2012/03/28
台南公園(三) 熱帯の苑池
その(一)と(二)は、内部の古蹟紹介で終わったので、ここでは公園そのものについて記していく。
上の写真は、言うまでもなく社交ダンスだ。しかもズンドコ節だ。アキラでもドリフでもキヨシでも零心会でもなく、中国語の歌だったぜ。
公園の雰囲気は、かつてNHKで放送された「世界ふれあい街歩き」を見た人なら、まぁ想像つくだろう。基本的にはただの公園。平日の年齢層はやや高めなのだろうが、我々が歩いたのは土曜日なので、子ども連れも多かった。
公園の中心をなす池で、燕潭と呼ばれる。「燕潭秋月」は、台南を代表する景色とされた(どうでもいいが台湾wikipediaは間違って「暁」とあるゾ)。
池上の楼台は、国民党時代になってから造られた。従って、恐らく「燕潭秋月」の景色にはなかったはず。
台南公園は1912年から建設が始まり、1917年に開園した。つまり日本統治時代に造られた庭園である。
元々ここは、台南府城の大北門のあった場所。文元溪という小さな川が流れており、燕潭はその名残りであるらしい。
また、燕潭の北側は刑場だった。あんまり楽しくない場所ですネ。
日本の植民地政府は、府城の城壁をすべて破壊した。その上で、台南を西洋風都市に改造する一環として、巨大な都市公園の建造に取りかかったわけだ。
池の南方の景色。ダイオウヤシやナンヨウスギなども見える。いずれも日本時代に台湾に導入された植物だ。
台南公園という名で開園したここは、熱帯植物の実験林も兼ねていた。従って、世界各地からさまざまな樹種が導入され、ここで生育が試みられた。その頃の樹木は、今では百歳を越える老樹となって生存している。
ベビーカー泣かせの曲橋。バリアフリーなどという思想はない。
国民党が移った後、この公園は孫文の名前に変更され、中山公園となった。まぁ台南で一番メジャーな公園だから、彼らの命名論理に基づく限り中山か中正しかないだろう。
それはさておき、単に改名しただけではなく、こういった楼台を造り、サルやクジャクを飼うなど、レジャー施設化が進んだ。日本時代から噴水池はあったし、別にレジャーを志向していなかったわけではないが、はっきり舵を切った形である(ちなみに噴水池は最近取り壊された)。
もっとも、こうした変化は日本と国民党の違いではないだろう。
巨大な緑の都市公園は、近代ヨーロッパの都市計画が生み出したもの。以前読んだ本では(タイトルが思い出せない)、都市の衛生観念を体現した施設と書かれていた。要するに、産業革命以降の汚れた都市を浄化するためには、巨大な公園が適しているという思想である。
しかし、公害を公園で解消できるはずがないのは、今さら言うまでもない。そして、巨大な公園は地域のコミュニティを分断するため、使い勝手が非常に悪い。
結局、大型公園はレジャー施設にでもするしかなかったのではないか。
ともかく、tomopeeを連れて燕潭の楼台にやってきた。
ハルク・ホーガンみたいなポーズを決めているが、この時点で彼は相当にバテている。
それもそのはず。午前10時の気温が31度だ。まだ3月だぜ!?
我々はちゃんと台湾の週間天気予報をチェックしていた。その予報ではせいぜい27度ぐらいだったが、前日18時に台南入りした時点で、予想以上に暑いことに気付いた。ただ暑いだけではなく、まるで日本の夏のように蒸し暑いのだ。
いかんなぁ…と思った翌日がこれだ。tomopeeは水分補給で何とか立ち直ったけどね。
奥に文元溪が流れている。その(一)の石坊の前に橋が写っているのも、同じ川である。石坊の前の橋は、日本時代のものかも知れない。
カラフルに塗られた謎の人工物。
実はこれ、防空壕である。古蹟の扱いはされていないし、たぶん民国になってからのものだろうが、いずれにせよ現役の模様。
こちらも老木に隠れるように、入口がある。
(二)の旧公園管理所が奥に見える。
この公園は、緑は多いが案外日陰が少ない。というか、日陰は既に先客がいたりするので、暑い日の休憩場所には向いていないと思う。
アテが外れた我々は、急いで次の目的地に向かう。そっちの方がたぶん、乳児連れには良い場所だと思われる。
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