2012/04/06
大嶺頭を探険
蒸し暑い開隆宮を出た我々は、狐狸(SlyFox)氏に連れられて新美街まで歩く。そこのお店で夕食をとるためである。
民権路を西に向かい、南に折れると慈蔭亭の入口がある。慈蔭亭の古名は仏祖廟で、かつての町の名前も仏祖廟街だった。
そんなわけで店に着いたのだが、食事前に見せたい所がある、と狐狸氏。なんだろうと思ったら、いきなりビルのすき間のような道に入って行く。
この写真は、途中で新美街側を振り返ったもの。たまたますれ違った人が写り込んでいるので、雰囲気がよく分かるだろう。そして、奥に向かって下り坂になっていることも、何となく分かってもらえるだろうか。
反対向きの写真で下り坂なのだから、我々は坂を登っている。わりと平坦な感じの市街で、意表を突く坂だ。
ビルを抜けると、石畳の細い路地が続く。折れ曲っているので、写真では全く分からないけれど、この辺が最高地点である。
その先は写真のように下り坂で、西門路につながっている。つまり、ここには標高せいぜい数メートルの丘が存在するのだ。
この丘については、狐狸氏のブログに詳しく紹介されているので、そちらを御覧あれ。大西脚(大西門の近くに形成された街)の中でも、「大嶺頭」と呼ばれた地らしい。そして西門路は、ほぼかつての海岸線ということになる。
砂浜地帯には、小さな丘(沙崙)がよくできる。derorenの地元でも見られるので、生成の状況は想像できるけど、すっかり埋め立てられて市街地と化した町に、こういう形で古い地形が残っているのは面白い。ちょっとした探険気分も味わえるし。あらためて狐狸氏に感謝。
せっかくなので、帰国後に古い地図を確認してみたら、黒田書店刊『台南市全図』(1915)に、それらしい路地が載っていた。
写真の左側に線路が描かれているのが、現在の西門路。中央付近の右側に、U字状の地形が記され、帆寮街(現在の新美街。なお「寮」は正しくはくさかんむり)、仏祖廟街に続いている。
もう一つ。台南州製作『台南市区改正図』(1929)には、路地は載っていない。しかしこの地図には等高線が描かれており、丘の存在を確認できる。
ちょうど地図で「西門町三丁目」とある付近だけ、等高線が左に突き出ている。
昔の地形を辿って歩く旅は、日本でも最近は流行している。derorenはまぁ、テレビ番組の「ブラタモリ」を見たり、中沢新一『アースダイバー』を買った程度で、あまり詳しくはないけどね。
海外でそういう探険をする機会は、なかなか訪れないだろう。夕食前の貴重なひとときだった。
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Thanks for sharing the old maps.
返信削除My extra benefit from that is to confirm that the location of 共和醫院 & 天德紙廠 was a newspaper office in Japanese era.
>狐狸さん
返信削除你好。こんにちは。
那時謝謝。
根據地圖,「新聞社」是「台湾新聞台南支局」。
也登載在1924年的地圖上。
The word "探険" in the title is quite precisely used
返信削除which also describes my mood at the first time visiting.
要表現那個體驗,只有探險。非常快樂。
返信削除台灣新聞社的前身是松雲軒
返信削除松雲軒刻印坊是台灣第一家印刷機構,出現於道光初年。
道光初年,台灣府的一位文人官員盧崇玉(本名耀崑,為台灣府軍功六品職銜的學佾生)創立了松雲軒刻印坊,地點在台郡上橫街統領巷頭 (今台南市永福路陳氏家廟左邊)
大正四年(1915),台灣爆發了西來庵抗日事件,這是日本據台五十年間所發生最大一宗武裝抗日革命。起事人余清芳善用民間信仰,結合盧乙的出版事業,進行鼓動人心的策略,孰料功敗垂成,繩之以法。當年四十八歲的盧乙也受到株連,經大赦減刑為十二年,死裡逃生之後,他對於書店業務更加無心照拂。不得已於大正10年 (1921) 以後,將松雲軒殘存書版全數轉移到高砂町的「昌仁堂」(今台南市建國路),讓渡給黃來成接手。從此松雲軒的版本,也只能為了流通於台灣本島與南洋僑居地,仍然再繼續刊刷銷售。
然而,松雲軒最大的浩劫旋即接踵而至,在昭和20年(1945)3月間,美軍為癱瘓日本軍事設施及精神戰力,屢次轟炸台南市區,「昌仁堂」黃來成所藏書版不幸全數毀於戰火
>匿名氏
返信削除謝謝詳細的說明。
有那樣的歷史的「新聞社」。
是非常很有興趣的話。