2010/06/18

番藷市街と華西街北端(台北・萬華)

番藷市街(台北・萬華)
 青山宮の前の貴陽街は、台北の起源というべき古い街である。
 元々は原住民(平埔族)の居住する地であった艋舺。吉田東伍『大日本地名辞書』では艋舺について、原住民の用いる丸木舟の名ヴァンカァが語源と説明している(吉田東伍説はけっこう眉唾な内容も多いが、一応ここでは紹介しておく)。
 18世紀に福建から渡って来た人々は、そんなヴァンカァに上陸して街を造った。この通りで交易が行われ、その主力商品は番藷(サツマイモ)であったという。番藷市街の名はそこに始まっている。

番藷市街(台北・萬華)
 この写真の奥が淡水河である。従って、ここがまさに発祥の地……なのだが、見ての通りで全く何の面影もない。左に折れる華西街の方が、まだ多少それっぽい風情がある。

 日本時代の写真を見ると、この街はちょっとだけ京都の祇園や島原を思わせる景色である。『大日本地名辞書』によれば、番藷市は音が似て(当時の現地音はホアヌツウチイらしい)おめでたい文字の「歓慈市」と改名、やがて遊郭となった。
 以後、日本から国民党に政権が移っても、ここはそういう街であり続けた。その名残りが華西街夜市ということになる。

華西街北端(台北・萬華)
 華西街のいちばん北端の様子。
 もしかして日本時代の?、と思わせる建築で、中央右の「入船町会館」も注目される。以前に紹介したように、興直街や番藷市街の辺りは、日本時代は入船町だった。

※旅旅台北で番藷市街の記事を見つけたが、紹介されている写真は新興宮付近より東側のみなので、興直街、あるいは草店尾街と考えられる。
 もちろん初期の番藷市街は、細かく分かれてはいなかっただろう。しかし清代の末期には、既にこれらの街は区別されていたはずだ。

華西街の小廟(台北・萬華)
 そんな通りに小さなお堂があった。対聯の一番上の文字が「萬華」である(対聯の一番上は、その廟宇の名になっている場合が多い)。
 祀られてる両側は仁王像っぽいし、対聯にも仏教色が感じられるが、金玉満堂が垂れ下がっている。ある意味で台湾らしい謎なお堂である。

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