2010/08/11
媽祖信仰ってなんだろうね(雑記)
我がホ~ムペ~ジは北港朝天宮の記事を順次掲載中である。既にかなりな数にのぼっているけど、これらの記事を書くだけでもけっこうな難産であった。
それは端的に言って、derorenに媽祖信仰を語るだけの基礎がないからだ。
そもそも北港関係の記事は、大きく以下のような分類のもとで書く予定になっている。
・朝天宮と義民廟の廟宇紹介
・朝天宮の出巡遶境行列(5/3)
・藝閣(5/3)
・進香
・典礼(5/6)
・小吃その他
このうち、現在は廟宇紹介、出巡遶境行列、小吃について記事を書いている。藝閣は今後、数回に分けて掲載予定。そこまではまぁ、何とかなる。
何とかならないのが、進香と典礼だ。
上の写真は、とある進香団がやって来た時の様子。媽祖の前で線香をかかげるおばあさんは乩童(童乩)だ。進香団には(小規模な場合は別だが)だいたい乩童がいて、門前で様式的な踊りを披露した後、廟内で祈りを捧げる。いや、ただ祈っているのではなく、神と意志を通じているらしいことは分かる。
ただ、それらをきちんと説明できる自信がない。従って、ある意味メインと言っていい進香の記事が未だに書けないのだ。
これも非常に特徴的な所作。内陣から取り出した媽祖像は、炎が燃えさかる香炉の上を通過する。その際に太鼓が鳴らされ、一斉に掛け声が上がる。この掛け声が何と言ってるのかすら、我々は分からなかったのだ(さあ帰るぞ、みたいなニュアンスなのは分かるけど)。
この叫び声は「進哦」、行くぞ、という言葉のようだ。最初は「ジェロ」と聞こえて、そのたびに黒人演歌歌手の顔とステップが頭に浮かんだわけである。そんなレベルの人間が焦って記事を書くのは、やっぱりやめといた方が良さそうでしょ?
※以下はややマニアックな話題。
ついでに記しておく。
最近、李世偉『台湾仏教、儒教与民間信仰』(博揚文化2008.9)という本に所収された「「媽祖加封天后」新探」という論文を読んだ。媽祖は清の皇帝より「天后」という位をもらったわけだが、それがいつのことなのか諸説あるよ、という問題を取り上げたものだ。
一般に台湾では、康煕23年(1684)に清軍が鄭氏政権を滅ぼしたことと、「天后」を結び付けている。つまり、清の将軍だった施琅が、平定したのは媽祖の加護のおかげだと康煕帝に奏上したので、康煕帝が「天后」に封じたという説だ。しかしこの説には根拠となる資料がなく、当時の資料では「天妃」であるという。
実際に「天后」の文字が見える確実な資料は、乾隆2年(1737)である。では台湾の通説は全く根拠がないのかというと、乾隆2年以前成立の台湾側の資料などに、「天后」と記されたものが存在するらしい。それが自称だったのか何なのかは、今後の課題のようだ。
そんな話を長々と紹介する理由は、「天后」という呼称に厳密でありたいからではない。
清朝は媽祖に位を与えることで、崇拝しつつ皇帝の傘下におさめ、南方の民を従わせようとしていたに過ぎない。一方で各地の媽祖廟は、それぞれの思惑で宗教的優位性をアピールするために「天后」を利用する。そういう意味での起源は、古いに越したことはないのだ。
もはや過去の王朝である清の皇帝がいつ何をしたのか?、それは神話の範疇に属する。歴史資料を持ち出して論じたところで、たいした値打ちはない。
今さらのように感じたのは、名前を与えることの大きさである。
論文中で問題とされる名前は、単なる「天后」ではない。たとえば「護国庇民妙霊昭応宏仁普済天妃」だったのが「護国庇民妙霊昭応宏仁普済福佑群生天后」になる。つまり「天妃」→「天后」という大きな変化はもちろんだが、何かの功績があった際に、四文字ずつ称賛の言葉が加えられていく(乾隆22年に「誠感咸孚」を追加、以後も増えている)。
まさに正勝吾勝勝速日天忍穂耳命みたいなもので、神名すなわち神話である。そして、廟宇の中に掲げられた扁額の文字は、そうした神話の一部だったわけだ。
そう考えると、現在の台湾の総統が各地の廟宇に扁額をおさめることも、まさに皇帝の行為なのだ。歴代総統が扁額を奉納するといえば、台南の孔子廟だが、義民廟や台南の玉皇宮など、方々で最近の総統が奉納した扁額を見ている。
朝天宮の典礼における県長の役割なんかも含め、普通選挙制度で選ばれた長すらも皇帝化してしまう根源は、こういう所にあるんだろうなぁと、その根深さにちょっと暗澹とした思いを抱いたというのが、正直な感想であった。
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