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2009/10/29
陶々楼(京都 室町三条上ル)
何か台湾っぽいものを食べようかと出掛けた店。
室町通の、姉小路と三条の中間にある。地下鉄なら烏丸御池駅の西南出口から御池通を室町まで歩き、そこから下れば良い(ちなみに、室町御池にはさぬきうどんの「いきいきうどん」があるよ)。
店内はテーブル席と座敷があって、意外に収容人数は多そうだった。家族経営っぽいので、満席になったら大丈夫なのかなぁ、と心配したくなるが。
写真はキャベツ炒め(正式名称は知らない)。すすめられるままに頼んでみたが、これはかなりうまい。味付けが絶妙だ。
ピータンと豆腐を、麻婆豆腐的なソースで和えたもの。これも良い。ピータンをうまいと思ったのは久々だ。
里芋と豚の角煮。東西新聞の記者じゃないので語彙に頼らずに表現すると、どえりゃーうまいでござる。
角煮はちゃんと台湾風味で、控え目に八角の味がする。次に行った時は、刻んでご飯にかけてもらおう。高級肉燥飯のできあがりだぜ。
里芋は、台湾なら芋頭なのかなぁ、という味。たぶん芋頭の方がでかい分うまいと思うが、これはこれで悪くはない。
イカ団子。QQだ。台湾直送だそうだ。
で、炒飯でしめる。この炒飯も悪くない。
料理のレベルは全般に高い。上記のラインナップにサンザシ酒とライチ酒を加えて二名で六千円ほどだった。今回は残念なことに空心菜が切れていたので、次回行くことがあればオーダーしたいところ。
なお、一つだけ懸念される点が客層だ。
この日は二組の宴会組がいて、どちらも居酒屋的なやかましい笑い声を響かせていた。中国料理=大皿ということで、宴会のターゲットになりやすいのだろう。
いかにもうさ晴らし的な中年男たちも、媚びた会話が飛び交ういけばな団体も、出来れば同席したくないものだ。
まぁ、いつもそういう連中がいるとは限らないし、味は保証するので一度訪れておくれやす。
※詳細はここでも見るがよろし。
名刺によれば不定休だそうな。手書きで予約用電話番号も書いてあるけど、携帯みたいなので転載はやめておく。
陶々楼
京都市中京区室町通三条上ル東側 白鳥ビル2F
TEL:075-211-9211
2009/10/28
林永泰興
安平、というか延平街の名物といえば、エビ煎餅と蜜餞である。
我々の行き先は、前回も訪れた林永泰興。蜜餞の店だらけなのに、本当にここだけいつも賑わっている。
誇らしい百年名店。
ただし中では結構セールスがしつこい。我々にはちゃんと日本語読みで売り込んで来る。
しかし我々はそんなセールスには耳も貸さず(ニコニコ応対したが)、桑実ばかり大量に買い込んだ。前回買ったものの中ではトマトがいまいち、グァバは相当に微妙で、桑実は絶品だ。甘酸っぱくて癖になる味なのでオススメ。
なお、店のチラシは日本語の説明付きだ。日本人慣れしているので尻込みせずに買えるよ(セールスは無視しても構わない程度のものなのでご心配なく)。
安平の2009年8月14日(その二)
前回も通過して写真も撮ったのに紹介していなかった郷土文化館。元小学校の日式建築である。
実際には、写真で見るほど魅力的な建物ではないが、ともかくこれも貴重な遺跡。
郷土文化館近くの路地。
陳家から歩いて一分程度の裏道がこの雰囲気だったりするのが安平という場所である。
これは延平街から折れる路地。「茉莉巷」とある。
とにかく花がいっぱいのオサレな巷だ。こんな記事もあるし、たぶん有名なところなのだろう。
※リンクを張った記事が消えたので、別の記事のリンクを紹介。これもいずれなくなるかも知れないがご容赦。
hashi撮影。前回もそうだったが、安平では沢山写真を撮っていた。被写体に事欠かない街であることは間違いない。
2009/10/27
陳家蚵捲 再訪
安平に行ったら食べるぞ、と決めていた陳家蚵捲。
ちなみにこの日は朝はホテルで食べ、昼は長春健康素食自助餐で食べて、ここが三時のおやつだ。ちっともおやつじゃないが、まぁ昼飯時を外れることになったせいか、空いていたのは何より。
なお、前回食った時の記事はこちら。あえて言うが、特に見直す必要はない。なぜなら、今回も同じものを食ったからだっ!
カウンターを横から眺める。「87」の下には、冬瓜茶と書かれた紅茶が売られている。のどが渇いたらここで買う(15元)。この店にお冷やはない(台湾小吃には基本的にない)。
蚵仔煎。相変わらずうまい。
そろそろ他の店でも食べようと思うが、なかなか冒険できない我々である。
蚵捲もワサビが合う。
エビの方が一般的には有名なわけだが、二度行こうと思わなかった。単に我々がカキ好きだからなのかは不明。でもまぁ、カキ好きならきっとはまる味。蚵仔煎と一緒にオーダーしよう。
蚵仔湯。まぁこれはそれなり。
で、肉燥飯。残念ながら今回の旅では最後の一杯となった。毎日食べ続けるとメタボ一直線だ(去年より2kg太ったぞ!!!!)。
なお、蚵捲の皿に「おいしい」と書いてあることにお気づきだろうか(実は前回の写真にも写っている)。二つ合わせて「いちばん」「おいしい」だ。ファーストフードみたいなシステムといい、この辺のセンスといい、垢抜けない感じすら愛おしい………かどうかは微妙。
食尚玩家で紹介されているので載せておく。浩角翔起はちゃんと芸人しているので密かにお気に入りだ。というか、この回は有名店総ざらえなので他も見ておくれ。
2009/10/26
文朱殿で祭礼を見学する
前回は「あるなぁ」というだけで通り過ぎた、安平古堡前の文朱殿。しかしここは海山館の祭神なども含め、安平のいろいろな神を合祀しているらしいので、今回は拝むことに。
が、手前のテントの中がいつもと違う。
この辺は屋台のテントが並んでいるのだが、これはどう見ても屋台ではなかった。
劉府三夫人生誕を祝うそうな。
その人が誰なのかすら分からないのは言うまでもないが、どうやら劉府千歳の妻らしい。劉府千歳の素性が不明ではどうしようもないけどさ。
中では祭事がまさに行われていた。
外からコッソリ覗いていたら手招きされて、中で見学させてもらうことになった。まぁ状況から見ても秘儀秘祭の類ではなかろうが、気前よく見せてもらえてありがたい限り。
で、せっかく見せてもらったんだから、もうちょっときちんと調べて書こうと思うわけだが、文朱殿については『台南歴史深度旅遊 下』に若干触れられる程度で、資料がない。最近も『台湾宗教大観』とか買ってるんだけどねー。
金龍殿 再訪
前回は隣でえび煎餅を買った金龍殿。蝦煎餅は非常に評判が良かったが、何せかさばるので、散策の途中で買うことは不可能である。従って今回は断念した。
それはともかく、ここは土地公廟のようだ。
しかし土地公廟でありつつも龍の名を冠し、蘇氏千歳なども祀るわけだ。龍は安平のあちこちにある。やはり海神信仰なんでしょうな。
2009/10/25
裏安平古堡
タクシーの運ちゃんに「アンピンクーパオ」と頼んだにも関わらず、今回は有料区域に入らなかった安平古堡。
正直言って、有料でしか見れない場所は、何度も訪問する必要はない(一度は訪問すべきだが)。裏から南城壁もこんな風に見えたので、今回はそれで満足した。そもそもこの高さを撮影するには、有料区域では厳しいかも(有料区域からの写真はこちらを御覧あれ)。
この写真の見所は聳え立つ日本軍の遺構ではなく、中央の三人の子どもだったりする。
三人が立っている場所こそ、南城壁と並ぶオランダ時代の遺構、内城半円堡なのである。
外城北城壁(安平古堡)
東興洋行の先で海から離れ、迷路にもぐった。
釈迦頭やバナナが実っているその先に、煉瓦の壁が現われた。
いかにもな台南的煉瓦壁である。
上の写真で、右手前に見える道路の奥に、やはり煉瓦色の何かがあることが確認出来るだろう(クリツクしてね)。あれは安平古堡に残る煉瓦の城壁である。
安平古堡に残る城壁は、城の外側を囲んでいた部分であり、こうやって民家の塀のようになっているのが北城壁、公園として整備されているのは南城壁ということになる。西の城壁もごく一部残っているようだ。
しかし、隣の家との壁が築数百年の文化財ってのもすごいよなぁ。
2009/10/24
東興洋行 再訪
小砲台から堤を歩くと、やがてガジュマルの「森」が見える。
ここが前回はイーグルスを聴きながらお茶を飲んだ東興洋行である。
今回はまだ耐えられそうだったので、外観のみ眺めた。まぁ正直言えば、味については特筆するほどのものではない。
でもやはりこの雰囲気は貴重だ。
同じ洋館という括りでいえば、某神戸の北野の異人館の類より遙かに良い。つーか、北野は単なる時代遅れの観光地だ(最近出掛けた際の感想)。
西龍殿
東興洋行の裏手にある廟。
まぁ、この言い方は海沿いを歩いた場合の位置関係であって、どちらかと言えば安平古堡の裏側と言うべきかも知れない。こちらに日本語の紹介があるので、詳細は譲る。
そもそも写真でも分かるように、ダンプが動き回って何やら工事中だった。
池府千歳を祀る宮だ。
安平の……と、……。
安平小砲台のそば、というか天后宮方面から歩く途中に、こんな景色がある。
遠目にはカルスト台地か何かのようだが、観光客は立ち止まらないだろう。
そう、ここは墓地である。
この墓地の感じ、沖縄とやはりよく似ている。もしかして安平にも、水平的三分観があったりするだろうか。昔訪れた宮古島を思い出す。
小砲台に近い土手で、犬の姿を見た。
私は基本的に犬嫌いなのでそれ以上関わりたくなかったが、相方が土手に登り、顔をひきつらせていた。
土手の上には野犬の群れだ。
台南は野犬の多い街だが、この景色は異様だった。
古堡内で見た昔の地図には、墓地も描かれてあった。その時と今では島の形も違っているだろうが、この高台は存在していたはずだ。
オランダの土地計画において、死者の世界をどのように捉えていたかは知らないが、鄭成功が奪った後の中華的安平ならば………。まぁ調べもせずにこれ以上書いてもしょうがないな。
※2011.3追加
コメントでご教示いただいた。この墓地はゼーランジャ城の出城の烏特勒支堡であったそうな。『台南歴史深度旅遊』を読み直したら、そこにもわずかに触れられていた。
なお烏特勒支とはユトレヒト、オランダの都市名である。エールディビジのユトレヒトで、半年だけ藤田俊哉がプレイしていたのを思い出す。
『台南歴史深度旅遊』によれば、鄭成功軍との攻防において、勝敗を決定づけたのが烏特勒支堡の陥落であったという。
オランダにしてみれば、わずかしかない高台を軍事的に利用しない手はなかった。その辺は鄭氏政権、清代でも変わらなかったはずだから、砂が溜まってこの辺の軍事的価値がなくなって、はじめて墓地になったのかも知れない。