2010/09/21
朝興宮・保和宮(後編) 流浪の媽祖廟
すさまじい景観に気押されしつつも、廟とあらば拝拝しなければと登った三階。
いったん登ってしまえば、ただの廟である。そして花が飾られている。
通称を檨仔林朝興宮と呼ぶこの宮は、媽祖廟である。
従って2010年5月4日の廟には、その生誕を祝う花が飾られていた。
門神。秦叔宝と尉遅敬徳の組み合わせではないかと思われる。媽祖廟の門神ってこうだったっけ?
疑問に抱くのは、ここが媽祖だけの廟ではないからだ。
記事のタイトルでも分かるように、ここには檨仔林朝興宮と馬兵営保和宮という二つの廟が祀られている。それぞれは由緒も祭神も異なっており、便宜上一緒に祀られているようだ。
廟にあった看板によれば檨仔林朝興宮は、北港朝天宮の媽祖を台南に呼んで作られた廟で、元は孔子廟の西側にあった。この辺は台南府城の寧南坊檨仔林という地だったので、檨仔林朝興宮と呼ばれたらしい。
ところが、そこからこの廟は流浪の日々を送ることになる。元凶は北白川宮だ。日本統治時代、台湾で死んだ北白川宮を神にしようということで、台南神社が造られた。それは孔子廟のそば(現在は空き地と駐車場)であり、神社が中国的な孔子廟に取って代わるという象徴的な意味があったと思われるが、まさしく朝興宮の位置であった。
で、神社に敷地を奪われた朝興宮は、仕方なく近くに移転。すると神社の拡張に伴って、また移転。計四度の移転を余儀なくされ、終戦で神社が潰されるといったん元の場所に戻ったという。
元に戻った際に保和宮と合祀の形となり、民国72年(1983)にこのビルとなったとある。ここは檨仔林ではなさそうなので、ビル建築の際にも移転したことになる。
保和宮の由緒は特に書かれていなかった。池府千歳を祀る王爺廟という以上は不明。
媽祖像たち。赤い襷はないので、朝天宮に進香はしていないようだ。
千里眼。鬼の面である。
順風耳ももちろん同じタイプ。
千里眼の奥にひっそりと祀られる池府千歳。保和宮に相当するのはこの部分だけだ。王爺廟なので、本来なら謝将軍と范将軍がいるべきなのだが、それらしい神はいなかった。
なお、手前のぼんぼりに書かれた文字からは、祀典武廟を奉じる人たちが寄付をしたらしく読める。関帝との関係があるとは思えないけど、祀典武廟は地域の信仰の拠点のようなので、ここに寄付をしたということかな?
階段に戻って、降りた先の壁を見る。たぶんこれは媽祖の生誕の絵だろう。
合祀というわりには媽祖廟一色の朝興宮・保和宮。まぁ拝拝すれば普通の廟だが、この階段だけは忘れられない。また行きたいってわけではないけどさ。
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