2012/02/23

公学校用教科書『国語読本』と台南

tomopee
※この記事は1月末に書きかけて放置していたものである。なので、一部の時系列がおかしいのは無視しておくれやす。


 赤子連れ台南旅行は、3月挙行濃厚となっている。三人の体調も回復してきたし、今度こそは実現したい。
 ちなみに、2月中の旅行がなくなった結果、tomopeeは満1歳で台湾入りすることが確定してしまった。毎日「この世の終わり」の勢いで泣きわめくし、手のかかることには何の変わりもないけどね。

 さて、赤子はいずれ学校に行く。ということで教科書だ。言い切ってみたが強引にもほどがあるな。そもそも結びつける必要はあるのだろうか。
 まぁそんな枕はさておき、南天書局から出版されている、日本統治時代の国語教科書を某大図書館で発見した。その話。

 某大図書館では、いつも教育関係の棚を漁るのだが、その理由は「鄭成功の頌」をこの目で見つけたいからだったりする。一応『小西門』の本で確認できるとはいえ、個人的に孫引きは好きじゃないのだ。
 とはいえ、確実に載っている「公学校唱歌」の本は所蔵されていない。何かのついでに載るほどメジャーでもないらしく、某大図書館という範囲では未発見のままだ(記載されていたという事実だけなら見つかった)。
 ……ただ、今回教科書を眺めたことで、一つ分かったことがある。「公学校唱歌」は、まさしく公学校でしか歌われなかったんだろうな、ということだ。

 南天書局刊『日治時期臺灣公學校與國民學校國語讀本』は、一セットを除けば公学校で使われた教科書である。
 そもそも一般人は公学校が何か分からないだろうから補足しておくと、これは台湾総督府が台湾人向けに作った学校で、日本人向けの小学校とは区別されていた。
 日本人のガキと現地のガキでは基礎的な日本語力に差があるという名目もあろうが、周婉窈『図説台湾の歴史』などにも書かれているように、現地人の知的水準が上がらないよう分離したものだろう。
 高度な知識と思考力を持てば持つほど、総督府による差別にも敏感になる。まぁ当ブログは政治を語らないので、これぐらいにしておく。

 さて、四種の教科書のうち、最初のものは日本占領直後に刊行され、他とはかなり毛色が異なる。「太郎わ日本えゆきます」みたいな感じで、当時の日本語表記としておかしいのだ。
 まぁ恐らく、発音を優先して丸暗記させ、台湾人が日本語を操る姿を演出したかったのだろう。もちろん、暗記はどこまでいっても暗記でしかないが。
 他三種は、すべて当時の内地の教科書文法に拠っている。

 台南に関してはこんな内容が書かれていたりする。


 第十六 台南

 「今日は正吉に案内してもらつて、方々を見て歩いたらよからう。台南は古い都だから見る所が相当にある。」と、をぢさんがおつしやつたので、私は、中学校に行つてゐる正吉さんに連れられて、方々を見物することにした。
 正吉さんが、「台南神社・孔子廟(こうしべう)・開山神社・赤嵌楼(せきかんろう)、と廻つて、それから安平(あんぴん)へ行つて来ませう。」といふと、をぢさんは、「まあ、そんなところだね。安平の方は明日にして、先づ台南神社へ参拝するがよい。私も一しよにお参りしよう。」とおつしやつた。
 台南神社は、をぢさんの家から近かつた。神前に拝礼をすまして、をぢさんは、「これから御遺跡所(ごゐせきぢよ)を拝観しよう。ちよつと待つてお出で。社務所に行つてお願ひして来るから。」といつて、社務所にはいつて行かれたが、間もなく若い神主さんと一しよに出て来られた。
 私達は、神主さんの案内で、御遺跡所を拝観した。寝台(しんだい)も、毛布も、まことにおそまつなものであつた。宮様のやうな尊いお方が、かういふものをお用ひになり、こんなむさくるしいへやでおかくれになつたのかと思ふと恐れ多くて、胸がつまるやうな気がした。
 御遺跡所を出ると、をぢさんは、「わしはこゝから帰る。あとは二人で行つてお出で。」とおつしやつて、うちへお帰りになつた。
 二人は、台南神社からすぐ隣の孔子廟に行つた。こゝは孔子をまつつた所で、今でも毎年盛なお祭が行はれてゐるといふことだ。
 それから、鄭(てい)成功をまつつた開山神社に参拝して赤嵌楼に向かつた。
 「これはオランダ人がつくつたもので、もとはプロビンシヤ城といつたのです。それは、今から約三百年前のことで、その頃は、オランダ人がこの台湾を治めてゐました。その後は、鄭成功が治め、それから清(しん)の時代になつたのです。」
「昔は、こゝが首府だつたのですね。」
「さうです。」
「台南は、今、人口が.いくらありますか。」
「約十二万です。」
 二人は、楼上に上つて四方を眺めた。風が強くてひどいほこりが立つので、遠い所は煙つてゐるやうに見えた。私はこヽで絵葉書を買つて、記念スタンプを押してもらつた。
「さあ、これで一通りすみました。今度は台南銀座(ぎんざ)を通つて帰りませう。」
「台南銀座といふのはどこのことですか。」
「台南で一番にぎやかな通です。東京で一番にぎやかな所が銀座だからさういふのです。」
 なるほど、そのあたりは台北の栄町(さかゑちやう)通のやうなにぎやかな所であつた。うちに帰り着いた時は、ちやうどお昼であつた。

 翌日はバスで安平に行つた。台南と安平との間には、バスの通る道に沿うて運河(うんが)がある。途中池のやうなものがたくさんあつたので、正吉さんに聞いてみると、あれが魚塭(ぎよをん)だといつて、色々説明してくれた。
 十分もかゝらないで安平に着いた。磯(いそ)の香がぷんと鼻につく。バスを降りてすぐ赤嵌城址(じやうし)に上つた。こゝは小高い岡で、オランダ人のきづいたゼーランヂヤ城のあとであるといふことだ。正吉さんは、
「昔は安平は一つの島で、台南とははなれてゐたのださうです。今、僕等が通つて来たあたりは海だつたのです。安平の港も、昔は北の淡水(たんすゐ)と並んで、ずゐぶん盛なものだつたさうですが、今はこの通りすつかりさびれてしまひました。」
と話してくれた。沖を眺めると、ジヤンクが一さうさびしさうにかゝつてゐるだけで、遠浅の港には、波の音だけがさわがしく聞えてゐる。昔の繁栄(はんえい)は、どこにも見出すことが出来なかつた。
 こゝを下りてから、製塩会社に行つて見た。こゝには煎熬塩(せんがうえん)を造る工場があつて、雪のやうな塩が、山のやうにもり上げられてあつた。こゝを見てから、又バスに乗つて帰つて来た。



 台南神社、鄭成功関係、町の盛衰、主な産業と、小綺麗にまとめてある。まさしく教科書通りの内容だ(教科書だぜ)。今は跡形もない台南神社を除けば、現在の日本で紹介される台南と、それほど大差はないようにも見える。
 もっとも、大差がないのは当然である。この教科書も現在のガイド類も、所詮は日本の都合でまとめてあるのだから。

 南天書局のシリーズに一つだけ含まれる、公学校ではない小学校用教科書には、台南の項目がない。基本的に同様の項目で構成されていながら、台湾関係部分だけ削除されている(正確に言えば、公学校用に追加した、だろう)。
 その、削除された記述の中には、他でもない鄭成功の話も含まれる。

 母親が日本人だとさんざん利用しておきながら、在住の日本人向け教科書では取り上げもしない。その辺の本音が垣間見えて興味深かった。

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