2010/09/05

萬福庵前照牆(台南市中西区)

萬福庵前照牆(台南市中西区)
 民族路を西に向かい、やがて北側に赤嵌楼の駐車場が見えてくるあたりで、南向きの路地に潜る。すると程なく、派手な二階建の廟が見つかるだろう。
 この廟は萬福庵という。そして、その駐車場の壁のように立っているものは、萬福庵前照牆と呼ばれる。

萬福庵前照牆(台南市中西区)
 大変地味で、取りたてて装飾といえるほどの装飾もない。民家の入口に垣を造って、内部が直接見えないようにする形式(本来の目的は辟邪である)も、何もここだけではなかろう(沖縄では風除けで造ってるし、京都近郊でも見かけたことがある)。
 しかし実は、この垣だけが古蹟指定されている。わざわざ萬福庵とは区別してである(萬福庵は古蹟になってない)。

萬福庵前照牆(台南市中西区)
 この牆が造られたのは、なんと鄭氏政権の時代に遡るという。
 しかも、なぜここに造られたのか、そこに至る物語が伝わっている。それを知れば、古蹟指定もなるほどと思うだろう。

萬福庵前照牆(台南市中西区)
 『台南歴史深度旅遊』によれば、元々ここには阮駿という人の未亡人が住んでいたという。阮駿は鄭成功に従っていた武将だが、台湾攻略前に戦死してしまった。その夫人は、鄭成功とともに台南に渡り、再婚することもなく夫を弔った。その住居がここであった。

 やがて鄭氏政権は、施琅が率いる清軍によって滅ぼされるが、その時点で阮夫人はまだ存命であった。
 清朝の家臣としての施琅は、阮夫人宅のすぐ近くに駐在することになった(この付近は当時の台南の中心地なので、ありうる話だ)。しかし阮夫人は施琅の行為を不愉快に思い、屋敷の門を造り替えた。この辺の説明が完全に読み取れないのだが、どうもそれは、風水の流れを変えて、西に住む施琅側にダメージを与える目的だったらしい。
 そこで施琅は、この照牆を造って流れを遮り、邪悪なものが来ないよう防いだ……という話。

 ちなみに阮夫人が亡くなった後、邸宅はズバリ「阮夫人寺」となった。百年ほど経ってから、萬福庵と改められたという。
 敗者の街となった当時の台南において、阮夫人がまつりあげられていた事情が、ここにうかがえるのかも知れない(照牆のエピソードが本当に17世紀のものかは不明)。

 もちろん我々は入口だけ見て帰ったわけではないので、萬福庵の内部も紹介するゾ。
 なお、すぐそばには台南きっての古い豪邸「陳厝」もあるのだが、現在も住人のいる個人宅なので、掲載しない可能性大(入口ぐらいは載せても大丈夫かな)。

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