台鐵の線路を地下通路でくぐり、東門円環に向かう。
どうということのない高架下の道だが、暑い。deroren独りだから、まぁどうにでもなるが。
ルリマツリ(藍雪花)が咲いていた。日本名はマツリカ、要するにジャスミンに似ているという意味だが、分類上は全く関係ないので、台湾名の方が良い感じだ。
ちなみにこの花は熱帯植物というほどではなく、日本でも普通に栽培されている。ただし、日本の露地で3月に咲かせるのは難しい。
そうして東門円環の外れに出ると、小さな廟があった。正確にいえば、閉鎖されているので廟「だった」建物を発見したというべきか。
大人廟という、ちょっと珍しい名である。
大人廟 在臺灣縣保大里,其神聰明正直,亦是代天巡狩之神。(蔣毓英編『台湾府誌』)
大人廟在臺灣縣保大里。廟宇最為弘敞。(高拱乾編『台湾府志』)
17世紀の資料には、既に「大人廟」が載っている。「代天巡狩」とあるので、いわゆる王爺系の神とみられるが、とりあえず場所が全く異なるので、ここのことではない(保大里は帰仁区の地名との説がある)。
現在の祭神は朱府千歳ら三神なので、間違いなく王爺廟だが、台南市の案内板では、1716年の創建とされる。やはり、上の大人廟とは別という認識のようだ。
しかし清代の末期、市街の自衛組織を廟単位で作り上げた際には、この大人廟が、八協境の主廟となっている。あの東嶽殿をおさえてである。19世紀のここは相当な大廟だったらしい。
その後、東門円環を造る際に敷地が削られ、お金がなく廟宇の修復もままならない状況が続いたらしいことは、大人廟を取り上げたブログ記事で追うことができる。雨漏りがひどいと貼り紙がされている写真もある。
従って、このように閉鎖状態になったのも、神像を安置できる状況にないからだろうという想像がつく。
……と、ここまでは無難な話題。
ここからはやや眉唾な話題。
この「大人」が何を意味するか諸説あるが、実は鄭成功を指すという伝承がある。王浩一編『在廟口説書』は、その説に乗って面白おかしく廟の由来を語っている。
まぁ日本でいうところの「隠れキリシタン」みたいな話だ。「隠れキリシタン」は本当にあったから、比較するのもどうかと思うが。
※隠れキリシタン:17世紀,在日本基督教的信仰被禁止了。在那裡為佛教寺院的身姿偽裝教會,他們隱約地隱藏保持了信仰。「隱藏切支丹」,是那樣的基督教徒的名稱。
同書の言い分はこうだ。
鄭成功の軍は、普羅民遮城(プロヴィンシャ城、後の赤嵌楼のこと)のオランダ軍を降伏させたわけだが、両軍が交渉した場所は、崙子頂という地域であった。
なので人々は鄭成功を讃えて、崙子頂に彼を祀った。しかし清代になって、鄭成功を祀ることがはばかられるようになったため、王爺廟にカモフラージュした。それが、この大人廟なのである、と。
具体的に、朱府千歳は鄭成功(国性爺だから「朱」姓)、李府千歳は鄭経(「李」は「二」と音が近いから、二代目)、池府千歳は鄭克臧/土(鄭経の子。正しくは臧の下に土)だとも記してある。
鄭克臧/土は、弟の鄭克塽との跡目争いに敗れて殺された者。鄭克臧/土は有能な若者だったが殺され、無能な鄭克塽が政権を滅ぼしたという物語が、台湾ではよく語られている。日本でいうところの判官びいきである(延平郡王祠にも祀られている)。
なお、彼が池府千歳なのは、殺害後に彼の首が海に捨てられ、やがて水中から引き揚げられたから。つまり池=水+也だそうな。こじつけにも程があるゾ。
※判官びいき:12世紀末,比勝者源賴朝,同情集聚了在敗者源義經(判官)。「對弱者(判官)表示同情」,是從那裡產生的諺語。
ともかく、台南市政府は最近になって、東門円環に石碑を建てた。それはまさに、ここで鄭成功がオランダ軍を説得して降伏させたという碑である。
derorenはそこまで知らなかったし、あの円環の中心に行く気もなかったので確認していない。が、上の写真を見ると、右側に石柱が建っている。大きさから考えても、たぶんあれだろう。
日本には源義経の古蹟がたくさん存在する。義経が訪問していない地域にも点在している。ここは、そんな感じで生まれた「伝承の地」なのかなぁと思うderorenである。
どうせなら、鄭成功の霊が誰かに寄り憑いて語ったという話でもあればいいのに。
※日本,也有這樣的口傳。
源義經,在與源賴朝(哥哥)作戰的末了,渡行了蒙古。並且改變了名字。那個名,是「成吉思汗」。
台灣的諸位,是不是能相信這個話?