけてくれ)。

寧夏路夜市「知高飯」苦瓜排骨湯
 苦瓜排骨湯はアツアツの状態でやって来た。でっかいゴーヤー(苦瓜湯に入れるのはだいたい白の模様)と、豚のガラが入っている。けっこう油が浮いているので、これもカロリーは低くないかも。
 しかしまぁ、とにかく苦瓜は苦い。全般に油っぽい料理が並ぶなかで、この苦さはある意味でオアシスと言えなくもない。結局、数日後に別の店でも苦瓜湯を食べている。

 端的に言って、我々が台湾で食べたメシの中で上位にランクされる店ではない。やはり油っぽいのが難点だ。飯を食うなら台北より台南に行くべきだと思う。
 まぁでも、それは比較の問題であって、この店がダメだという意味でもない。少なくともderorenはそれなりに気に入った。苦瓜湯を初めて口にした店としても、記憶に残ることだろう。

寧夏路夜市(一) 円環から歩き、からすみを囓る

台北の円環
 台北二日目の夕食は、寧夏路の夜市で食べることにした。理由は近くて規模が小さいから。かなり疲労がたまっていたので、士林を歩く気力がわかなかったのだ。
 食後に行きたい店に近いのも理由だったが、これは大ハズレだったので、今となっては複雑である。

 さて、ホテルからは円環までタクシーに乗る。あっという間についた場所は、南京西路、重慶北路、寧夏路などが集まっており、中央にガラス張りのビルが建っている。このビルが通常「円環」と呼ばれるものである。
 まぁ円環の歴史は方々に書かれているので、基本的にはそちらを読んでいただきたい。台北の夜市はここから始まったと言われる場所で、戦時中には防空壕と貯水池が作られている(そのため古蹟に指定された)。
 商業施設としては他に負けてしまい、2002年に完成したビルも営業停止になっている。要するに、観光客がわざわざ出掛ける必要はない。

寧夏路夜市
 寧夏路夜市の看板は、円環に面した交差点に立っている。ただし夜市らしい景色は、3分ぐらい歩いた辺りからだ。

寧夏路夜市
 夜市の中心部では、道路の中央に一筋の屋台街が作られている。
 中央の通路は狭くて、人でいっぱいだ。いかにも夜市という雰囲気。

寧夏路夜市
 規模は小さいので、普通に歩けば十分程度で民生西路に抜けてしまう。
 店はほとんど食べ物関係。円環に近い方にはDVDなんかを扱う店もあったが、食べる以外の娯楽を求めるなら士林辺りに行った方が良さそうだ。

寧夏路夜市のからすみ
 で、我々が最初に手を出したのは、なんとからすみだった。
 このからすみは大根とネギが一緒に刺してある。爪楊枝一本で50元と、かなり高い。derorenはやや渋ったが、酒飲みのhashiの希望で買うことにした。酒は飲んでないけど。

 ミネラルウォーター飲みながら、ちびりちびりと食ってみたら、まぁそれでもうまいのは確か。ネギはやや辛すぎるけど、大根も悪くない。
 何よりも、前日に迪化街でからすみの購入を検討して断念した(旅行日程上、賞味期限などの問題で買えなかった)翌日だけに、こんな小さなかけらでも、仇を討った気分になったのである。

旧日本勧業銀行台北支店(国立台湾博物館分館)


 去年も前を通っていた旧勧業銀行。ホテルに戻る途中で、改めて見学してみた。
 以前にも紹介したように、台南と瓜二つである。いちおう、こちらが1933年で台南は1937年ということで、先に建ったのは台北の模様。


 正面上部のアップ。1933年頃といえば、和風建築も登場し始めているのではないかと思うが、この建物には全く和のテイストがない。
 獅子の顔もアレだが、左右の下部に見える柱頭の顔がなんともいえない。


 とにかく天井が高い。
 勧業銀行だし、植民地で金儲けしてやるぞー、てな意気込みだろうか。宝くじで市民の金を巻きあげてやるぞー、ではないよね。


 ちなみに現在ここは銀行としての営業を終え、国立台湾博物館の一部となっているそうな。我々は中を見ていない(ほぼ閉館時刻だったはず)。
 なぜかメインは恐竜らしいが、金庫に入れるらしいよ

※場所は国立台湾博物館の北西。
 懐寧街に面しているので、懐寧旅店などの宿泊者ならば、ホテルの前の道を南に数分歩くだけである。

2010/06/28

順春堂青草店(台北・萬華)

順春青草店(台北・萬華)
 龍山寺の東には青草巷という、薬草の卸売り店が並ぶエリアがある。去年もそこを通ったわけだが、今回は日曜日だったこともあり、見事に閉まっていた。
 ただし、地蔵王廟前の西昌街の萬安青草店などは開いているので、日曜でも青草茶や苦茶を飲むことは可能である。

 去年はまさに地蔵王廟前の店で買ったので、今回は別の店で飲もうということで選んだのが、広州街に面する順春堂青草店。選んだというか、ふらふら歩いていて、適当に買っただけだ。
 写真には、某「日本和名雑誌」にも載ったと書いてある。先に見つけたら買わなかったかも知れない(冗談だ)。
 苦茶40元は、当然苦くて不味い。ある意味で味の心配がいらないのは素晴らしい。でも何となく健康になれそうな気になれるから、店はどこでもいいから一度は飲んでみるべきだ。

龍山寺の本棚

龍山寺の本棚
 台湾の寺廟には、しばしばこのような書物の置かれたコーナーがある。
 日本の寺社にもあるって?
 日本では基本的にお金と引き換えだが、台湾ではそうではない。これらの書物はすべて無料でもらえる。寄付によって作られているのである。

龍山寺の本棚
 ちなみに、こうして置かれている書物は、龍山寺がどんな宗派に属すかといった問題とはあまり関係がないようだ。城隍廟の類でも龍山寺でも、共通の本を見かける。もちろん龍山寺は最大規模なので、他にはない書物も多いけど。
 台南の開元寺や法華寺、西華堂などでは見かけないので、戒律を守るような仏教寺院には置かれないのだろう。龍山寺は観音を本尊とするとはいえ、台湾においては移民の祀る神だから、仏教寺院の枠には入らないということだろうか。

龍山寺の本棚
 手前の『瀕死体験』は、とあるルートで入手していた。とあるルート関連の方(笑)には、こうやって配布されているのだと知ってほしい。
 仏教の経典類では薬師経、地蔵経、父母恩重経などが目立つ。どれも台湾の民間信仰と密接に絡むものである。道教系の経典も多いし、福徳正神などどこで作られたのかよく分からない経典もある。
 こうした書物は時には「○○さんの寄進で200冊」みたいな感じで印刷され、方々に配布される。奥付には寄進者の名前がシールで貼られていたりするのだ。

龍山寺の本棚
 もちろん、このような配布を無条件に肯定することはできない。なぜなら、これらは無料である代わりに、作り手の思想信条を広める意図があるからだ(しかも間違いなく保守的で、国民党寄りだ)。
 ここからいくつか持ち帰ってみたものは、ほぼすべて特定の教団の宣伝冊子だった。通販の体験談みたいなのがギッシリだ。玉石混淆というか、石でも混じっていれば御の字の、紙くずの山なのかも知れない。

 ……というか、龍山寺は他と比較しても圧倒的に紙くずが多いと思う。
 方々で見かけるような冊子は、経典にボポモフォを振ったようなものとか、わりとまともなのも多い。参拝者が際立って多いから、いろんな新興宗教がチャンスを狙っているのかも。

龍山寺(台北・萬華)再訪

龍山寺(台北・萬華)
 萬華の中心地、龍山寺。我々にとっては、去年に続く再訪である。
 ただし、去年の訪問と今年の訪問では、我々の意識に大きな違いがある。日本語ガイドブックでかじった程度の知識で出掛けた去年の自分たちを、今となっては恥じるばかりでござる。

 もちろん龍山寺には、単なる観光地としての面もあるのは事実。
 この日も日本人の団体がいて、たどたどしい日本語の解説もなされていた。

龍山寺(台北・萬華)
 龍山寺は福建にある寺院で、三邑人(晋江・恵安・南安)が故郷から勧請したもの。従って、建立当初からここは単なる寺院ではなく、移民たちの集う場として機能していた。
 雑多ともいえる神々の合祀は、起源を辿ればこのような特殊性に起因するのだろうか。少なくとも、大陸とつながりがあるだけならば、台南の開元寺や法華寺だってこうなっても不思議ではないわけだし。

龍山寺(台北・萬華)
 自身でも拝拝しつつ、決死の覚悟で撮影した観音菩薩。みんな火を持ちながら動き回るから、台湾の廟は危険である。
 第二次世界大戦ではアメリカ軍の爆撃にあった龍山寺であるが、正殿が全壊したのに、この像は無傷であったという伝説がある。八戸のイタコが、オシラサマを飛ばして米軍機を撃墜しようとしたエピソード並みに素晴らしい伝承である。

龍山寺(台北・萬華)
 後殿右龕の註生娘娘の前には花がいっぱいだ。我々の訪問は2010年5月2日。翌日が註生娘娘の聖誕日なのだ。
 ヘルメットのおっさんは、バイクで花を運んで来て、今まさに飾り付けている最中である。

 なお、後殿の神々のなかで左龕の水仙尊王と城隍爺は、日本時代に壊されてしまった、近くの水仙宮から遷されたもの。台南の水仙宮も日本時代はひどい目に遭っているし、ここも植民地政府の嫌がらせかと思ったが、必ずしもそれだけではないらしい。
 『台北歴史深度旅遊』によれば、水仙宮のあった地点(現在の西昌街と桂林路の交差点)は、風水ではもっとも建ててはいけない場所であった。そこで人々は移転させようと思ったものの、そのたびに責任者が死んでしまい、呪われた廟として誰も寄り付かなくなってしまった……という感じで書いてある。
 最終的には道路拡張で破壊されたわけだが、それはそれで体よく日本に罪を押しつけたということなのかも知れない。

 とりとめのない書き方になってしまった。龍山寺の一般情報なんて腐るほどあるから、あまり書かなくてもいいかなぁ…と思ったらこのザマだ。読者の皆様には申し訳ない。
 で、あえてもう一つ龍山寺で記事を書く。今度はちょっと業界人向けだ。

2010/06/27

四草大衆廟を遠くに見る

四草大衆廟
 大衆廟の記事を書いたおまけ。探したら去年の写真が見つかったので掲載する。
 これは安平古堡の展望台から撮影したもの(外観などはこちらで読んでくれ)。右の汚れは展望台のガラスの汚れである。
 川の向こうの中央に聳えているのが大衆廟だ。

 安平古堡は言うまでもなくオランダ軍が籠城していた場所。対岸の四草も当時から軍事拠点であり、両軍の激戦地だった。その戦死者を祀ったのが台南の大衆廟である。
 ディスカバリーチャンネルで放送された「知られざる台湾」の台南特集では、オランダ軍人の子孫という人が大衆廟を訪ねていた。そこでオランダ人戦死者のものとされる骨が画面に映ったのは、ちょっとした驚きだった。

 まぁ正直、大衆廟そのものはタクシーで行くしかないので、四草のマングローブ林に関心のある人にしかおすすめ出来ない。我々も遠くから眺めただけである。
 そもそも安平古堡の展望台自体、観光客の数のわりに登る人が少なかったりする。日本時代の建物なので全体的にうす汚く、しかも階段がきついのだ。

艋舺大衆廟(台北・萬華)再訪

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 大衆廟という名を聞いて、「大衆に開かれた廟」なのかと思ったのが去年のこと
 台南にも巨大な大衆廟があって、安平樹屋の奥の展望台から小さく見えたが、その時はそれで終わっていた。
 この名前の真の意味を知ったのは、比較的最近である。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 大衆爺とは、まさしく無名の大衆を指す。つまり、名も無き無数の死者の魂を祀ったものである。
 台南の大衆廟に至っては、鄭成功に敗れたオランダ軍の死者の骨まで祀ってあるわけだ。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 艋舺大衆廟の創建は清の乾隆年間とされる。地蔵王廟の創建が乾隆25年(1760)とされるので、ほぼ同時期の廟ということになる。
 目的が死者の鎮魂(日本的に言えば)という意味では、地蔵王廟と同様の性格の廟である。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 こちらの謝将軍はシャンプーハット姿。
 しかしそれよりも………。

艋舺大衆廟(台北・萬華)
 范将軍はいっそう目立つ。何がって、そりゃあ「ポテコ」だ。泣けるほど威厳のない姿である。これでも本当は怖い神なんだよなぁ。

 なお、大衆廟と似た性格の廟には、義民廟というのもある。後日、北港鎮で拝拝したので、順調に行けば7月中には紹介記事が書けるのではなかろうか。

2010/06/26

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)再訪

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 一応「再訪」となる地蔵王廟。ただし去年の訪問時は、我々に台湾の寺廟に関する知識がなかったので、ただ覗いただけで終わっている。
 隣の国の信仰を知るすべは、驚くほど少ない。

 まぁそもそも、日本国内で日本の民間信仰の論理を知ることだって、決して簡単ではない。ただし、残念ながら日本の寺社を巡る際に、そういう論理を知らなければならない局面はあまりない。阿弥陀浄土を具現化した地を訪問しながら、自分が積んだ徳について真剣に考える観光客なんていないでしょ?

 対して台湾の寺廟は、基本的に観光する場所ではない。かといって、世俗と切り離して考えることもできない。
 とりあえず一年経って分かったのは、薄っぺらい「日本人的視点」はさっさと捨てるべきだ、ということ。「皇帝」のいる世界ってこういうものなのか、とリアルに感じるだけでも、得がたい経験だ(逆に言えば、日本の天皇はちっとも「皇帝」じゃないと知ることにもなる)。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 枕が長くなってしまった。外観写真がどうにも魅力に乏しいので、余計な話になってしまう。
 ともあれ内部の写真を載せる。本尊の左右に時計が組み込まれているのが面白い。何か信仰的な意味があるのかな、と思われるが、手持ちのガイド類に説明はない。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 地獄からの使者(古くて申し訳ない)、地蔵菩薩である。
 日本ではなぜか地蔵というと穏やかな仏(もしくはサッカー場で動かない客)となっている。あれはどういう経緯で作られたイメージなのだろう? 少なくとも京都に通じる境界に作られた「六地蔵」は、そんな穏やかなものではなかった。
 境界に祀る神に求められるのは、要らざるものを内部に侵入させない力である。逢坂の手前の四宮なんて、相当におどろおどろしいぞ。

 またまた余談になってしまった。
 この地蔵王廟は、どうやら艋舺で疫病が流行ったことと関連して祀られたらしい。疫病による死者たちを救うことが、地蔵に課せられた使命ということになろう。

艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
艋舺地蔵王廟(台北・萬華)
 で、なぜか謝さんと范さんがいる。実は地蔵菩薩の脇に城隍爺も祀られている(反対側には田都元帥も)。これらの神々は、廃絶した近隣の廟から遷されたものらしい。
 地蔵王廟自体も日本時代に廃絶しかけたのを、龍山寺の傘下に入ることで免れたという。その代わり、本来は独立した寺廟だったのに、龍山寺に隷属する関係になってしまった。

 さて、去年の訪問時は地蔵王廟の一部かと思っていたが、ここにはもう一つの廟があった。そちらは次の記事で。

2010/06/24

進財切仔麺(台北・萬華)

進財切仔麺(台北・萬華)
 剥皮寮のちょうど向かいには切仔麺の店が二軒ある。進財切仔麺は旅旅台北に紹介されていたので、せっかくだから入店してみることに。
 ちなみに公式サイトがある。読んでみると、つい最近ここに移転したことや、「進財」が二代目の名前ということが分かる。初代の命名があまりに現世利益的で驚かされる。

進財切仔麺(台北・萬華)
 店内はけっこう混んでいた。空いてる席に案内され、メニューの紙を渡される。鉛筆でチェックを入れて店員に渡す方式である。支払いは食事後。

 切仔麺は30元。旅旅台北でこれを紹介していないのは、QQじゃないからだろう。
 麺はふにゃふにゃ。でも、のびてるというわけでもない。スープはあっさりしてうまい。これだけで腹を満たすには向いてないが、小吃巡りの一食にはちょうどいいと思う。

進財切仔麺(台北・萬華)
 燙青菜30元。これは地瓜葉(サツマイモ)だ。
 台湾では何度も地瓜葉を食っているが、なぜこれを日本では食わないのか不思議でならない。それぐらいうまい。
※コメント欄のMatさん情報によれば、品種が違うとのこと。食べ物関係はあまり熱心に調べないので、適当な書き方で申し訳ない。

 日本でサツマイモの葉といえば、戦中戦後の食糧難の話ばかり。かの東海林さだお大先生がネタにするほど、「食べないのが当たり前」なんだよな。
 derorenはサツマイモの芋の方は食えないという(他人に言わせれば)不思議人間だが、あえて言おう、みんな地瓜葉を食えと。



進財切仔麺(台北・萬華)
 豬心50元。豚のハツである。これも適度な歯応えでうまい。もちろん肉に臭みないし、ショウガとタレの組み合わせは絶妙だ。やっぱり醤油膏だ……ということで後日、台南のスーパーで一瓶買って持ち帰ったゾ(高級品らしい「蔭油膏」)。
 そして何度か調理に使った上で言うが、台湾旅行のお土産は醤油膏を買うべし! 炒め物はもちろん、茹でた野菜にかけるだけで燙青菜っぽく食える(ニンニク風味はないけどね)。

進財切仔麺(台北・萬華)
 最後に台南乾意麺30元。台南に行く前に台南という名の料理は食べるべきか若干迷う部分だ。しかし台南で意麺を食べるとは限らない(揚げ麺じゃない方の意麺は案外レア)ので食べてみた。
 QQな乾麺に、コクのあるタレがたまらない味。それなりに量があるけど、あっという間になくなった。

 総じてこの店はうまかった。これだけ頼んで140元。日本円で420円である。日本語は通じないけど全く心配ないので突撃すべし。

2010/06/23

萬華・剥皮寮(二) 復元中の街並の外側

萬華・剥皮寮
 剥皮寮でもっとも賑やかな場所がこの辺である。
 中央部には路地があって、古い家並みが修復されて続いている。

萬華・剥皮寮
 同じ地点から右方向を見る。
 奥の巨体は老松国小で、右の建物は(一)で紹介した教育館方面。

萬華・剥皮寮
 我々は既に興味が別の方向にあったので、外側だけ巡る。
 亭仔脚の美しさを見ても、いかにきちんと修復されたかが分かる。

萬華・剥皮寮
 しかし修復されたものの、すべて無人だ。結局、ここの住人を全員立ち退かせて整備したので、立派な箱だけなのだ。
 これからどうするのだろう。イベントをするには狭いし、明治村みたいな施設を目指すにも狭いし、商業施設として貸し出すしかないのでは。

※我々と似たような感じで、剥皮寮を見学して阿秀切仔麺で食べたらしい日本語のブログがあった。剥皮寮では、我々が行かなかった方面の紹介もされているので、せっかくだしここにアドレス載せようかと思った……が、ゲストハウスの宣伝ブログのようなので断念。
 本ブログは我々が訪問した場所だけを掲載する方針である。別にゲストハウスに恨みはないので念のため。

萬華・剥皮寮(一) 台北市郷土教育中心の概要

萬華・剥皮寮
 広州街と昆明街の交差点(バカな国民党のおかげで名前だけワールドワイド)。
 いかにも古い建築を修復しました、という感じの建物があった。

萬華・剥皮寮
 なかなか立派な建物は、かつての病院らしい。しかし現在は「台北市郷土教育中心」と書かれた看板が目立つ。

萬華・剥皮寮
 建物の裏側にまわると、色目を合わせつつ遊歩道が整備されているのが見える。ここは、かつて建ち並んでいた家々をつなげて、展示スペースとした施設であった。

 昆明街と康定路の間の地は剥皮寮と呼ばれており、かつては石炭の集積地として栄えたらしい。なので立派な建物が並んだのだが、日本時代に学校用地として開発が禁止されてしまう。実際、この北側は老松小学校の敷地である。
 ところが学校建設は行われないまま時が流れ、清代末期から日本時代の景色がここだけ残ってしまったそうな。

 入場無料で、日本人には日本語のパンフレットも用意されている。2009年に開館したばかりなので、我々が事前に読んだガイドブックには記載がなく、不意打ちの観光地だった。

萬華・剥皮寮
 左奥の塔みたいなのはエレベーターである。
 ある意味で日本の町おこし施設的に立派な整備だ。ちょっと皮肉を込めたくなる。

萬華・剥皮寮
 故事館、教育館、医療館といったスペースの展示物は、正直言って海外からやって来た観光客がわざわざ時間を割くほどの内容ではない。小学校の遠足にちょうど良い程度だ。
 ナントカ商店街とかナントカ故事館みたいに、昔懐かしい街並みを復元と言いつつ、実際は単なる商業施設というのも萎えるけど、ここはどうにも中途半端だ。学校ゆかりの地だから教育といっても、教育はイデオロギーが発露する場なので、案外楽しめない。
 まぁ無料の休憩施設として使うことは出来るので、その存在は知っていても良いのではなかろうか。

 なお剥皮寮は右半分がこういう展示施設で、左半分は当時の路地を再現している。一般観光客にはそちらの方が面白いのではないかと思われる。
 が、我々は右半分しかまわらなかった。老街は実際に活動しているから価値がある……から見なかったわけではなく、単に再現地区の存在をよく知らなかっただけ。
 ついでにいえば、そろそろ我々は食い気に傾いていた。その辺は二つ先の記事にて。

老松国民小学
 おまけ。どんな建築物よりも目立つ、老松国小の校舎。コンクリートの無駄使いと言いたくなるもっさりな巨体である。
 ちなみにこの小学校の旧来の校舎は北側にあって、そちらは日本統治時代の古蹟となっている。老松といういかにも日本的な名前も、その通り日本時代の名残りだ。
 さらに遡れば、蓮花池という池があった。祖師廟の南北にあった池の、南側のほうがここである。