台南の歴史に興味のある人向けに、おおざっぱな年表を作ってみよう。某所から帰宅する電車の中で、ふと思いついたので書いてみる。
電車内でのイメージは、ほんの短いものだったが、いざ書きだしたら長くなってしまった。「その1」としたのは、ここで力尽きたからだ。その2はいつになるか不明である。読者がいなさそうだったら、続きはない可能性大。
1624年(明・天啓4年 日・寛永元年)
オランダ軍、台南に拠点を築く。行政拠点はプロヴィンシャ城(赤嵌楼)、防御の要はゼーランジャ城(安平古堡)。
原住民の集団に由来する地名はあったが(赤嵌は地名)、オランダ人は勝手に本国風の名を付けた(どこの国も一緒だ)。ゼーランジャは、ニュージーランドのジーランドと同じだったりする。
支配地域は台南を中心とする南西部と、一部の港のみ。原住民や中国移民を使って開墾を進めた。またキリスト教を布教して、支配の強化につとめた。黒人奴隷も連れており、現在も「烏鬼」と名が付く地名(烏鬼井など)は、彼ら奴隷にまつわる地と伝えられる。
17世紀初頭から、オランダ軍と明軍は澎湖諸島(台湾の西側の諸島)を巡って交戦を続けていた。
1622年にオランダが澎湖諸島を占領すると(占領は二度目)、明はオランダに対して、台湾を与えるから澎湖諸島を返すよう求めた。その約束に従ってオランダは台湾に遷ることになる。
澎湖諸島は明の統治下にあり、マカオなどとともに海路の拠点として重視されていた。対して台湾は、それぞれの原住民はともかく、漢人社会に関していえば、ロクに統治機構もない無法地帯。現在とは正反対の地理感覚だが、これは19世紀半ばまで続いていく。
余談だが、そんな台湾に「朝貢せよ」と書状を送ったマヌケな男がいた。他でもない、豊臣秀吉である(1593年)。「高山国」宛の書状が残っている(いた)らしい。
もちろん受け取る相手はいなかった。「高山国」という国家は存在しないからだ。
1661年(明・永暦15年 清・順治18年 日・寛文元年)
鄭成功軍、台湾を攻撃。オランダ軍はゼーランジャ城に籠城するが、投降してルソンに撤退。
北京を占領して大陸支配を本格化させた清(後金)に対して、明の王族は皇帝を名乗っては逃亡、殺害の繰り返し。清軍の猛攻撃に遭いながらも、王族同士で争う末期的状況である(北京喪失後は南明と呼ばれる)。
鄭成功(鄭森)が奉じた永暦帝も、この1661年には、雲南からミャンマー方面まで逃亡した末に、捕えられて皆殺しにされた。
なお、鄭成功の別名「国性爺」は、明の皇帝に「王族の性(朱)を名乗ってもいいぞ」と褒められたことによるが、その皇帝は永暦帝ではなく隆武帝。1646年に在位1年ほどで自殺している。
鄭成功の父鄭芝龍は、元々は明朝を悩ませた海賊であり、帰属後も船団の指揮権をもっていたと思われる。やがて父は王族を見限って清に寝返るものの、鄭成功は引き続き子飼いの船団を抱えていた(父は、成功も清に寝返らせるよう求められるが失敗、処刑された)。
陸地では明を圧倒した清だが、まだ海軍は揃っていない。そのすきに台湾を占領し、補給基地とするのが鄭成功らの狙いだ。
この構図は、蒋介石が台湾に逃げ込んだそれとよく似ている。というか、国民党は自分たちの正統性を主張するために、鄭成功の神話化を図ったのである。
鹿耳門からオランダ軍の隙を突いて赤嵌楼方面に攻め込み、ゼーランジャ城を孤立させた鄭成功軍は、どうにかオランダ軍の追放に成功する。引き続きルソンも攻める気だったが、1662年に鄭成功が死去。跡目争いもあって、ルソン行きは消えた。
この後、鄭経、鄭克塽と続く台湾政権を、鄭氏政権と呼ぶ。
既に明の皇帝は存在せず、外交的には鄭氏が国王なのだが、名目上は「明の遺臣」。その根拠として、明の王族の寧靖王(朱術桂)を住まわせていた(現在の大天后宮)。
鄭成功は、台湾を東都と改称。ゼーランジャ城のある島は安平に、プロヴィンシャ城は承天府と改名した。鄭経は東都を東寧と改称。
この改称はいずれも台南を暫定的な首都とする意味で、仮だろうが何だろうが都であるという証明のため、一通りの施設を造った。それが、現在の東嶽殿(泰山の神は皇帝が祀るもの)や北極殿(明朝の守護神)、天公壇(天壇)、孔子廟などである。
史上初の漢人政権の裏には、原住民への抑圧が伴ったはずだが、「オランダからの解放」のみ喧伝される。列強に領土を侵食されつつあった19世紀の清朝が、漢民族ナショナリズムをもり立てて台湾を自衛させようとしたことが、背景の一つと思われる(伊能嘉矩が分析している)。
清朝下では逆賊扱いだったはずの鄭成功が、突然顕彰されて祀られるようになったのである。
ついでに、その廟は日本統治時代に開山神社と変じた。史上初の漢人政権は日本人の血を引くということで、植民地統治に利用されたわけだ。そして国民党が利用した結果が、現在の延平郡王祠。閩南建築が日本の神社建築に変わり、北京風に建て直されて現在に至っている。
1683年(永暦37年 清・康煕22年 日・天和3年)
清軍、台湾を攻撃。鄭克塽は降伏し、寧靖王は大天后宮後殿付近で自害。運命をともにした后妃らの遺体を弔ったものが五妃廟である。
清軍の総大将である施琅は、元は鄭芝龍・鄭成功親子の配下だったが、いろいろあって仲違いした(家族を鄭成功に殺害されている)。跡目争いでゴタゴタ続きの鄭氏政権など、所詮敵ではなかったのだろう。
なお施琅は、その後の台湾統治に関しても大きな役割を果たしている。
清朝内部では、鄭氏政権が滅んだ後の台湾を捨てるべきとの意見が大勢だった。上でも触れたように、当時の台湾は「統治」されていなかったためだ。
しかし施琅はそうした意見に反対した。要するに、放棄してしまえば、またどこかの敵の根拠地に戻ってしまうという主張である。結果、福建省台湾府という行政区分として、一応は統治下に置かれることとなった。
この統治は消極的なもので、台湾府(台南)の下には台湾県(現在の台南市)、鳳山県(高雄市)、諸羅県(彰化から嘉義辺り)の三つしかない。鄭氏政権の統治範囲をアバウトにおさえ、あとは移民禁止令で対処した。移民がいなければ敵も登場しないという論理である。
移民禁止が完全に解除されたのは、約80年後の1760年(乾隆25年)であった。
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