需要があるのか不明のシリーズ。19世紀は面倒くさい。現代が近づくにつれて、事象が増えていくのだから仕方がないのだが。
もちろん「歴史年表」は、所詮は書き手の意図に基づく物語に過ぎない。derorenが拾い上げた特定の事象の接続を、読者がそのまま尊重する必要はない。教科書の年表が恣意的であるように、ここに書いた内容も恣意的なものだ。
というか、歴史なんて常に恣意的なもの。作り上げる当事者の現在を、過去に投影させた上で、そんな都合のいい物語が壊されないように「正しい」とか言い訳を並べるものでしょ?、と無意味に毒を吐いてスタート。
1800年(清・嘉慶5年)
蔡牽の乱、台湾に波及(~1806)。
蔡牽は福建省の人で、いわゆる同安(厦門近辺)人。同安人は台湾に多数移住しており、有名な所では台北の大稲埕(現在の迪化街周辺)が挙げられるが、彼は移民ではなく、あくまで同安に本拠を置きつつ活動した。
蔡牽の活動そのものは、要するに「海賊王におれはなる!」であって、たまたまその対象の一部が台湾だったに過ぎない。従って、過去の人びとのように台湾独立に動くとか、同士が各地に現れるといったこともなく、ただ台湾(台南や高雄)が災難にあっただけ。
もちろん中国的な海賊王は、結局は皇帝を志向するはずなので、福建と台湾の独立が実現された可能性は高い(実際、彼は鎮海王を名乗った)。たちまち瓦解すると傍目には分かりそうなものだが、それなりの地位に就くと、途端に権力志向を剥き出しにする人間は今も少なくないのではあるまいか(自分の周囲には何人もいるゾ)。
こういっては何だけど、蔡牽の活動は鄭成功と大差ないのよね。鄭成功の軍隊も、元々は海賊なのだし、台湾側に要請されて攻め込んだわけでもないし。
唯一違うのは、名目のみの存在とはいえ、鄭成功は明の皇帝及び王族を奉じた点。蔡牽には奉じるべき者がいない。一番近所の琉球王を引っ張ってくるという奇策は、さすがになかったようだ(それ以前に、琉球王は皇帝じゃないから、名目にならない)。
蔡牽の軍はかなり手強く、鎮圧に派遣された清の提督を敗死に追い込んでいる。鹿耳門から台南に侵入し、台南の府城を包囲したこともあった。
が、やがて台湾からは手を引き、1809年に清軍に敗れて自害。なんと、船ごと爆破して死んだと伝えられている。
日本でいうところの松永久秀みたいな奴だが、こちらは部下200名以上を巻き込んだという話。勝手に殉死させられた者は浮かばれないよね。
1823年(清・道光3年)
台南の北側を流れる曾文渓が大氾濫を起こす。
地味な話に思えるだろうが、現在の台南を語る上では重要な事案だ。鹿耳門から船で台南に入ることが出来なくなっただけでなく、台江内海が干拓されるきっかけでもあった。
曾文渓は2009年の88水災でも氾濫した河川。それなりに堤防があり、上流に巨大ダムがあったにも関わらず、周囲が広範囲にわたって水没したことは記憶に新しい(我々は水がひいた直後に訪れている)。
1823年の水災は、鹿耳門にあった港を砂で埋めてしまった。また、流れが変わったことで、安平の港などにも砂が溜まりやすくなった。台南そのものの地位が低下するきっかけであった。
なお曾文渓の氾濫はこの後も起きており、1871年の氾濫では、鹿耳門近くにあった天后宮が土砂に埋もれている。
・土城正統鹿耳門聖母廟(1871年に埋没した天后宮の後身を名乗る)
・鹿耳門天后宮(同じく、後身を名乗る)
1835~40年(清・道光15~20年)
兌悦門や巽方砲台(外城)、安平小砲台、四草砲台などが建設される。一緒くたにしたが、実は少し目的が異なるようだ。
「外城」とは、日本でいうところの内堀・外堀みたいな響きだが、実際は全く異なる。そもそも、日本の城は城主や兵が籠る場所だが、中国の城は生活空間全体、つまり街そのものを城壁で囲む。従って、城壁で囲まれた城の外部に、新たに出来た街を、さらに囲んで城内とした部分が外城である。
都市が発展すると、郊外に街が広がるのは万国共通だが、そうしてはみ出した部分も、中国の場合は再び城の一部に取り込む。なので城がどんどん拡大することになる。こうした発想の究極形が万里の長城だろう。
現存する兌悦門は、西北にはみ出した部分に設けられた外城の城門。対して南東の大東門の外側にも外城が作られた。巽方砲台はそのなごり。
これらは、台湾内部の反乱や、蔡牽のような海賊対策であった。
安平小砲台と、鹽水渓を挟んで対峙する四草砲台の両者は、1840年に造られた。これも海賊除けに効果があるが、直接の要因ではない。1840年という年号は、世界史を習っていれば分かるはずだ。そう、アヘン戦争の起きた年である。
アヘン戦争の直接の舞台は、もちろん台湾ではない。しかし香港と台南は、近接した主要港であり、対岸の火事のはずもない。慌てて造りあげて備えたわけだ。
ちなみに、イギリス軍が台南に攻め込んだという話はないようだが、基隆などの占領を企てている。また、後に安平にはイギリスの商社が軒を連ねるようになった(後述)。
・兌悦門
・巽方砲台
・安平小砲台
1864~67年(清・同治2~5年)
1864年、安平港が欧米諸国に開港される。
アヘン戦争に続いて、1856年に始まったアロー戦争(アロー号事件)の結果、清はイギリスやフランスとの間に不平等条約を結ばされた。天津条約と北京条約である。
その条約のうちに、主要な港の開港が含まれていた。まぁ日本における(日米)修好通商条約と同じだが、台湾では淡水、基隆、打狗(高雄)、そして安平が対象となった。
それから3年後の1867年、徳記洋行(と和記洋行)が安平に支店を開設した。徳記洋行は、今では安平きっての観光地となった安平樹屋の主であった。その後も安平には次々と欧米の商社が支店を作り、植民地化が進められていく。
なお、これらの商社は、日本統治時代にほぼ撤退した。貿易を独占したい日本側が圧力をかけた結果である。
さて、この間の1865年に、イギリスの長老派教会の宣教師が台湾に渡り、布教を開始している。現在も台南に多くの教会や学校をもつ一派である。
長老派が台南に勢力を拡大したのは、抗日戦争時に日本軍との交渉にあたったバークレーの力によるところも大きい。もちろん、元々台南でそれなりの地位を得ていたからこそ、交渉役を委ねられたわけだが。
この時期に布教が始まった理由は、イギリスなどとの条約に「キリスト教の布教を妨げるな」という一項があったことによる。
キリスト教の布教は、もちろん植民地化の一環である。本国の宗教を布教することで、同様の価値観を与え、本国に対する主従関係を植え付けていく。これは日本による神道や日本仏教の強制も含め、あらゆる植民地で普遍的に行われた行為だ。
・徳記洋行と安平樹屋(ガジュマルに覆われ廃墟化した倉庫を、現在は安平樹屋と呼んでいる)
・安平樹屋再訪(2012年の記録。樹屋の様子はこちらのほうが詳しい)
・東興洋行(ドイツの商社。現在は喫茶スペースとして活用される)
・台南神学院(1876年創立。現役の宣教師養成施設)
・台南東門巴克禮紀念教会(近年改称された。巴克禮=バークレー)
とりあえず以上。どうにも書き辛くて放置してしまった。約2ヶ月かけて、力尽きた感じで公開する。
まぁ、何か思いついたら追加すればいいや。
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