2012/04/27

南鯤鯓代天府(四) 萬善堂

南鯤鯓代天府
 南鯤鯓代天府はだだっ広い。現在建設中の箇所もそこかしこにあったりする。
 その(四)以降は、正直言って蛇足っぽい内容だけど、せっかくなので紹介しよう。

 写真は萬善堂。建設途中の社殿は、どんなに立派そうでも大した価値はないが、ここは拝拝の人もいる、生きた廟である。

南鯤鯓代天府
 この廟のそばには、小さな池がある。で、人間と牛が、何やら曰くありげに鎮座している。
 もちろん、どこかの芸術家が境内を借りているわけではなく、萬善堂の由来に関わるものだ。

 萬善堂は『台湾廟宇図鑑』では触れられていない。従ってその由来については、ほぼネットに依存するしかないのだが、これがまた私の読解力では難しい。大雑把にしか説明できないのでご了承願いたい。
 昔、この地に牛飼いの子ども(囝仔公)がいた。で、その牛飼いは雨に降られると、いつも現在の廟の辺りで雨宿りをしていたという。ただしその雨宿りの場所には特別な霊気が漂っていたため、牛飼いはいつしかそうした霊気を溜めていく。
 そして牛飼いは、亡くなる(神として天に召される)前にこう言った。自分の身体を、ゴマと豆と一緒に葬れ、と。そうして昇天した神が萬善爺であるという。

 代天府の五府千歳を祀る際に、萬善爺が現れて「ここはワシの土地ぢゃ」みたいに怒ったエピソードもあるらしい。外来神に対する地主神という立場で祀られているのならば、よく分かる話だ。

南鯤鯓代天府
 時計ではない。鐘が鳴るのさ。

南鯤鯓代天府
 萬善堂内部の様子。
 少年神なのに「爺」はおかしいと思うのは、日本語的な感覚。「年寄りはえらい人」的に考えれば良い。若くともえらければ爺だ。

 なお、日本統治時代の1917年に、近くの急水溪が大規模な氾濫を起こした。その際に萬善堂の前身の廟は流されてしまい、代天府全体が危機に瀕したという。
 そこで五府千歳が現れ、二万の信徒を動かして堤防を築かせた。その堤防は五王堤と名づけられ、おかげで水害の恐れがなくなった。その後に、あらためて再建したのが萬善堂であるとも説明されている。

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