2012/12/28

台南歴史年表(その2)

 前記事の続き。
 鄭氏政権滅亡後、18世紀までを大雑把にまとめた。大雑把なわりには長いぞ。


1684年(清・康煕23年 日・貞享元年)
 福建省台湾府を、現在の台南市に置く。行政トップは知府という。
 台湾府内に、台湾県、鳳山県、諸羅県を設置した。同じくトップは知県。

 先の記事とかぶる内容。施琅の主張が通り、清国は正式に台湾を統治することとなった。ただし台湾全土を福建省の一部とする、極めて大雑把なものである。
 そもそもこの時点で、中国系の住民が暮らす地域はまだ一部に過ぎない。具体的には、現在の台中付近から高雄(鳳山)付近までの西海岸と、淡水(台北近郊)や基隆などで、そのうち中心となる現台南市の区域を台湾県、彰化・雲林・嘉義などを諸羅県、現高雄市や屏東などを鳳山県とした(清朝期の台湾地図は、東半分がメチャクチャである)。
 余談になるが、台湾という呼称は、現在の台南市安平付近の地名(大員)に由来する。従って、安平を含む地域を台湾県と呼ぶ。

 中国の都市は、城壁に囲まれた形が一般である。しかし台湾には、オランダ人が築いた「城」があったのみで、行政の中心となる現台南市にも、この時点では城壁がなかった。不要だったのではなく、造る余力がなかったためと思われる。
 その代わりに渡航禁止令を出すことで、清政府は統治を容易にしようと考えた(渡航済の移民にも帰還を命じる)。しかしその目論見はうまくいくはずもなかった。

 約80年にわたる渡航禁止令(時々緩められることもあった)にも関わらず、台湾には多くの移民が押し寄せた。そして原住民をも含めた血みどろの争いが続くことになる。
 対して台湾に駐留する清軍は、福建人による交代制であり、土着ではない(渡航禁止と同様に、土着すると反乱するという発想)。行政機構もやる気がなく、かつての日本の貴族のように、任命されても現地に行かない例も多かった。
 従ってその状況は、武器の程度はともかく、リアル『北斗の拳』状態といっても過言ではない。時代は降るが、艋舺(現台北市龍山寺周辺)隘門のように、住民自身の手で町が城塞化した例もある(艋舺の場合は、移民同士の争い)。

大天后宮(施琅が造らせた台湾最古の石碑「平台紀略碑」がある)
安平延平街(大員街)
海山館(福建から派遣された兵士の交流施設)
妙寿宮(福建兵が郷土の神を祀った安平六部社の一つ)
広済宮(同上)
文朱殿(同上)
台湾府城隍廟(成立は鄭氏政権下だが、現在の名は台湾府に由来)
台湾県城隍廟(台湾県に由来)
台北隘門(残念ながら破壊された)


1721年(清・康煕60年 朱一貴・永和元年 日・享保6年)
 朱一貴事件。全台湾を巻き込む大規模反乱の最初である。

 鴨を飼っていた朱一貴が、ヤクザな方面の首領となり、明朝の生き残りを称して蜂起。彼の軍は台湾府を襲撃、役人はいち早く澎湖諸島に逃走する。同時に淡水諸羅(現嘉義)も武装勢力が制圧、台湾はほぼ全土が朱一貴らの手に落ちた。
 で、とりあえず朱一貴は明の中興王の位につく。永和の年号も使い始める。
 ……が、すぐに大陸から施世驃施琅の子)が率いる水軍が派遣され、数ヶ月後に朱一貴は降伏、北京で処刑された。

 この反乱の重要な点は、まず「明朝の生き残り」という主張。
 いわゆる「台湾人」意識がいつから存在するかという問題は、現在の政治に大きく関わるので色々な主張があるし、あまり深入りしない。とりあえず、台湾は明であり、清とは違うという意識は存在した。
朱一貴より前にも、呉球の反乱では朱祐龍という自称生き残りが出現している。そしてこの後に起きる最大の反乱は、反清復明の天地会によるものだった。
 なお、朱一貴が中興王に即位した場所は、台南の大天后宮だったという。言うまでもなく、ここは明の寧靖王府址だ。

 もう一つ、台湾の行政組織のやる気のなさも指摘されている。
 この時期、鳳山県は知県(県知事)不在で、台湾府の知府の王珍が兼任していた。しかし王珍は行政を息子に任せて遊びふけり、息子は重税を課してやりたい放題。そうしてたまった不満を、朱一貴は利用したという。
 もちろん朱一貴の目的が、台湾人民の解放にあったかは定かでない。清朝の役人を追い出して、最初にやったのは弁髪廃止と自らの即位であり、そのせいで呼応した勢力と仲違いして滅亡を早めている。

 なお、事件後の1725年、台湾府の周囲を木の柵で囲った。初めての城壁だ。
 数年後には、木柵の外側に刺竹(台湾原産のタケの一種)を植えた。大陸の都市と比べればかなり貧相な城壁だが、一応これで台湾府という言い方も可能になる(台南の別名「府城」の由来)。

大天后宮(即位の詳細はもちろん不明)


1763年(清・乾隆28年 日・宝暦13年)
 蔣允焄、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾道」という当時の最高責任者にも就任。以後、10年あまりにわたって台湾統治に関与した。

 日本の台湾観光関係の書籍やサイトにおいて、清代の役人に触れられることは滅多にない。せいぜい沈葆楨ぐらいではないかと思われる。
 しかし、台南が台湾の中心として栄えたのは、なんといっても清代である。そこで強大な権力者であった知府に触れずに、台南を語ることはできない。

 蔣允焄は「風流太守」の異名をもつ知府。文化面での功績が伝えられ、台南の古蹟(大天后宮祀典武廟など)の修復に努めたという。
  また彼は、台南きっての古寺のひとつ法華寺を改修した。その際に、寺域に人工湖を造って舟を浮べ、その景を楽しんだ。
  ただし、人工湖は文人の趣味というだけではなく、貯水池としての側面もあったらしい。

  法華寺は、第二次世界大戦の際にアメリカ軍の空襲に遭い破壊されたが、その後にある程度修復されて現存する。今でも道教色のない仏教寺院である。

法華寺
大天后宮
祀典武廟


1775年(清・乾隆40年 日・安永4年)
 蔣元樞、台湾府の知府となる。翌年には「福建分巡台湾兵備道」という、軍権をもった最高責任者にも任命される。
 原住民抑圧策としての屯田などを推進している。

 彼が台湾統治者であった時期はわずか3年ほどに過ぎないが、現在の台湾、とりわけ台南を語る上では欠かせない人物である。接官亭など交易に関する設備を整えたり、開元寺など市内の寺廟を修造して、七寺八廟と称される文化都市を出現させた。
 また『重修台郡各建築図説』をまとめた。この書物は現存しており、数少ない清代台湾の建築記録である。
 離任後には燕園という庭園を造ったという。江南を代表する庭園として、現在の江蘇省蘇州市常熟市に現存する。

三官廟(元は彼の屋敷だったという)
接官亭(台南の海の玄関として整備。石坊が現存)
開元寺(海会寺として整備。「重修海会寺図碑」が現存)
大天后宮観音殿(観音像を寄進)
開基天后宮(こちらにも観音像を寄進)
祀典武廟(観音像を寄進)
台湾首廟天壇武聖殿(黄檗寺関係。詳細は次項)
成功大学旧台南衛戍病院(同じく黄檗寺関係)


1786年(清・乾隆51年 林爽文・順天元年 日・天明6年)
 林爽文事件。清朝時代に起きた最大の反乱である。

 彼は秘密結社「天地会」の首領であり、台湾中部の彰化を根拠地として反旗を翻す。台湾知府の孫景燧は、反乱を鎮圧しようと彰化に兵を出すが、そこで林爽文に攻められて殺害される。林軍はさらに北方の拠点都市である竹塹(新竹)を陥落させ、彰化に王府をおき、順天の年号を使う。
 呼応した勢力によって淡水鳳山なども陥落。全台湾で、林軍の手に落ちなかったのは台湾府、諸羅鹿港などごくわずかであった。
 朝天宮の門前町として栄える北港も、この時に攻め落とされ、多くの死者を出している(義民廟に祀られる)。

 鎮圧は約1年2ヶ月後。 攻撃に耐え抜いた諸羅を讃えて、嘉義という名が与えられた。もちろん、現在の嘉義市である。

 この事件を語るにあたっては、天地会という反清復明の組織を外すわけにはいかない。
 日本でも、武侠物好きならばこの名を知っているだろう。金庸『鹿鼎記』は、日本でもファミリー劇場で放送された。
 ちなみに清朝全体を通しては、反清復明の組織を「洪門」と総称する。大陸で起きた大規模な反乱には、たいていこうした勢力が絡んでいたという。格好の小説のネタである。日本でいうならば、影の軍団みたいなものも含まれるに違いない(ツッコミ無用)。

 まぁ天地会自体、影の軍団並みに伝説化されている(というか、比較するのもおこがましい)ので、はっきりしたことは不明。なんたって秘密結社だし。
 とりあえず、鄭氏政権の別働隊として大陸で活動したとか、鄭氏政権の諸葛孔明と讃えられた陳永華が、陳近南という偽名で号令をかけていたとかいう話がある。鄭氏政権滅亡時に、天地会に関する文書は海に捨てられたが、後に引き揚げられて流通したとか。
 林爽文も福建省の移民なのだが、彼のいう天地会を、陳永華まで直接に結び付けるのは難しそうだ。

 ただしこの事件と天地会絡みでは、台南に伝わる一つの物語がある。黄檗寺の話だ。
 台湾府城の有力寺院のひとつだった黄檗寺。しかし実は鄭氏政権時代から続く天地会の根拠地で、境内には蜂起に備えた軍資金があったという。
 なんとも徳川埋蔵金みたいな話だが、黄檗寺のあった場所(現在の成功大学力行校区付近)は、元々陳永華の邸宅だったと伝えられ、そうした縁から拠点になったという説もある。

 林爽文が蜂起した際、黄檗寺には不慧大師という僧がいた。しかしこの僧は台湾知府だった蔣元樞と親交があり、呼応せずに軍資金を蔣元樞に差し出して自首したという。しかし不慧大師は北京に送られて死罪となり、黄檗寺はその後荒廃。日本時代に寺域は陸軍によって完全に破壊された。

 ちなみに蔣元樞は1781年に他界しているらしい。少なくとも台湾にはいなかった可能性が高い。有名人を登場させて造られた、天地会絡みの伝説とみるべきなのだろう。
 黄檗寺の遺物は、天壇武聖殿にのこされている。

北港義民廟(抵抗して殺された人々を祀る)
赤嵌楼(贔屭石碑や石馬は、この事件に関係するもの)
代天府保安宮(贔屭の一体が神として祀られる)
台湾首廟天壇武聖殿(本尊は黄檗寺の遺物)
成功大学旧台南衛戍病院(黄檗寺の跡地)


 さぁ、次があるとすれば19世紀だ。たぶん日本統治時代は書かないけど、その3で終わる自信もない。
 台南の古蹟の大半は19世紀なのだから、そう簡単には説明できないはずだ。ともかく、よいお年を。

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