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2012/12/28

台南歴史年表(その2)

 前記事の続き。
 鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。


1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
 福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
 台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。

 先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
 そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
 余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。

 中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
 その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。

 約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
 対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
 従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。

大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
安平延平街(大員街)
海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
広済宮(同上)
文朱殿(同上)
台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
台湾県城隍廟(台湾県に由来)
台北隘門(残念ながら破壊された)


1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
 朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。

 鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
 で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
 ……が、すぐに大陸から施世驃施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。

 この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
 いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
 なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。

 もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
 この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
 もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。

 なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
 数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。

大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)


1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
 蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。

 日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
 しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。

 蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮祀典武廟など)の修復に努めたという。
  また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
  ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。

  法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。

法華寺
大天后宮
祀典武廟


1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
 蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
 原住民抑圧策としての屯田などを推進している。

 彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
 また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
 離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。

三官廟(元は彼の屋敷だったという)
接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
大天后宮観音殿(観音像を寄進)
開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
祀典武廟(観音像を寄進)
台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)


1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
 林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。

 彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
 呼応した勢力によって淡水鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅鹿港などごくわずかであった。
 朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。

 鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。

 この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
 日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
 ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。

 まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
 とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
 林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。

 ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
 台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
 なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。

 林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。

 ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
 黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。

北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)


 さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
 台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。

2012/12/25

年末


 年末。台南旅行から9ヶ月。月日の経つのは早いなぁ。
 年内に、台南歴史年表(二)を公開予定。あとはまぁ、未定だ。

 tomopeeは、やや太いけれど元気です。
 台南の皆様、本年はお世話になりました。

 tomopee稍稍肚子胖了。非常活躍,很好地唱。台南的大家,謝謝。




2012/12/09

台南歴史年表(その1)

 台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
 電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。



1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
 オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)

 原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
 支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。

 17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
 1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
 澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。

 余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
 もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。


1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
 鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。

 北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
 鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
 なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。

 鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
 陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
 この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。

 鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
 この後、鄭経鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
 既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。

 鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
 この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)孔子廟などである。

 史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
 清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
 ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。

1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
 清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。

 清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
 なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。

 清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
 しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
 この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
 移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。

2012/12/05

特別編を書くべきか

 ご無沙汰でござる。
 他の所用にかかりっきりだった上に、話題がないので更新が止まってしまった。
 月に一度は書かなきゃ、と思うが、話題がないのは相変わらず。

 祭礼絡みの記事は、それはそれでエネルギーがいるので、思い立って書けるものではない。たまに初心者向け記事でも書こうかな。人物紹介も寧靖王だけ書いて止まってるし。
 次に書くとすると、誰になるのかねぇ。


 なお、タイトルの「特別編」とは、台湾以外の国のことである。具体的にいえば韓国だ。
 実は今年の2月にderorenは韓国に出掛けている。ただしそれは純粋な観光旅行ではなく、いろいろ公開に制限のかかるものだったので、旅行記を書く予定もなかった。
 が、その辺の制限は、12月時点でほぼ解けている。さすがに具体的な目的まで書くとなれば、まだダメなんだが、行った先の紹介ぐらいなら大丈夫そう。
 ……というか、同行者のなかには、既に雑誌に書いちゃった人もいるし。

 ただ、台南旅行を薦めるサイトとしては、韓国の記事が延々続くのもアレだろう。例によって、書き始めたら相当に長くなる上に、台南篇に輪をかけてマニアックだ。
 そんなわけで、今この記事を書きながら決めた。別のブログに書くことにしよう。うむ。


 その別ブログは、ここを使う予定。
http://deroren21.pixnet.net/profile

 tomopeeの写真も、こちらのアルバムに載せていくつもり。パスワードつきなので、御覧になりたい方はその旨お知らせくだされ。

2012/11/02

安平いろいろ


 derorenとhashiは、かつて島倉千代子ライヴに参戦した経歴を誇っているので、定期的にこういうタイトルがあらわれる。もちろん本記事に島倉色はない。あったら怖いな。

 さて、四度目の旅の記録も一応ラストに到達したので、当面このブログは開店休業となる。五度目を望んではいるけれど、いかんせん子連れはいろいろ難しい。現時点で予定はないとだけ記しておく。
 まぁしかし、完全に更新を止めるのも寂しいので、ポツポツと何かしら記事は載せていくつもり。

 『台湾史研究叢書』シリーズを紹介しようかと思ったりするけど、原住民関係は手に余るし、なかなか微妙。台南に関連する内容は、台湾読者向けも兼ねてどうにか載せたい。


 で、上の写真は安平の民家。この猫が可愛いのだ。


 

 例によって路地をさまよったので、この家の前を二度通ったのだが、二度ともこの姿だった。
 tomopeeも今なら大騒ぎだったろうなぁ(この時も反応していたけど)。


 

 犬もいる。
 台湾は野犬なのか放し飼いなのか、とにかく道端に犬をよく見かける。正直、それは赤子連れ旅行にとって余り良い状況ではないけど、安平では滅多に遭わないので大丈夫。

 台北はちょっとアレだよね。そもそもderorenは犬嫌いである。


 ガジュマルの木が祀られている。樹王公と呼ぶらしい。らしいというか、まぁ一般的な呼び名だけどね。
 写真で反射している部分に案内板がある。あちこち文字が剥がれていて読み辛いのだが、おおよそ次のような説明のようだ。

 この木は樹齢300年を超えるもので、伝えるところによれば鄭成功が台湾にやって来た頃には既にあった。ここは元は[石老][石古]石礁(フォントなし)で、鳥雀が余所から飛んできてどうのこうのという記述があるけど、 文字が剥離して不明。たぶん、この木にちなんだ地名がついたという話。
 で、いろいろ霊験があって、戦勝祈願とか災難除けなどの願い事に対して奇瑞を起こしたので、樹王公として祀られた。ここに参拝するには、近所で売ってる碗粿を供えろと締めくくられている。




 ちなみに隣は跳房子という建物。何かと思ったら、民宿らしい。
 今流行りの、古民家改築民宿のようだが、たぶん非合法なので紹介はしない。



 茉莉巷は、そこそこ有名なわりには人がいない。
 もっとも、我々の訪問はすべて平日なので、土日は違うのかも知れない。


 


tomopeeのこうしたベビーカー姿も、今となっては懐かしい。
 2012年11月時点でも、ベビーカーを卒業したわけではないけど、ここだったら歩かせているに違いない。
 ……ただ、こういう路地でも猛スピードのスクーターがやって来る危険性があるのが、台湾という環境なのも事実。交通マナーだけはどうにかしてほしい。毎回同じことを書いているゾ。



※なお、pixnetにて作業中。




2012/10/23

帰国日の話


 放置気味だった旅行記は、一応この記事で終わりとなる。
 ただし、速報の必要がないために、開基玉皇宮や西華堂などの記事はまだ書いていない。これらは相応に準備した上で載せる。
 いやまぁ、相応の準備ができるほどの時は流れたけどね。wasted timeはEagles。


 さて、最終日の3月21日、ホテルを6時55分に出て、空港には朝7時着。この数分のタクシーに200元かかったことは、ホテルの紹介記事にも書いたけど、何ともすっきりしない。
 来年にはMRTが開通するし、並みの機動力があれば電車やバスを選択するのがベターかも。

 ともかくエバー航空のカウンターに着いて、チェックインの手続きをとる。
 赤子連れはオンラインでのチェックインが出来ないため、空港ですべて済ませるしかない。その際には予約番号を求められたので注記しておく。
 まぁ旅行の初心者が予約番号のメモをしないとは思えないので、注記する必要はないのかも知れない。ただ、パスポートさえ見せれば予約番号を知らせる必要がない場合の方が多いし、現にここでも両親の予約番号は不要だった。babyは何かとイレギュラーである。

 チェックイン自体はすんなり終わる。重量オーバーさえ気をつければ何の問題もないよね(そういえばソウルの某ホテルで、軒並み重量オーバーという日本人団体に遭遇したけど、どう処理したのかな)。
 空いてる椅子に座った我々は、いよいよ最後の台南食にとりかかる。
 桃園なのに台南食。泣く子も黙る、松村燻之味の手羽燻製だ(肉製品は日本への持ち込み不可)。



 せっかくなのでtomopeeをバックに撮影。残念ながらtomopeeはまだ食えない。この記事を書いている時点では、前歯は揃っているけど、燻製は硬いので未だ難しそうだ。
 ともかく、derorenとhashiは無心に食す。これがまたうまい。屋台の鴨みたいに唐辛子は使われておらず、燻製の香りが素晴らしい。あっという間に全部食べてしまった。

 ちなみにこの燻製は、台南でお世話になったCさんにいただいたもの。ブログでの紹介が半年後になってしまい申し訳ない次第である。
 とにかく、わざわざホテルまで届けに来ていただいたお土産は、美味しくいただきました。感謝!
 謝謝給我們的伴手禮。感謝。




 その後は第2ターミナルを散策しつつ乗り場へ。
 故宮博物院の売店があったので、何冊か本を買った。残っていたお金もきれいになくなり、日本円への両替なしという結果になったぞ(というか、足らなくなって一部はカード払いに)。


 エバー航空便の車窓から。宮崎市付近である。
 いつも乗っているキャセイ便は夜なので、こういう景色を見るのは初めてだった。

 今となっては、googleマップがあるので有り難みはないけど、何か資料として使えないかと思って撮影している。




 足摺岬だが、どうしても岬の突端は撮れず。窓枠込みで、いかにも飛行機から撮った感じですねぇ。誰も興味ないだろうが。

 そんなわけで無事に帰国。
 楽しい思い出をいただいた、台南の友人の皆さんには、最後にあらためて深く御礼申し上げます。感謝多謝。




 あの時はまだ歩けなかったtomopeeも、今はこんな姿に。
 次に皆さんに会える時は、いろいろお話できるといいなぁ。再見。



※tomopeeの近況写真は、今後は別の場所で紹介します。
 友人の皆さんには、パスワードをお知らせする予定です。

2012/10/22

華膳空廚美食館(高鐵桃園駅)


  さて、既に速報性もなくなった半年前の話。いちおう、あまり情報がないので載せるだけ載せておく。

 台湾高鐵(台湾新幹線)は、半ば意図的に「何もない」場所に駅を造っている。従って、普通の都会の駅でなら当たり前のように出来ることが出来なかったりする。
 その辺はまぁ、日本の新幹線の駅でも起こらないわけではない(岐阜羽島とか安中榛名とか)。ただ、信号場に毛が生えたような安中榛名駅と違って、桃園も台南も主要駅という点が違う。嘉義は……、主要駅と呼ぶにはちょっと苦しいか。

 とにかく、上に挙げた三駅は、駅前にあるのは駐車場だけ。それ以外は見事に何もない。駅構内で済まない用は即お手上げだ。
 駅構内には、とりあえずコンビニはある。台南駅なら、食事もできる。桃園駅も今なら大丈夫だろう。

 実は2012年3月の桃園駅は、改装工事中で構内の店舗がほぼ閉まっていた。従って駅のコンビニは改札内のみ営業、食堂などはなしという状況だった。まさかそんな状況とは知らずに改札を通った我々は、途方に暮れたわけである。
 とはいえ、桃園駅クラスで本当に何もないわけがなかろう、と一縷の望みにかけて探してみると、駅舎の外に食堂を発見した。 中華航空の系列で、華膳空廚美食館という(ホームページはこちら)。まぁ店内はこんな感じで、郊外のファミレスみたいな雰囲気だ。
 我々は、この後はホテル直行だし、生後12ヶ月のtomopeeの食事時間でもあったので、とにかくここで食べることにした。




 ファミレスみたいな、と表現してみたが、ここはカウンターに注文に行く形式である。むしろ、伊丹空港内にある食堂に近いのだが、あのマイナーな食堂で例えても、ピンと来る読者は少ないだろう。
 注文自体は別に難しくはない。写真付きの美麗なメニューが座席に置かれているので、それで選んだものをカウンターで頼む。値段はまぁ、台湾的にどうかと言われれば微妙かも知れないけど、日本の(駅の食堂の)水準で言えば良心的だと思う。

 写真は華膳雙醬麵120元。いわゆるジャジャ麺ですな。スープ付き。
 既に台南に別れを告げた我々なので、ここでは非台南なメニューを頼んだ。味はまずまず。



 非台南といえば川味牛肉麺120元。台南でも探せばいくらでも食えるけど、基本的には北部のメシなので、今回の旅では最初で最後である。
 これもまぁ、四川風紅焼の典型的な味。牛肉麺としては高くもない。
 街中で食べる小吃とは雰囲気が違うけど、手軽に台湾っぽさを味わう意味では、この店も悪くないのかもと思った我々である。



 ただしドリンク類はダメだ。ジャジャ麺のスープと同じ器に入っている珍珠奶茶50元。これをストローで飲むらしいぜ。
 というか、この器はドリンクどころかパフェ類にまで使われるという万能食器だ。その辺は、美麗なメニューを見た時点で分かることなので、頼んでから文句をつけてもしょうがない。
 どちらかといえばダメなのは、珍珠が少ない点だ。ドリンクスタンドで飲みまくったderorenは、にわか珍珠奶茶評論家なのである(嫌な客だ)。


 ここで食べる用のある(日本の)旅行者は、桃園のホテルに泊まって明朝の便で帰国する、我々のような存在ではないかと思う。桃園から高鐵に乗車する客なら、この駅で長居する必要もないだろうし。
 とりあえず、城市商旅航空館に泊まる人には良い選択肢のはず。
 桃園駅5番出口を出てすぐ、営業時間は7時~23時らしい(メニューによる。公式サイトに営業時間の記載はない)。

2012/10/14

万福寺普度勝会2012





 そんなわけで今年もやって来たぜ万福寺。
 何のためにって?
 決まってるぢゃあないか。

  

 華僑の祖霊祭祀行事、普度勝会だ。
 去年は、とにかく台湾成分を補給したくて出掛けた祭である。

※昨年の記事はこちら。祭礼最終日の全体像を確認したい方はどうぞ。
 万福寺普度勝会を見学する(一)
 万福寺普度勝会を見学する(二)
 万福寺普度勝会を見学する(三)
 万福寺普度勝会を見学する(四)


 城隍廟も陰陽司も去年と同じ。というか、本当に同じ張りぼてじゃないか、と疑いたくなる感じだが、詳細に比較するとちょっと違うようにも見える(これらは最終日の夜に焼却される)。というか、身につけてるアイテムは違う。ついでに、謝将軍と范将軍の位置が逆になっている。
 両将軍の位置に関しては、今年の方が妥当であろう。



 冥宅もちゃんと並んでいる。
 左端の家の名前がないのが気にかかるけど。


 

 冥界で豊かな暮らしを送っている様子がうかがえる。
 テレビはもちろん地デジだよね。

 

 どっかで見たエンブレムの高級車だ。
 紙銭を焼くことの延長には、当然、こういう発想がついてまわるわけだ。面倒くさくいえば、道教的な世界観が、現世と死者の世界を接続させていることのあらわれだろう。


 我々は台南の東嶽殿で、こういう世界を知っているから、今さら驚きはしない。とはいえ、自身の発想にも決してない。要するに、互いに受け入れがたいけれど、存在を否定できないから「異文化」なのよね。


 まぁそんな話はここまで。
 今年の普度勝会は、万福寺のホームページにわざわざ特集が組まれ、去年までとは状況が変わっていた(去年は、開催日以外の情報は現地でしか分からず)。
 それは恐らく、これが復活したからだろう。



 中華街の祭といえば、たいていの人が連想する獅子踊りだ。今年は神戸の方からやってきて、蝶のように舞い、蜂のように刺しはしないが、激しく踊った。tomopeeも大満足。
 ちなみに、ちゃんとtomopeeは獅子に頭をかじってもらったゾ。



 そして、中国的な獅子舞には欠かせない大頭仏が登場した。いい動きだ。 


 大頭仏は獅子たちを煽りながら踊りを盛り上げ、最後の見せ場をつくる。



野次馬の我々も、こうして祝福された。後ろの大頭仏がちょっとdoraemonっぽいのは気のせいである。
 なお、この後にパンと銭が投げられたわけだが、今年は5円玉以外も含まれていた。hashiが拾ったのは5円玉だけ、しかしderorenは何と………、詳細は伏せておく。いやぁラッキーだぜ。




 KBSのカメラがあったかは不明だが、BSフジのカメラが入っていた。きっと、現地を訪れもしないタレントが「ここは日本の中の中国」とか物識り顔のナレーションを入れる番組になるのだろう。
 このブログも似たようなものだけどね。




2012/10/13

明日は某所に

 今年も行くぜ。たぶん。
 去年と違って、お客が多そうだけど。

2012/09/28

劔獅とおむつ交換の巻


 前半と後半の話題が全く違うが、無理矢理一つの記事にしてみる。
 まぁ正直、これ以上の細分化は必要なかろうし。

 上の写真は妙寿宮の近くの交差点。陳家の交差点から妙寿宮に向かって歩き、そのまま通過すればすぐ分かる。



 この劔獅は、安平でもかなり著名なものだ。
 壁の上にあって、邪神の侵入を防ぐ劔獅は、安平でも滅多に見られない。ここと、以前に紹介した家が双璧であろう。




 妙寿宮よりうんと手前の路地に、台窩湾民居があったけど、中は見物できず。
 なお、一応宿泊も可能らしく、某ガイドブックの推薦プランでは、ここに宿泊して台南旅行なんてものがあった。
 ただし、宿泊と言っても、ただの民家に雑魚寝するだけ。民宿扱いする向きもあるけど、イメージ的にはバンガローみたいなものだ。しかも一日一組なわけで。

 ついでに断わっておくが、宿泊施設として観光局に登録されているものではない。日租房のように悪質な物件ではないにせよ、何か起きた時の保証はない。



 ここは安平旅遊資訊中心。
 陳家と安平天后宮の間、コンビニのすぐ近くだ。



 観光客向けの休憩スペース、パンフレット配布、それからレンタサイクルもあるらしい。我々はその辺の用件で訪れたわけではないので、詳しいことは分からないけど。
 月曜休館で、他は10時から18時まで開いている。


 我々はここで、tomopeeのおむつ交換をしようと思ったのである。
 安平古堡には、もしかしたらそういう設備があったかも知れないが、ちょうど入館時に交換するとは限らないので、できれば無料施設にそういう場所が欲しい。
 そこでふと発見した公共施設に頼ろうと考えた。現代の日本の感覚ならば、そうずれてはいないはずだ。 

 しかし現実は恐ろしいものだった。




 まさかのテーブル上交換となったtomopee。彼の人権に配慮して、渦巻きで隠した上に写真サイズも小さくしたゾ。

 我々は職員に対して、身振り手振りを交えながら、おむつ交換をしたい旨を伝えた。
 当然それは「トイレはどこですか」に等しい質問だったはずだが、職員に指示されたのは、何と観光客の休憩スペース。この長テーブルの反対側では、普通に一般人がお茶を飲んでいる。hashiの後ろにも座っている。
 さすがに冗談だろうと思ったが、職員は本気だった。近くに座っている阿桑も、気にするなという感じ。結局、そのまま作業に取りかかると、オバチャンはゲラゲラ笑いながらその様子を見ていた。

 親切にしてもらったので感謝しているけど、どうにかならないものかねぇ。
 この写真を見て、おむつ交換に訪れる勇者はなかなかいないだろうし。


 ちなみに、安平のトイレ事情は、通常の大小便ならそれほど深刻ではない。
 有料施設の安平古堡、安平樹屋にはもちろんあるし、無料のトイレはここや、蚵灰窯文化館にある。それらに間に合わない場合は、廟のトイレという手もあるだろう。陳家や周氏のような非屋台の店にもある。
 けど、多目的トイレはなかなかない。赤子連れにとっては制約の多い旅である。



2012/09/22

安平郷土文化館


 観音街にひっそりと建つ安平郷土文化館。安平に行くたびにここは通っているし、それどころか一度の旅で何度も通過していたりする。
 ここの街歩きは、ほぼ道に迷うことと同義だ。どうせ迷っても、少し歩けば現在位置は分かる。


  日本統治時代の小学校の校長が住んでいた宿舎だという文化館は、外観は宿舎というよりも駅舎のような姿で、きれいに整備されている。
 もちろん、中の展示は知れているし、限られた時間をここで費やす必要はない。そう思って、これまでは通過し続けていた。

 しかし今回は、とある事情により中を見学することになったのだ。
 

 内部の様子。安平の特産品として壺が展示されている。それ以外にも安平の歴史のパネル展示がある。管理者が常駐しており、観光パンフなども入手可能。
 まぁしかし、ここの価値は下の写真で分かる。



 そう。きっとここならtomopeeが遊べるに違いないと思って、我々は連れてきたのだ。
 日式だから土足厳禁の床がある。そして、こんな展示だから観光客も少ないだろう。どちらの勘もばっちり当たった(後者は当たっていいのか微妙だが、我々の貸切だ)。

 この記事を書いている半年後の時点では、方々を走り回り、食事もすべて自力で済まそうとするtomopeeである。不可抗力とは言え、ベビーカーに乗るしかない状況ではストレスがたまっていたはずだ。
 その意味で、ここは赤子連れ旅行に欠かせない場所であった。
 

 もう一つ、ここにはtomopeeの刺激になるものがあった。
 猫である。


 この写真の床は、文化館の裏庭。そこに猫が何匹もあらわれて、tomopeeに挨拶をしていった。
 tomopeeが喜んだのは言うまでもないが、実はこの時、見知らぬ一人の男性が、こちらにカメラを向けていた。どうやら、赤子と猫という景色を、良い被写体だと思ったらしい。
 一人で自転車で街を巡っていた若い男性が、その後どうしたのかは不明。その写真が既にどこかで公開されている可能性は高いのではないかと思われる。 見つけたら教えてねっ(というか、当人が教えろと言いたいぞ)。


 こうしてストレスを発散したtomopeeとともに、残り時間を安平で過ごしたわけである。
 その辺のぶらぶらした記事を載せて、とうとう台南に別れを告げることになる。
 いや、半年もかかって今さら「とうとう」もないのだが。


※blogger投稿画面改変に伴い、いろいろ苦戦中。使いづらいなぁ。


2012/09/21

海山館(三) 中途半端な観光施設


 だらだら続く海山館の紹介は、これで最後。
 こちらは二棟続きの左側の景色である。


 メニューが書いてあることで分かるように、喫茶スペースとなっている。それと売店だ。
 正直、ここで茶を飲む意味があるのかは微妙だ。狭くて落ち着かないし。

 
 まぁこちら側を歩く理由があるとすれば、右側の建物の側面が見れる、というぐらいだろう。



 この劔獅も有名なもの。他にも屋根にいろいろ乗っていたりする。京都の民家の屋根に鐘馗がいたりするような感じだ。

 
 正直、こういう展示は文化財の無駄使いじゃないかと思う。
 無駄使いというか、持て余しているのか。
 元々が展示に向かない構造の建物なんだし、無理に何かを置かなくともいいのでは。

 
 井戸もある。津田式の流れをくむ正昌牌だから、そんなに古いものではない。

 我々にしても、海山館に大きな期待をして訪問したわけではない。従って、右半分の復元内容には不満はないし、見に来て良かったと思う。
 が、モニターにデフォルメキャラという路線は、徹底されているわけでもないし中途半端で評価できない。着ぐるみ常駐ぐらいしなければ無意味。というか、この狭い施設に多くを求める必要はないはずだ。
 半年前の訪問なので、現在は改善されていればいいですな。



 余談だが、bloggerの投稿画面が変わって、非常に使いづらくなったゾ。

2012/09/05

海山館(二) 三合院と劔獅

海山館
 いよいよ海山館の内部へ。典型的な三合院建築だ。
 否応なしに目にとまる劔獅は、改修前の写真にもうつっているもの。もちろん描き直しただろうが。

海山館
 もうちょい近くに寄ってみる。
 その(一)でも触れたが、劔獅は屋敷内に異物が侵入するのを防ぐ存在なので、武装している。口にくわえた劔だけでなく、上部にも物騒な刃物を並べてある。まさに、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈遅れを取る可んや、である(柳生一族の陰謀だ)。

海山館
 裏はこうなっている。三十六天罡七十二地煞とあるのは、平たくいえば天地を守る神々のこと。とりあえずここを読むのが良さそう。
 まぁしかし、上のリンクの台湾大百科全書も触れるように、結局は『水滸伝』なのよね。あれは小説じゃなくて、リアルな信仰の世界だから。

海山館
 中に入ってみる。まずは正面。
 ここは基本的に礼拝所みたいなスペースになるが、神様の代わりにモニターが備え付けてある。何にせよゆるキャラだ。

海山館
 天井の様子。
 手前左右のレフ板みたいなのは、とりあえず装飾のようだ。日月?

海山館
 正面の部屋の背後のスペースには、こんな椅子があった。
 目の前でカップルが座って記念写真を撮っていたが、何となくピンとこなかったので、我々は座っただけ。

海山館
 そこから裏口に抜けることができる。こちらは行き止まりだが、反対側には扉がついている。まぁ観光客的にはあまり意味のない情報だ。
 とりあえず、窓の上の装飾が面白い。

海山館
 さて、三合院の左右それぞれの部屋は、やはり展示スペースとして使われている。
 こういう立派な三合院を無料で見学できるのは素晴らしい。展示品にはいろいろ言いたいこともあるけど、その辺は目をつぶろうではないか。

海山館
 この左右の部屋には、今で言うロフトのような設備もある。すごく狭いので、寝床にするにはどうかなぁ…とも思うけど、世の中には押し入れで寝るような酔狂な人だっているという噂だから、これはこれでアリかな。
 まさか女中部屋ってわけでもないだろうし。


 そんなわけで、まだ続く。たいして中身はないのだが、安平的な三合院というレアな物件だけに、細かく紹介したくなってしまった。